西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

秋田大学工学資源学部附属鉱業博物館、平田篤胤の墓

2006-05-29 | 訪問場所・調査地
5月27日(土)に秋田大学工学資源学部附属鉱業博物館と近くの平田篤胤(あつたね)の墓に行った。「工学資源学部」とは、昔の「鉱山学部」である。ユニークな学部で私の高校同期にも一人進学した友達がいる。それが、時代の流れで「工学資源学部」と名前を変えたわけだ。附属鉱業博物館は、郵便局の「人気投票」では「秋田で訪れたい観光場所」の第一位とのことだ。それは、秋田大学の外れにあって円形の3階建てだ。研究棟を附属している。一寸資料が多すぎて1日で回るのは「無理」な点もあるが、とにかく「宝石の所だけでも・・」と思って見た。
そこを出て近くの高台にある国学者の平田篤胤の墓に行った。自然石の墓で、その向きは師の本居宣長の眠る松阪方面と言う。荷田春満、賀茂真淵と共に「国学四大人」の一人である。(写真は秋田大学鉱業博物館)

久保田城、千秋公園、平野政吉美術館

2006-05-29 | 訪問場所・調査地
せっかく秋田に行ったので、家政学会の「合間」を縫って久保田城、千秋公園、平野政吉美術館へ行った。久保田城は佐竹氏の城で明治に炎上して今は城跡だけであるが、城門が一つ復元されている。樹齢250年の欅を使っている。その城門のすぐ前に「番小屋」があって、これは本物で修復されていた。的場輝佳先生と中に入って薄暗い畳の間に座り外の風を聞いた。5月なのに風が強く、城内樹木の青葉がごうごうと鳴っていた。「薫風の音なお激し久保田城  市路」
この城跡一帯は千秋公園となっており、沢山のつつじが満開をやや過ぎていたが誠に綺麗であり、背景に多くの人が記念撮影していた。又青いシートを敷いて桜見物のような宴会も見られた。土曜だったせいであろう。「満開のつつじ香りぬ久保田城  市路」
公園を降りてくると平野政吉美術館があって入って見た。平野政吉さんは秋田の大地主で藤田画伯とも親しかったため藤田嗣治の作品も多く所蔵し、京都・大阪に今貸し出しているのもある、と言う。ここで圧巻だったのは秋田の庶民生活の様子(冬の景色)を横に広い画に描いている作品で、今回初出展と言う。一緒に行った磯田則夫先生が、その絵のミニチュアを買っていたが、私は買い忘れたが目に焼き付けておいた。歴史、自然、芸術を堪能した半日だった。(写真は千秋公園のつつじ)

瓦ー色の変化、反り、飾り瓦・・

2006-05-29 | 住まい・建築と庭
秋田空港からリムジンに乗って市内に入る間に車窓から風景を眺めた。田んぼに水がはってあり、田植えも始まっている。建っている住宅の屋根を見ると殆どトタン葺きで瓦屋根はわずかである。私は、昔、日本海側を鉄道で北から南下して山形県の真ん中辺りまで屋根瓦が殆ど現れなかったことを思い出した。やはり北国で「貧乏」なせいかな、などと失礼なことも考えて見た。「塗炭の苦しみ」である。
それはおいておいて、27日に早起きしたら、旅館のテレビで「瓦」のことをやっていて面白かった。現在最も古い瓦は、奈良の元興寺極楽坊の屋根瓦で、飛鳥寺からもってきたもののようだ。色が「赤っぽく」なっているのが古いものだそうだ。もう一度しっかり確認したい。屋根の反りは鎌倉時代からのものらしい。平瓦の上に漆喰をおいてその上に丸瓦を載せるのが「本瓦葺き」だが、屋根の反りはその漆喰でコントロールするようだ。さらに飾り瓦に注目、と言っていた。近世の鬼瓦等である。「しゃちほこ」は水を吹くので防火の守りと言う。そういえば「水」と書いた飾り瓦もあったな、と思い出した。庶民の家に瓦が普及したのは江戸中期以降の防火のためらしい。

