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企画特集1【蘇る北方の光 アイヌ収蔵品展から】(下)異国の収集家

2013-10-30 | アイヌ民族関連
朝日新聞 2013年10月26日
■民族の証し 生活用具に
 【泉賢司】141点のアイヌ資料が展示されている「ロシアが見たアイヌ文化」展(小樽市総合博物館本館)。このうち103点は約100年前にポーランド人のアイヌ研究者、ピウスツキがサハリン(樺太)や北海道で集めたものだ。樺太アイヌや北海道アイヌが「アイヌ民族らしく生きていた時代の姿が見えてくる」。道立アイヌ民族文化研究センターの元研究主幹、古原(こはら)敏弘さん(61)は話す。
 ブロニスワフ・ピウスツキ(1866~1918)は帝政ロシア支配下のリトアニア生まれ。皇帝暗殺未遂事件に関わったとしてサハリンに流刑され、先住民族のアイヌやニヴフの人々と接する。10年の刑を終え、科学アカデミーの指示などでアイヌ資料を収集した。
 ピョートル大帝記念人類学民族学博物館が収蔵するアイヌ資料約1400点のうち、ピウスツキの収集資料は約850点に及ぶ。1995年から2001年にかけて、同館をはじめロシアの博物館にあるアイヌ資料の調査に参加した古原さんは「ピウスツキの資料は世界的にも有数のアイヌ資料」と話す。
 ピウスツキは樺太アイヌの音声をろう管に録音したことでも知られるが、その生涯は波乱に満ちていた。
 1903(明治36)年に白老と平取を訪れ、道内アイヌの着物などを収集。樺太アイヌの有力者のめいと結婚し、アイヌ子弟の学校開設や辞典作成にも取り組んだが、日露戦争で両国の関係が悪化する中、05(明治38)年に妻子を置いてサハリンを離れる。その後に滞在した東京では、二葉亭四迷らとも交友を結び、ポーランド独立運動に身を投じて、第1次大戦の終結前、パリで自死する。
 樺太アイヌの人々の運命も、歴史の渦にほんろうされた。
 ピウスツキがサハリンを訪れる前の1875(明治8)年に日ロが結んだ樺太千島交換条約を受け、開拓使により北海道・対雁(ついしかり)に強制移住させられた樺太アイヌは生活苦に追い込まれ、流行病で多くが命を失った。
 そして、第2次大戦末期、南下するソ連軍から逃れ、北海道に移住した樺太アイヌの人々も再び苦難に直面する。
 「本当は私たちの手で、この展覧会を開きたかった」。11日の開幕日、樺太アイヌ出身者らでつくる樺太アイヌ協会会長の田澤守さん(58)は話した。「自分たちはこういう生活をしていたんだということを見てもらいたかった」
 1998年、札幌で開かれたサハリン所蔵のアイヌ文化展で、田澤さんはぞくぞくする感覚を覚えた。展示品の器に張られたシールに祖母方の親戚「西川タミ」の名前を見つけたからだ。田澤さんの一家は漁船で宗谷にたどり着いたが、他の多くの樺太アイヌの人々と同様、着の身着のままで逃れてきたという。それだけに先祖につながる器が貴重だった。
 ピウスツキが集めた100年以上前の先祖の生活用具は、大陸との交流や極寒の地で生きる樺太アイヌの暮らしの知恵を物語る。「樺太アイヌと北海道のアイヌは文化も歴史も違う。北の地で先祖たちがダイナミックに生きていたのを感じる。自分たちのルーツを知るものがあるのは、とても大事なことだ」と田澤さん。資料は、いまを生きる子孫たちに民族の証しを伝えている。
http://www.asahi.com/area/hokkaido/articles/MTW20131028011200001.html
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