西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

「おふくろ」と「おやじ」との因縁

2013-08-19 | 金沢の思い出
私の最初の金沢の18年間(高卒まで 1941年~1960年)の自分史を書きだした。今日の私自身の存在を言うためには、当然、私を生み出した「お袋」と「親父」に言及する必要が出てくる。

で、過去に書いたメモを見て少しづつ書き出してみた。それで思うのは、「今日の日の私」があるのは、やはり「おふくろ」と「おやじ」のお蔭である、ということだ。

おふくろは、おやじと結婚して23歳の時に私を生んだ。1941年、太平洋戦争が起こった年である。おふくろは愛子と言い、正に祖父母の愛に包まれて育った一人娘だった。師範付属小学校を卒業ののちに石川県立第二高等女学校(現在の「21世紀金沢美術館」のある所にあった)を卒業する時におふくろは「奈良女子高等師範学校」(現・奈良女子大)への進学を希望した。「第二高等女学校」の同窓会「真清水会」の方に聞くと「西村さんなら推薦されて行けただろう」と言う。

ところが両親(私の祖父母=西村由森・すすむ)は、一人娘で「跡取り」、婿さんを迎えなければ、と思っているので、奈良への進学には「絶対反対」だった。

それなら、と母・愛子は両親に条件を出した。「では、帝大(帝国大学)卒業生と結婚できるよう取り計らって下さい」と。まあ、当時の女性としては「東京女子高等師範学校」(現・お茶の水女子大)か「奈良女子高等師範学校」(現・奈良女子大)に行くのが最高の教育を受ける道、また結婚するなら「帝大卒業生」とする、というのが最高のライフコースだった。それが見合い結婚が世の流れの時に両親に出した条件だった。

それであれこれの後に旧制「一中」(現・泉丘高校)、旧制四高(現・金沢大学)を経て京都帝国大学法学部を卒業した瓜生留雄(うりゅうとめお)と1938年(昭和13年)に結婚することになったのだ。


私が生まれ、京都大学に進学し、奈良女子大学に長く勤めたのは、正に私と両親の因縁でもある、と思うのである。

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