北海道新聞 (10/17 16:00)
【千歳】「父はクマですね。本当にクマを知り尽くしたハンターだった」。14日に90歳で亡くなったアイヌ民族の猟師姉崎等さんについて、長女の渡部さゆりさん(55)は振り返る。「クマは私の師匠」と生前語っていた姉崎さんは、クマを追う一方、広葉樹の少なくなった山を憂えて、クマが暮らしやすい自然環境を守ることを訴え続けていた。
胆振管内鵡川村(現むかわ町)出身の姉崎さんは、1920年代後半に千歳へ移り、アイヌ民族の集落で暮らした。母親がアイヌ民族で、父が屯田兵。12歳からイタチや野ウサギを捕って家を支え、戦後も結核で体の弱かった妻の治療費などをつくるため、米軍基地で働きながらクマなどを追い、90年頃まで猟を続けた。
「私は、クマを自分の師匠だと本気で思っています」。著書「クマにあったらどうするか」(木楽舎、2002年)の書き出しで、姉崎さんはこう語った。山の歩き方は、クマの跡を追うことで学び、そのうちにクマの行動を知ったという。
40年来の付き合いがあるヒグマ学習センターの前田菜穂子代表(65)は「発信器を付けたクマの行動監視に協力してくれた時には、発信器では分からない細かい場所を当ててくれた。神業に近かった」と話す。
クマや自然への感謝も忘れない。渡部さんは40年前、自宅の裏で行った儀式を覚えている。捕らえたクマの毛皮と頭蓋骨をまつり、近所のお年寄りが踊る。「肉は絶対に売らず、分けて食べた。感謝を込めて、命をいただいていた」と語る。
姉崎さんは、請われれば講演なども行った。そこで訴えたのは、人工林で木の実がならない針葉樹が増えることの弊害と、クマが暮らせる山の自然を守ることの大切さだ。「動物と人間の境界線が大事と考えていた」と渡部さん。クマを知り尽くしたからこそ、クマの立場で考えて環境保護を語っていた。(鈴木誠)
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/sapporo/498511.html
【千歳】「父はクマですね。本当にクマを知り尽くしたハンターだった」。14日に90歳で亡くなったアイヌ民族の猟師姉崎等さんについて、長女の渡部さゆりさん(55)は振り返る。「クマは私の師匠」と生前語っていた姉崎さんは、クマを追う一方、広葉樹の少なくなった山を憂えて、クマが暮らしやすい自然環境を守ることを訴え続けていた。
胆振管内鵡川村(現むかわ町)出身の姉崎さんは、1920年代後半に千歳へ移り、アイヌ民族の集落で暮らした。母親がアイヌ民族で、父が屯田兵。12歳からイタチや野ウサギを捕って家を支え、戦後も結核で体の弱かった妻の治療費などをつくるため、米軍基地で働きながらクマなどを追い、90年頃まで猟を続けた。
「私は、クマを自分の師匠だと本気で思っています」。著書「クマにあったらどうするか」(木楽舎、2002年)の書き出しで、姉崎さんはこう語った。山の歩き方は、クマの跡を追うことで学び、そのうちにクマの行動を知ったという。
40年来の付き合いがあるヒグマ学習センターの前田菜穂子代表(65)は「発信器を付けたクマの行動監視に協力してくれた時には、発信器では分からない細かい場所を当ててくれた。神業に近かった」と話す。
クマや自然への感謝も忘れない。渡部さんは40年前、自宅の裏で行った儀式を覚えている。捕らえたクマの毛皮と頭蓋骨をまつり、近所のお年寄りが踊る。「肉は絶対に売らず、分けて食べた。感謝を込めて、命をいただいていた」と語る。
姉崎さんは、請われれば講演なども行った。そこで訴えたのは、人工林で木の実がならない針葉樹が増えることの弊害と、クマが暮らせる山の自然を守ることの大切さだ。「動物と人間の境界線が大事と考えていた」と渡部さん。クマを知り尽くしたからこそ、クマの立場で考えて環境保護を語っていた。(鈴木誠)
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/sapporo/498511.html