〜岩上安身によるアイヌ民族博物館 野本正博館長インタビュー
岩上安身責任編集 - IWJ Independent Web Journal 2013年10月1日
【秋の夜長に~特別蔵出し】会員以外の方へも10月3日まで公開します!
「観光アイヌと言われながらも、経済的自立が、私たちの伝統文化の継承と保存を可能にした」──。
2013年8月6日、北海道白老町のアイヌ民族博物館で、岩上安身による野本正博館長へのインタビューが行われた。白老ポロトコタンと呼ばれる公園内にある同博物館は、北海道の先住民族であるアイヌの歴史、有形・無形の文化などを紹介している。野本氏は「アイヌ民族である自分が考える『文化』と、従来の政策的に用いられてきた『文化』とは異なる」と述べて、歴史を振り返りながら、アイヌ文化の継承について語った。
※掲載期間終了後は、会員限定記事となります。
◆異文化が観光の対象に
1976年、アイヌ文化の伝承・保存、調査・研究などを目的に白老民族文化伝承保存財団が設立され、1984年にはアイヌ民族博物館が開館している。これらが白老町に設立された経緯について、野本氏は「明治以降の同化政策により、アイヌの自由や権利は失われた。一方、北海道は資源の宝庫で、開拓を進めるために早くから鉄道が敷かれた。アイヌの大きな集落があった白老町にも鉄道が通り、日本人の行き来が多くなると、異民族のアイヌは興味の対象になり、それをビジネスにする人が出てきた」と説明を始めた。
「明治の終わりから大正にかけて、アイヌはすでに近代的な住居に住んでいたが、伝統的な住居であるポロチセ(通常の住居であるチセよりひと回り大きく、集会所としても使用される)を利用し、囲炉裏に座って観光客を出迎え、伝統舞踊などを見せて現金収入を稼いだ。ただ、すべてのアイヌがそれを快く思っていたわけではなく、ここでは浜で漁をして暮らす人たちも多かった」。
岩上が「本州の人間にとっては、木彫りの熊の民芸品を作っているイメージがあるが」と率直に述べると、野本氏は「戦前には、お盆や杖など、伝統からあまり離れない実用品を作って販売していた。戦後、旅行代理店のタイアップなどで、観光ビジネスに人が群がるようになり、木彫りの熊はお土産品の主流になった」とし、「観光で自分たちの文化を見せたのがアイヌ。その周囲で商売をしたのが日本人、という構図があった」と指摘した。
◆経済的自立と民族の誇りと
さらに、野本氏は「昭和30年代の終わりには、小さな町に年間60万人の観光客が訪れていたが、対応が追いつかず、粗悪品を出す業者もいてクレームが増えた。イメージ悪化を懸念した北海道は、白老町に行政指導を行い、湖(ポロト湖)がある場所にアイヌの人たちを集中的に移転させ、アイヌ観光の拠点にして、白老町の第三セクター、白老観光コンサルタントに運営を任せた」と、観光施設としてのポロトコタンの成り立ちを語った。
「アイヌが観光の目玉として注目される一方で、大きな騒動もあった。1970年代に、『北海道開拓100年』を謳った各種イベントが開かれたが、それは開拓者にとっての話で、アイヌにとっては屈辱だった。『白老町はアイヌを商品化、食いものにしている』との批判も強く、ついに1974年、白老町長が刃物で襲撃される事件が起きた。この時、刺した方も、刺された方も日本人だった」。
これをきっかけに、白老町は白老観光コンサルタントを解散し、アイヌの人たちによる白老民族文化伝承保存財団を設立。以後37年間、アイヌ自身がポロトコタンを運営してきたことで、批判はなくなったという。野本氏は「アイヌにとって、観光化に抵抗があることも事実。一方で、『食えないとしょうがない』とも考える。また、経済的に自立することが、伝統文化の継承と保存を可能にしている面もある」と、複雑な事情を打ち明けた。そして、「その後、アイヌ民族博物館ができたことで、学術的な研究も進み、アイヌ文化の価値が上がった。今、ここで働く人たちにも民族の誇りが芽生えた」と話した。
◆先住民族の権利と尊厳とは
白老町は日本で一番アイヌが多く、人口2万人のうちの1割はアイヌだという。野本氏は地元育ちであり、アイヌの両親の下に生まれた。岩上が「子どもの頃、アイヌ語を聞かされたりしたか」と尋ねると、「家庭内では日本語だったが、祖父母や親戚たちの間では明らかに違う言葉が出ていた。また、生活習慣などにアイヌの伝統が残っていた。たとえば、川での鮭漁は禁止されたが、鮭にまつわる儀礼があったりする。先祖供養の仕方は明らかに日本と違い、供え物の西瓜は砕く、ビールは栓を開ける。『その形のままではなく、砕くことによって、先祖に供え物の魂を届ける』という考え方が根本にある」と答えた。
