先住民族関連ニュース

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山形アマゾン民族館、閉館へ=貴重な資料、活用に期待=山口館長「魅力伝え続けたい」

2013-10-30 | アイヌ民族関連
ニッケイ新聞 2013年10月30日
山形県鶴岡市の「アマゾン民族館」(出羽庄内国際村内)、「アマゾン自然館」(月山あさひ博物村)が、市の財政状況を理由に2014年3月末で閉館することに決まった。文化人類学者の山口吉彦館長(71、山形)がパラー州を中心に、アマゾン地域で収集した先住民に関する民族学的資料1万点、生物学的資料2万点が収蔵されている。個人収集によるアマゾン関連資料としては、世界有数の規模と内容を誇り、関係者から惜しむ声が上がっている。
 同氏は71年からペルーの日本人学校で、76年から3年間、ベレン総領事館附属日本人学校の教員として勤務。その後もベレンにとどまり調査、研究を続け、80年、収集した資料を持って帰国し、同県鶴岡市の自宅に私設のアマゾン資料館を開設した。
 その後、自然館(91年)、民族館(94年)をオープンし、当初はそれぞれ年間約15万人、約5万人という記録的な入場者を得たが、現在はともに1割程度に激減。
 05年、運営主体である鶴岡市が市町村合併、また11年東日本大震災後は仙台、福島からの団体客が激減したこともあり、光熱費・人件費・企画展示費など、入場料と市の補助金で維持していく事が困難となり、鶴岡市の行財政推進協議会が両館の閉館を決定した。
 山口氏は「アマゾンの自然とインディオの生活の魅力と意義を、多くの人々に紹介出来たことは幸い。新しい環境で、研究を続けたいし、その魅力を伝えていけたら」と話している。
 日本がワシントン条約に加盟した1980年以前に収集された資料は、現在ブラジル国外に持ち出すことはほぼ不可能。
 それ以降はアマゾンの急速な開発により、先住民の生活様式は失われ、生態系も大きな影響を受けたこともあり、入手困難な資料が多く含まれることから、資料の有効的活用が課題となる。
 閉館後の資料の行方は未定としながらも、山口氏は「資料をこれまで同様、学術研究に役立てたいと願う」と、資料の提供・展示協力依頼があれば、積極的に協力する意向を明らかにしている。
 沼田行雄在ベレン日本国総領事も「長年にわたり、日本におけるアマゾン紹介の拠点として貢献してきた両館が閉鎖されるのは、大変残念。いずれも貴重な資料であるため、今後も有効活用されることを望みます」と述べている。
http://www.nikkeyshimbun.com.br/2013/131030-71colonia.html

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アイヌ儀式で豊漁祈願 シシャモの季節にカムイノミ

2013-10-30 | アイヌ民族関連
苫小牧民報 (2013年 10/29)
 鵡川アイヌ文化伝承保存会(佐渡日出男会長)主催で、シシャモの豊漁を祈願するシシャモ・カムイノミが27日、むかわ町汐見の鵡川河口左岸の「ムレトイの丘」で行われた。
 シシャモは、むかわ町の名産品。アイヌの伝説には、飢えで苦しむ人たちのため、神様が柳の葉を川に流し、魚に変えたという話もあり、漢字では「柳葉魚」と書く。
 むかわ町は、アイヌ民族の神様を祈願するカムイノミにシシャモの豊漁祈願も込め、同保存会が北海道アイヌ協会むかわ支部の協力を得て1992年から毎年10月に開催している。
 見学も含めて約120人が参加。会場のムレトイの丘は津波から人々を救った伝説が残る場で、イナウをささげた祭壇を構え、アイヌ民族の伝統衣装を着た男たちが、シシャモを備えた炉を囲んだ。海や山に魚といった神々を意味するイナウに祈りを込め、続いて、女性たちが供物を届けて先祖供養も行った。
 その後、苫小牧アイヌ文化保存会などが古式舞踊を披露し、さらに、参加者全員にシシャモ汁やごはんも振る舞われた。
 佐渡会長は「肌寒い中での儀式だったが、シシャモ荒れと言って寒さが厳しくなると、シシャモが寄ってくるとされる。ここ数年不漁が続いているので、きょうの願いが届いてくれたら」と話していた。
http://www.tomamin.co.jp/2013106585

