台湾での2日目。今日は午前中は市内視察(観光?)。龍山寺に中正紀念堂を訪問した。中正とは中華民国建国の父である蒋介石氏の本名である。台北市内にある広大な敷地に、荘厳な記念堂が建っている。
そして、毎時陸海空軍の衛兵が毎時0分に交代式を行う。実際に軍隊で行っている衛兵交代とは趣が違い、ドリルといって、演技に近いものだ。私も自衛隊生徒2年生の時に、このドリルを練習させられたが、台湾のそれは、そんな生易しいものではなかった。没後も、正規軍によって護られている建国の父は幸せであろう。
さて、石鍋料理の昼食をとって向かったのは国立空中大学である。これは、日本の放送大学と同様に、遠隔授業を中心にして台湾全土で大学の授業を受けることができる正規の大学である。ただし、日本の放送大学が特殊法人立であるのに対し、空中大学は国立大学である点が少し違う。
学内に入ると、なんと和服姿の女性のイラスト入りの電飾看板に「歓迎 日本放送大學」の文字があるではないか。そして、大教室には学長先生はじめ日本語学科の先生方、在校生、OB会理事長などがわれわれのために集まってくれていた。
学長先生のご挨拶の後、ペナント交換が行われた。実は、出発の2日前、台湾側が「ペナント交換をするらしいから何か用意せよ」との指令が私のもとに届いた。もはやインターネットで作る暇はない。そこで、地元の中学校のPTAのご縁で知り合った蒲田の「トロフィー屋さん」のご主人に事情を話、超特急でペナントならぬ立派な記念盾を作っていただいた。
その後、相互の学生の自己紹介になったが、私が「学部卒業に25年かかった」と話すと台湾側の学生から「私は20年だ」だの「20年前に入学したが、まだ卒業していない」などの紹介が続き、同じ境遇の仲間意識を痛感した。
さらに、「しかし、修士は2年で修了できた。これには、ゼミの後に行われていた通称夜間部(飲み会)が重要な意味をもっていた。あれがなければ、修士は30年かかったと思う」と発表すると、空中大学の主任先生から「では、いまから飲み会をやろう」との提案があり、大学の前にある居酒屋へ全員で繰り出した。
お母さんと共に空中大学の学部で学んでいるという台湾大学大学院の女子学生(日本では二重学籍は認められないが台湾はOK)、基隆地方の美人女性元村長さん、さらには、空中大学の通称エミ先生の話はたまげた。
彼女は、15歳で美容師の見習いになり、21歳で夜間高校に入学。6年間で卒業し空中大学に入学したそうだ。空中大学を卒業したときには、美容院2店舗を経営していたが、もっと学びを深めたいと、我が国の国費留学生を受験し見事合格、上越教育大学大学院において学んだ。
ここで、彼女の凄いのは「一極集中」のため、美容院を人に譲って勉学に打ち込む決意をしたといういのだ。現在は、空中大學で日本語の教員をしている。
われわれが行った居酒屋さん、えらく混んでいた。実は明日は母の日。台湾では、母の日は一大イベントだそうで、家族で居酒屋さんに繰り出してきたようだ。
そこで、あまり騒いでは日台関係にひびがはいってはいけない。日本から持参した「謝謝世界最大的支援」という横断幕を壁にはらしていただき、空中大学の先生に通訳をしていただいたところ、これまた、温かい拍手をいただいた。台湾は本当に親日的でいい国だ。
宴会が終わり、地下鉄で台北駅前のホテルへ移動したが、せっかく横断幕を持っているのなら、ということで、地下鉄の車内、ホーム、改札と、この横断幕をひろげて歩いたところ、大騒ぎ。
まるで、アイドルのようにカメラを向けられた。台湾の障害者団体の会長さんは、車内で名刺を下さり「日本がんばれ」と声援をくださった。ひとつ覚えの「謝謝」しか言うことができなかったが、謝意を表現できたかな、と思う。