秋田市川反(かわばた)通り、赤煉瓦通りの味わい

2006-05-29 | 訪問場所・調査地
秋田市に5月26日から28日までいて、26日、27日と夜は「川反(かわばた)通り」で食事をし飲んだ。この通りは、秋田の「飲食街」であるが、秋田駅から西のほうに歩いて旭川を渡った所に南北にある通りで、正に旭川の川端通りなのだが、何故か字は「川反」と書く。これについても「あきたコンベンション応援団」の美人連に聞いた。この応援団が家政学会の受付応援をしていたので「暇な」時間帯に雑談してもらったのだ。その話によると、旭川のこちら側というか、昔の城のほうから見て川の反対側なので、「川反」と書いて「かわばた」と読ませたようだ。そうなのか、と思った。そう言えば、江戸でも金沢でも川の向こう側に廓街(red light zone)があった。「川反通り」も昔はそうだったのだろう。今は、秋田一の飲食街、私たちも少し季節を無視して「きりたんぽ」「しょっつるなべ」「はたはた」「稲庭うどん」など秋田料理を味わった。
その通りの、もう一つ西に「赤煉瓦街」があり、この通りは銀行や証券会社の立ち並ぶ通りである。一つ、元銀行の赤煉瓦の建物が記念館になっていて中も見学できるが、明治大正の昔はこういう赤煉瓦の建物がさらに幾つか並んで建っていたようだ。最後の日は雨になって駆け足見学でだったので、次回はゆっくり見学したいと思った。(写真は夜の川反通り)


石川 好氏の「私の考える家政学」

2006-05-29 | 時論、雑感
日本家政学会の大会の特別講演で、石川 好氏の「私の考える家政学」を聞いた。石川さんは作家、秋田公立美術工芸短期大学学長である。普通、県立大学とか市立大学とかは聞くが、公立短大とは聞かないのでそれは何かと、後で実行委員長の石黒先生にお聞きすると、秋田市と周辺の市町村の共同立とのことだ。それはともかく、石川さんの話は刺激的だった。まず「家政学とは、男女の性の問題ではないか、アメリカの大統領選では中絶是か非かと論争している。最近は婚外子も普通に権利が認められてきている。日本で少子化を問題にしているが、男女の問題をタブー視している。」「家政学は専門の細かい重箱の隅に行かずに総合にも行くべきだ」「作家の直感で言うと、経済財政諮問会議で経済学者主導で何でも決まる風潮(小泉流)だが、むしろ家政学者が日本人の生活全般にわたって意見を言うほうが良いのでは・・」と言って、「ところで、家政学者と皆さん名乗っているのですか
」と壇上からの問いかけがあったが、誰も大きな声で「イエス」とは言わなかったのではないか・・。後日、石川さんの「経済学より家政学を!」と言った論考評論が出る感じがした。

秋田美人の話

2006-05-29 | 色々な仮説や疑問
この2泊3日の秋田行きは、毎日、秋田美人を見てすごしたということでもある。世に「秋田美人」と言うが、本当に美人が多いのか、もしそうならそれは何故か、という疑問がおこるのは自然だろう。これについて「あきたコンベンション応援団」(ボランティア)の中年の秋田美人から伺った。秋田大学の先生(現名誉教授)が真面目に研究したとのことだ。それで仮説的結論は、北からやって来た白系ロシア人の血が土着の日本人の血に混ざって秋田美人が出来た、ということだ。DNA鑑定もしたらしい。
ところで、私は、昔、次のようなことを何処かで聞いた。日本海側の秋田、新潟、石川、京都、出雲あたりには美人が多いと言われるが、それは大陸(朝鮮半島含む)から海流に乗って日本に漂着した人と土着の混血によるのではないか、と言う。そう言えば、朝鮮から日本海を北上漂流すれば出雲半島、丹後半島、能登半島、佐渡島、男鹿半島辺りに引っかかるのは必至であろう。(写真は「秋田小町」)