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企画特集1【蘇る北方の光 アイヌ収蔵品展から】(下)異国の収集家

2013-10-30 | アイヌ民族関連
朝日新聞 2013年10月26日
■民族の証し 生活用具に
 【泉賢司】141点のアイヌ資料が展示されている「ロシアが見たアイヌ文化」展(小樽市総合博物館本館)。このうち103点は約100年前にポーランド人のアイヌ研究者、ピウスツキがサハリン(樺太)や北海道で集めたものだ。樺太アイヌや北海道アイヌが「アイヌ民族らしく生きていた時代の姿が見えてくる」。道立アイヌ民族文化研究センターの元研究主幹、古原(こはら)敏弘さん(61)は話す。
 ブロニスワフ・ピウスツキ(1866~1918)は帝政ロシア支配下のリトアニア生まれ。皇帝暗殺未遂事件に関わったとしてサハリンに流刑され、先住民族のアイヌやニヴフの人々と接する。10年の刑を終え、科学アカデミーの指示などでアイヌ資料を収集した。
 ピョートル大帝記念人類学民族学博物館が収蔵するアイヌ資料約1400点のうち、ピウスツキの収集資料は約850点に及ぶ。1995年から2001年にかけて、同館をはじめロシアの博物館にあるアイヌ資料の調査に参加した古原さんは「ピウスツキの資料は世界的にも有数のアイヌ資料」と話す。
 ピウスツキは樺太アイヌの音声をろう管に録音したことでも知られるが、その生涯は波乱に満ちていた。
 1903(明治36)年に白老と平取を訪れ、道内アイヌの着物などを収集。樺太アイヌの有力者のめいと結婚し、アイヌ子弟の学校開設や辞典作成にも取り組んだが、日露戦争で両国の関係が悪化する中、05(明治38)年に妻子を置いてサハリンを離れる。その後に滞在した東京では、二葉亭四迷らとも交友を結び、ポーランド独立運動に身を投じて、第1次大戦の終結前、パリで自死する。
 樺太アイヌの人々の運命も、歴史の渦にほんろうされた。
 ピウスツキがサハリンを訪れる前の1875(明治8)年に日ロが結んだ樺太千島交換条約を受け、開拓使により北海道・対雁(ついしかり)に強制移住させられた樺太アイヌは生活苦に追い込まれ、流行病で多くが命を失った。
 そして、第2次大戦末期、南下するソ連軍から逃れ、北海道に移住した樺太アイヌの人々も再び苦難に直面する。
 「本当は私たちの手で、この展覧会を開きたかった」。11日の開幕日、樺太アイヌ出身者らでつくる樺太アイヌ協会会長の田澤守さん(58)は話した。「自分たちはこういう生活をしていたんだということを見てもらいたかった」
 1998年、札幌で開かれたサハリン所蔵のアイヌ文化展で、田澤さんはぞくぞくする感覚を覚えた。展示品の器に張られたシールに祖母方の親戚「西川タミ」の名前を見つけたからだ。田澤さんの一家は漁船で宗谷にたどり着いたが、他の多くの樺太アイヌの人々と同様、着の身着のままで逃れてきたという。それだけに先祖につながる器が貴重だった。
 ピウスツキが集めた100年以上前の先祖の生活用具は、大陸との交流や極寒の地で生きる樺太アイヌの暮らしの知恵を物語る。「樺太アイヌと北海道のアイヌは文化も歴史も違う。北の地で先祖たちがダイナミックに生きていたのを感じる。自分たちのルーツを知るものがあるのは、とても大事なことだ」と田澤さん。資料は、いまを生きる子孫たちに民族の証しを伝えている。
http://www.asahi.com/area/hokkaido/articles/MTW20131028011200001.html