「先住民族の権利を認める動きは、外国から起こり、日本がそれに続いた。この点をどう思うか」という岩上の質問に、野本氏は「2008年、先住民族としての権利を認める決議案が、初めて国会で通った。しかし、それで幸せになったのかというと、自分たちの生活は変わっていない。国連基準の先住民族の権利と、日本のそれとは違うのではないかと思う」と述べ、「民族的な文化とは、選択し、習得していくものだが、自由が保証されていなければ、選択が難しい。自分のアイデンティティーを自由に表現できることが大事だ」と主張した。
また、「制定された法律は文化だけに特化しているが、文化とは土地に根ざしたもので、それだけが浮遊してはならない」とした。そして、「当事者としては、工芸や踊りより、アイヌの言語を復活させたい。明治政府はアイヌ語を使わせなかったし、アイヌも生きる上で日本語を選択した。政府は『アイヌの尊厳を尊重する』というが、それが、どれだけ重いものかを理解した上で、アイヌ政策を決定してほしい」と要望した。
◆新しい哲学を持ち、アイヌ文化の発信を
さらに、白老に国立博物館やアイヌ文化を継承する象徴空間を作るという政府のプロジェクトについて、「これは北海道だけの問題ではなく、日本中に広く知ってほしいことだ。新しい世代が、飛行機で新千歳空港に降りた時、『先住民族の土地に来た』と思ってもらいたい。日本の近代化の陰に、アイヌの人たちの犠牲があったことを忘れないでほしい」と続けた。
最後に、野本氏は「個人的には、縄文時代まで遡れば、アイヌと日本人がそれほど違っていたとは思わない。しかし、歴史上、アイヌが異民族と見なされてきたことも事実。今のアジア近隣諸国との問題のように、政治や経済で解決されないのなら、文化で解決を。新しくできる国立博物館は、従来とはまったく違う方法で先住民族の文化を伝える、新しい哲学を持った博物館であってほしい」と、力強く語った。【IWJテキストスタッフ・阿部玲/奥松】
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/103373
岩上安身責任編集 - IWJ Independent Web Journal 2013年10月1日
【秋の夜長に~特別蔵出し】会員以外の方へも10月3日まで公開します!
「観光アイヌと言われながらも、経済的自立が、私たちの伝統文化の継承と保存を可能にした」──。
2013年8月6日、北海道白老町のアイヌ民族博物館で、岩上安身による野本正博館長へのインタビューが行われた。白老ポロトコタンと呼ばれる公園内にある同博物館は、北海道の先住民族であるアイヌの歴史、有形・無形の文化などを紹介している。野本氏は「アイヌ民族である自分が考える『文化』と、従来の政策的に用いられてきた『文化』とは異なる」と述べて、歴史を振り返りながら、アイヌ文化の継承について語った。
※掲載期間終了後は、会員限定記事となります。
◆異文化が観光の対象に
1976年、アイヌ文化の伝承・保存、調査・研究などを目的に白老民族文化伝承保存財団が設立され、1984年にはアイヌ民族博物館が開館している。これらが白老町に設立された経緯について、野本氏は「明治以降の同化政策により、アイヌの自由や権利は失われた。一方、北海道は資源の宝庫で、開拓を進めるために早くから鉄道が敷かれた。アイヌの大きな集落があった白老町にも鉄道が通り、日本人の行き来が多くなると、異民族のアイヌは興味の対象になり、それをビジネスにする人が出てきた」と説明を始めた。
「明治の終わりから大正にかけて、アイヌはすでに近代的な住居に住んでいたが、伝統的な住居であるポロチセ(通常の住居であるチセよりひと回り大きく、集会所としても使用される)を利用し、囲炉裏に座って観光客を出迎え、伝統舞踊などを見せて現金収入を稼いだ。ただ、すべてのアイヌがそれを快く思っていたわけではなく、ここでは浜で漁をして暮らす人たちも多かった」。
岩上が「本州の人間にとっては、木彫りの熊の民芸品を作っているイメージがあるが」と率直に述べると、野本氏は「戦前には、お盆や杖など、伝統からあまり離れない実用品を作って販売していた。戦後、旅行代理店のタイアップなどで、観光ビジネスに人が群がるようになり、木彫りの熊はお土産品の主流になった」とし、「観光で自分たちの文化を見せたのがアイヌ。その周囲で商売をしたのが日本人、という構図があった」と指摘した。
