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鉱物の部屋へのいざない

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和田維四郎

2017-02-07 14:01:46 | 日記・エッセイ・コラム
久しぶりのブログ更新となります。実は2月2日の夕方にポルテ金沢でおきた衝撃的な火災事故の現場に居合わせた事のショックが大きかったせいか、これまでなかなか筆が進みませんでした。私の心はようやく少し癒えてきたようです。

で、今日は「和田維四郎」です。このブログでは人名がタイトルになるのは「飯盛里安」(2014.04.18)以来、二度目となります。

和田維四郎(わだ つなしろう)、鉱物学の世界では、言わずと知れたビッグネームです。この名前はこのブログでも何度か出てきたと思いますが、ナウマンが日本の地質学の父と言われるなら、日本の鉱物学の父と言って良い人物だと思います。

その和田維四郎のWikipediaを見ていましたら、明治10年、第一回内国勧業博覧会の鉱物関係の審査員となり、東京大学への鉱物標本の購入に尽力する、と出ておりました。さらに明治23年、第三回内国勧業博覧会の第六審査部長となり、地質調査所の所長となる、ともあります。

その時期が重要なカギとなり、ある仮説が考えられます。その仮説とは和田維四郎が金沢博物館の鉱物標本の行方に関係していたのではないだろうか?というものです。

金沢博物館は明治9年に開設されましたが、当時の国策により、明治11年に勧業博物館に改称し、明治13年に石川県勧業博物館になりました。そして、開設十年から二十年になる過程で、多くの主に国産鉱物標本の数が減っておりました。その背景には、当時の政府が各府県に命じて各府県に産する鉱物を蒐集させていたという事実があります。その当時、鉱物標本の価値がわかる人物はそれほど多くなかったと思われますし、和田維四郎は政府関係者として、最適な人材だったのではないでしょうか?

調べた訳ではありませんが、金沢博物館の鉱物標本だけではなく、恐らく、全国各地の勧業博物館の鉱物標本が和田維四郎によって集められた可能性があるのではないでしょうか?そして、全国から集められた一部はウィーンでの万国博覧会に出品され(ウィーン自然史博物館にも見事な日本産鉱物標本コーナーがあります。)、残された一部は和田維四郎によって整理研究されたようです。

それらの中から有用なものや学術上価値あるものは「本邦産金石略誌」(明治11年)として刊行されております。

和田維四郎はその後も本邦産鉱物標本の採集、蒐集に異常の努力と費用とを払ったらしく、それらは「日本鉱物誌」(明治37年)として刊行され、貴重な国産鉱物の海外流出の防止に貢献したらしいのです。

まだ続きます。「日本鉱物誌」以後に蒐集したものは「本邦産鉱物標本」(明治40年)として刊行され、それが「和田標本」(三菱マテリアル所蔵)になるようです。(その後も「日本鉱物誌第2版」は大正5年、第3版上は昭和22年で、大正9年没の死後まで続きます。)

今回の仮説が正しいとすると、金沢博物館由来の国産鉱物標本の中から良いものは和田維四郎によって選ばれ、海外に流出する事なく、残されたという事になります。幸いにもそれらはしっかりと保管されており、標本的には良かったという事になりそうです。

ただ、金沢博物館の外国産鉱物(デッケンさんの持ち込んだもの?)の行方はまだ不明のままです。

今回、私は市川新松の書き残した文書から和田維四郎の異常とも言える収集癖だったという事実に行き着いた訳ですが、それにしても、お二人とも福井県出身者であった事が何となく不思議な感じがしております。

そう言えば、3年後の2020年は和田維四郎没後100年の年に当たります。その頃までに和田維四郎ゆかりの「三菱ミネラルコレクション」の一般公開を願いたいところです。




コメント (1)
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