部屋にかえれば、同室の同期生は「夜の国際交流」に出かけて不在。もう十分飲んだから、今日はおとなしく寝ることにしよう。
そして、毎時陸海空軍の衛兵が毎時0分に交代式を行う。実際に軍隊で行っている衛兵交代とは趣が違い、ドリルといって、演技に近いものだ。私も自衛隊生徒2年生の時に、このドリルを練習させられたが、台湾のそれは、そんな生易しいものではなかった。没後も、正規軍によって護られている建国の父は幸せであろう。
さて、石鍋料理の昼食をとって向かったのは国立空中大学である。これは、日本の放送大学と同様に、遠隔授業を中心にして台湾全土で大学の授業を受けることができる正規の大学である。ただし、日本の放送大学が特殊法人立であるのに対し、空中大学は国立大学である点が少し違う。
学内に入ると、なんと和服姿の女性のイラスト入りの電飾看板に「歓迎 日本放送大學」の文字があるではないか。そして、大教室には学長先生はじめ日本語学科の先生方、在校生、OB会理事長などがわれわれのために集まってくれていた。
学長先生のご挨拶の後、ペナント交換が行われた。実は、出発の2日前、台湾側が「ペナント交換をするらしいから何か用意せよ」との指令が私のもとに届いた。もはやインターネットで作る暇はない。そこで、地元の中学校のPTAのご縁で知り合った蒲田の「トロフィー屋さん」のご主人に事情を話、超特急でペナントならぬ立派な記念盾を作っていただいた。
その後、相互の学生の自己紹介になったが、私が「学部卒業に25年かかった」と話すと台湾側の学生から「私は20年だ」だの「20年前に入学したが、まだ卒業していない」などの紹介が続き、同じ境遇の仲間意識を痛感した。
さらに、「しかし、修士は2年で修了できた。これには、ゼミの後に行われていた通称夜間部(飲み会)が重要な意味をもっていた。あれがなければ、修士は30年かかったと思う」と発表すると、空中大学の主任先生から「では、いまから飲み会をやろう」との提案があり、大学の前にある居酒屋へ全員で繰り出した。
お母さんと共に空中大学の学部で学んでいるという台湾大学大学院の女子学生(日本では二重学籍は認められないが台湾はOK)、基隆地方の美人女性元村長さん、さらには、空中大学の通称エミ先生の話はたまげた。
彼女は、15歳で美容師の見習いになり、21歳で夜間高校に入学。6年間で卒業し空中大学に入学したそうだ。空中大学を卒業したときには、美容院2店舗を経営していたが、もっと学びを深めたいと、我が国の国費留学生を受験し見事合格、上越教育大学大学院において学んだ。
ここで、彼女の凄いのは「一極集中」のため、美容院を人に譲って勉学に打ち込む決意をしたといういのだ。現在は、空中大學で日本語の教員をしている。
われわれが行った居酒屋さん、えらく混んでいた。実は明日は母の日。台湾では、母の日は一大イベントだそうで、家族で居酒屋さんに繰り出してきたようだ。
そこで、あまり騒いでは日台関係にひびがはいってはいけない。日本から持参した「謝謝世界最大的支援」という横断幕を壁にはらしていただき、空中大学の先生に通訳をしていただいたところ、これまた、温かい拍手をいただいた。台湾は本当に親日的でいい国だ。
宴会が終わり、地下鉄で台北駅前のホテルへ移動したが、せっかく横断幕を持っているのなら、ということで、地下鉄の車内、ホーム、改札と、この横断幕をひろげて歩いたところ、大騒ぎ。
まるで、アイドルのようにカメラを向けられた。台湾の障害者団体の会長さんは、車内で名刺を下さり「日本がんばれ」と声援をくださった。ひとつ覚えの「謝謝」しか言うことができなかったが、謝意を表現できたかな、と思う。
部屋にかえれば、同室の同期生は「夜の国際交流」に出かけて不在。もう十分飲んだから、今日はおとなしく寝ることにしよう。