◆経済的自立と民族の誇りと
さらに、野本氏は「昭和30年代の終わりには、小さな町に年間60万人の観光客が訪れていたが、対応が追いつかず、粗悪品を出す業者もいてクレームが増えた。イメージ悪化を懸念した北海道は、白老町に行政指導を行い、湖(ポロト湖)がある場所にアイヌの人たちを集中的に移転させ、アイヌ観光の拠点にして、白老町の第三セクター、白老観光コンサルタントに運営を任せた」と、観光施設としてのポロトコタンの成り立ちを語った。
「アイヌが観光の目玉として注目される一方で、大きな騒動もあった。1970年代に、『北海道開拓100年』を謳った各種イベントが開かれたが、それは開拓者にとっての話で、アイヌにとっては屈辱だった。『白老町はアイヌを商品化、食いものにしている』との批判も強く、ついに1974年、白老町長が刃物で襲撃される事件が起きた。この時、刺した方も、刺された方も日本人だった」。
これをきっかけに、白老町は白老観光コンサルタントを解散し、アイヌの人たちによる白老民族文化伝承保存財団を設立。以後37年間、アイヌ自身がポロトコタンを運営してきたことで、批判はなくなったという。野本氏は「アイヌにとって、観光化に抵抗があることも事実。一方で、『食えないとしょうがない』とも考える。また、経済的に自立することが、伝統文化の継承と保存を可能にしている面もある」と、複雑な事情を打ち明けた。そして、「その後、アイヌ民族博物館ができたことで、学術的な研究も進み、アイヌ文化の価値が上がった。今、ここで働く人たちにも民族の誇りが芽生えた」と話した。
◆先住民族の権利と尊厳とは
白老町は日本で一番アイヌが多く、人口2万人のうちの1割はアイヌだという。野本氏は地元育ちであり、アイヌの両親の下に生まれた。岩上が「子どもの頃、アイヌ語を聞かされたりしたか」と尋ねると、「家庭内では日本語だったが、祖父母や親戚たちの間では明らかに違う言葉が出ていた。また、生活習慣などにアイヌの伝統が残っていた。たとえば、川での鮭漁は禁止されたが、鮭にまつわる儀礼があったりする。先祖供養の仕方は明らかに日本と違い、供え物の西瓜は砕く、ビールは栓を開ける。『その形のままではなく、砕くことによって、先祖に供え物の魂を届ける』という考え方が根本にある」と答えた。
「先住民族の権利を認める動きは、外国から起こり、日本がそれに続いた。この点をどう思うか」という岩上の質問に、野本氏は「2008年、先住民族としての権利を認める決議案が、初めて国会で通った。しかし、それで幸せになったのかというと、自分たちの生活は変わっていない。国連基準の先住民族の権利と、日本のそれとは違うのではないかと思う」と述べ、「民族的な文化とは、選択し、習得していくものだが、自由が保証されていなければ、選択が難しい。自分のアイデンティティーを自由に表現できることが大事だ」と主張した。
また、「制定された法律は文化だけに特化しているが、文化とは土地に根ざしたもので、それだけが浮遊してはならない」とした。そして、「当事者としては、工芸や踊りより、アイヌの言語を復活させたい。明治政府はアイヌ語を使わせなかったし、アイヌも生きる上で日本語を選択した。政府は『アイヌの尊厳を尊重する』というが、それが、どれだけ重いものかを理解した上で、アイヌ政策を決定してほしい」と要望した。
◆新しい哲学を持ち、アイヌ文化の発信を
さらに、白老に国立博物館やアイヌ文化を継承する象徴空間を作るという政府のプロジェクトについて、「これは北海道だけの問題ではなく、日本中に広く知ってほしいことだ。新しい世代が、飛行機で新千歳空港に降りた時、『先住民族の土地に来た』と思ってもらいたい。日本の近代化の陰に、アイヌの人たちの犠牲があったことを忘れないでほしい」と続けた。
最後に、野本氏は「個人的には、縄文時代まで遡れば、アイヌと日本人がそれほど違っていたとは思わない。しかし、歴史上、アイヌが異民族と見なされてきたことも事実。今のアジア近隣諸国との問題のように、政治や経済で解決されないのなら、文化で解決を。新しくできる国立博物館は、従来とはまったく違う方法で先住民族の文化を伝える、新しい哲学を持った博物館であってほしい」と、力強く語った。【IWJテキストスタッフ・阿部玲/奥松】
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/103373