西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

自分史 書き出し

2013-09-04 | 金沢の思い出
最近、高卒までの自分史を書きだした。時々、部分を紹介したい。今日は書き出しだ。

「生まれて初めての強い印象-B29襲来と「押し込み」-

 「ブルンブルンブルンブルン」と空に鳴りわたる轟音。「来た!B29や、じっとしとって!」と母方の祖父・由森(よしもり)の声。4歳の孫の私は、同じく母方の祖母・すすむと共に一階の座敷=八畳間の「押し込み」(押し入れの意)に入り、仏壇の横で布団にくるまり、防空頭巾(ぼうくうずきん)をかぶって、息を殺していた。
祖母は「ご先祖様、仏様が守ってくださる」「ナンマイダ、ナンマイダ」と、お経を唱えていた。祖父は気の強いほうで、表に様子を見に行っていた。もしも遠くで爆弾が落ちだしたら庭の防空壕に移動しなければならないからだった。
金沢といっても私たちが住んでいた寺町台(櫻畠)は、町の中心ではなく犀川を渡った南部の縁辺部だから、もし爆撃でやられるとしたら町の中心、お城(金沢城)内の陸軍第九師団司令部か、繁華街の香林坊、片町あたりから、と祖父が思ったのかもしれない。「もう大丈夫やさかい出てきて見まっし」と言われ、恐る恐る門口に出て夜空を見あげた。薄明かりの空を無数の大鳥・B29が東の彼方に飛び去って行くのが見えた。
 B29といっても最近の若い人には分からないかもしれない。もちろん、私も小さな時には、ただそういっていただけで正確な意味を知ったのはずっと後のことである。
B29は、ボーイング社の29番目とネーミングされたアメリカ軍の長距離高空爆撃機であって、当時の世界の最新鋭機であり、日本全体を高空からの焼夷弾による絨毯(じゅうたん)爆撃で恐怖のどん底にたたき込んだ張本人だった。
 幸い、私の生まれ育った町で、これからの話の舞台になる金沢には、戦時中、陸軍の師団司令部がおかれていたのに本格的爆撃はなかった、と言われている。京都や奈良などと同じく歴史都市と思われていたからかもしれない。後々分かったのであるが、上に描写したB29の集団は、港もあり工場も多い富山方面を爆撃するための編隊だった。(1945年(昭和20年)8月2日未明)終戦直前である。
 当時、私はようやく4歳すぎ、記憶が残るかどうかの年頃であったが、当夜のことは恐怖感も手伝ってその断片が脳裏に焼きついたのだと思う。これも後で知るのであるが、この時、軍人だった父・瓜生(うりう)留雄と母・愛子そして妹のみゆきは、満洲(中国東北部)にいたのである。妹・みゆきは満洲(新京特別市興安大路陸軍官舎百七号東、現・長春)で1943年(昭和18年)11月3日に生まれたのであった。


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