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白糠を満喫/飛鳥Ⅱの観光客

2013-10-30 | アイヌ民族関連
釧路新聞  2013年10月29日 09時40分更新
 釧路港に24日入港した国内最大級の客船「飛鳥Ⅱ」の乗客5人が来町し、アイヌ文化体験やチーズ工房見学、白糠の食材を生かした昼食などで白糠を満喫した。5人は博多港発着の日本一周クルーズツアー参加者で、釧路寄港中に提供される全11コースのオプションツアーの中から「アイヌ文化と北海道の豊かな食材に触れる白糠満喫ツアー」を選択した。釧路港から貸し切りバスで訪れた一行は、町和天別にあるアイヌ文化拠点施設「ウレシパチセ」でアイヌ文化保存会の会員によるアイヌ民族の音楽や古式舞踊を鑑賞した。また会員のアドバイスを受けながらアイヌ文様の刺しゅうも体験した。 
http://www.news-kushiro.jp/news/20131029/201310294.html

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企画特集1【蘇る北方の光 アイヌ収蔵品展から】(中)絵師のまなざし

2013-10-30 | アイヌ民族関連
朝日新聞 2013年10月25日
■厳しい現実 映し出す
 【泉賢司】アワビを刃物で殻から外し、釜でゆでて天日に干す。浜で働くアイヌ女性らを描いた平沢屏山(びょうざん)の「干しアワビ造り図」だ。
 開催中の「ロシアが見たアイヌ文化」展(小樽市総合博物館本館)で、国内初公開されている屏山作品3点の一つ。縦24センチ、横40センチほどの和紙に描かれた「アイヌ絵」には、左の入り江にアワビ漁であろうか2そうの小舟が浮かび、沖には北前船のものらしき大きな帆が3張、風をはらむ。
 「黒目が光るようにニカワを使ったり、光線の具合で器の細かい模様が浮かび上がったり、技巧を凝らしています」。約15年にわたって絵師屏山を調べ、同展の図録に解説文を書いた道立近代美術館の主任学芸員、五十嵐聡美さん(49)は話す。
 屏山は1822(文政5)年、奥州稗貫郡大迫村(岩手県花巻市)の生まれ。弟を伴って函館に移住し、初めは船乗りに売る絵馬を描いていた。豪商杉浦嘉七と知り合い、その請負場所だった十勝を訪れてアイヌの人々に接する。この時の見聞などをもとに函館でアイヌの風俗画を描き始めると、細密な描写が評判を呼び、土産物として外国人に人気を博した。
 だが、無類の酒好き。河野常吉編著「北海道史人名字彙(い)」には「屏山磊落不羈(らいらくふき)にして酒を嗜(たしな)み、容易に画(か)かず。而(しか)して一度筆を揮(ふる)えば咄々(とつとつ)真に逼(せま)るものあり」と記されている。大金で注文したのに描かない屏山に腹を立てた貿易商で博物学者の英人ブラキストンに殴られたり、ロシア領事に運上所に訴えられてようやく筆を執ったりと、逸話には事欠かない。
 絵には、注文主が与えたとも見られる外国製の紙や顔料も使われ、とりわけアイヌ衣装の鮮やかな青(ウルトラマリンブルー)は「屏山の青」とも称される。五十嵐さんらの調査で、今回の展示品は1868(明治元)年冬に描かれた連作の一部と見られることもわかった。
 土産物なので小さな絵が多いが、欧米に伝わる屏山の絵の中には、画面の奥に描かれた小さな屏風(びょうぶ)の中に、さらに細密な屏風絵が描かれたものなどがあり、絵師としての技量の高さを裏付けている。
 屏山が題材にしたのは、酒宴の様子や女性たちによる調理、男たちの漁労の場面などアイヌの人々の暮らしだ。一見、何事もない日常だが、五十嵐さんは絵の背後に、当時のアイヌの人々が直面した現実が映し出されているという。
 干しアワビ造り図の女性たちは、和人の請負場所などに労働力として集められ、有力な輸出品「長崎俵物」の生産に従事させられた姿であった。北前船は買い付けに来たのだろうか。男たちも漁に駆り出され、働き手のいなくなったコタン(集落)は疲弊していく。
 五十嵐さんは「絵には買う人が見たいものが描かれた。だが、いま絵を見れば、その背景に思いを致さざるを得ない」という。和人の絵師が描いたアイヌの暮らしの背後に、民族の厳しい歴史が扉を開けている。
http://www.asahi.com/area/hokkaido/articles/MTW20131025011200001.html

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