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鉱物の部屋へのいざない

金沢博物館 続報2

2017-01-17 14:58:21 | 日記・エッセイ・コラム
まず、数値の差に驚きました。東京都・豊洲市場の地下水の有害物質の濃度の事ではありません。金沢博物館の鉱物館にあったという鉱物標本の品数の事です。

昨日は雪で、来店者が少なかった事もあり、以前から気になっていた調べものをする為に、石川県立図書館(その発祥は金沢博物館に遡る施設です。)に行きました。そこで幾つかの資料をリサーチして来ました。

今日は、それらの中で最も驚いた事について書きます。

図書カウンターに頼んで出してもらった「石川県勧業博物館創立二十年略記」(1894年)を調べてみました。先日、近世資料館で出してもらった「石川県勧業博物館創立十年略記」は原本そのものだったのですが、今回は手書きの写本で、しかもそのコピーという状態でした。ただし、しっかり製本されておりましたので、恐る恐る原本を見るよりも読みやすかったと思います。

それで、前と同じように鉱物部の表記の部分を探しました。すると、十年略記と同じような箇所に同じような文言で書いてありました。

で、そこで驚きました。そこに書かれていたのは「本部ノ品数二千五百七十四種其内二千余種ハ外国ノ産ニシテ加藩ノ外国学士ニ命ジ数万金ヲ以蒐集セル所ナリ金石各種ノ見本殆漏ル?ク金石学ヲ修スル者ニ於ハ殊ニ貴重ノ標本ナリ」でした。

十年略記では3800余(外国産2300余+国産1450余)となっていたのに二十年略記では2574種(外国産2000余)という数値に減っていたのです。

何という事でしょうか!それらは既に明治時代に大幅に減少しておりました。それも減っているのはどうも国産鉱物が大半だったようです。その十年間の間に何があったのでしょうか?今となってはその真相を知る術もないのですが、それが事実だったとすると非常に残念な事です。

金沢博物館(石川県勧業博物館)は1908(明治41年)9月、32年の長きにわたる博物館活動に終止符がうたれ、成巽閣(新巽殿)、図書館、倉庫は前田家に譲渡、他の主要建築物は兼六園の西北隅に移築されたようです。また、その翌年の5月、東本館を会場として「石川県物産陳列館」(大正10年石川県商品陳列所と改称され、昭和11年に廃止されるまで続く)として再出発することになったそうです。(図書館はその後前田家から返され、明治45年1月に石川県立図書館となり、その後、本多町に移転し今日に至っています。)

石川県立図書館では他にも興味深い周辺情報を得る事ができました。その辺についてはまた後日。
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