嵐山光三郎著『悪党芭蕉』(新潮社)を読み出した。ほんの一部読んだのだが、「目からウロコ」というか、「へーそういう見方もあるのか」と思った。この「思い」は一寸前に読んだ『ダ・ヴィンチ・コード』でも同じ感慨だった。
つまり、これらの本は、レオナルド・ダ・ヴィンチや松尾芭蕉の普通のイメージを「本当か?」と問い直し、通説ないし常識的見方を覆そうとしているのだ。まあ仮説と言っても良いが、中々面白い仮説だ。嵐山さんの本では「俳聖・芭蕉」は嘘っぱちで、俳諧では確かに抜きん出ているが、その裏で、妾持ち、同性愛(『奥の細道』は弟子・曽良との道行きだ、という説)、目くらましの出家、俳号・芭蕉の謡曲から取った意味、生類憐みの令(将軍・綱吉)への配慮、写生でなく虚構(嵐山説では「古池や蛙飛び込む水の音」で、蛙はめったと飛び込まない、ずるずると池端から池に入るのは一般的、だからそれは虚構ではないか・・)等々「ヘー」の連続だ。ほんの一部を読んでこうなのだから、今後どうなるか楽しみだ。やはり通説、常識を崩すのが仮説であり、学問的方向だろう。