西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

便所(2)ー明かりと手洗い、戸締り

2006-04-10 | 金沢の思い出
便所の明かりは家中で一番「暗い」ものだった。「豆電球」で5㍗ほどではなかったか。手洗いは、大分後に1960年に近づいて水道となったが、それ以前は庭に向かっての戸をあけたところに「手水鉢」が置いてあって、その都度、戸を開けてしていた。この戸の鍵はついていたが、一々開け閉めは面倒くさく、鍵は「開け放し」の場合があって、「泥棒らしきの」が入ったこともある。「らしきもの」と言ったのは、物音に家人が気付いて、こちらから咳払い等をして「退散させた」こともあるからである。

便所(1)ー位置と配置

2006-04-10 | 金沢の思い出
図面は、私の育った金沢市桜畠の家の平面図である。ここは江戸時代には加賀・前田藩の足軽屋敷があった地区だ。だから、この家は大正末から昭和の始めに建設されたと思われるが、江戸時代の家を引き継いで足軽屋敷の「玄関後退型」になっている。このような間取りは、今は亡き私の京大建築先輩の玉置伸吾さん(亡くなる当時、福井大学教授)と弟子の増田達男さん(現・金沢工大教授)が発掘し発表したものだ。
今まで、1階(左)の上から順に部屋(空間)毎に様子を説明してきた。今回は、一番(下)の「離れ」に行く途中の便所について話をする。これらの便所(大2、男子小1)は、変わらなかったが、途中少し「装い」が新たになった。又、ずっと1960年頃まで汲み取り式であった。そのことは前に「四畳間」を説明した時も一寸ふれた。その汲み取りも途中、桶式から真空吸い取り式に変わった。四畳間から一寸した板の間があり、ここから縁側に通じる、また急な階段を通じて2階とつながっていた。便所の前には踏み板が置いてあって、汲み取りの時は、それらをあげていた。「大」の奥のは、薄暗いので家族用、手前のは明るいので客用だった。真ん中の「小」は、両用である。