生き生き箕面通信

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生き生き箕面通信750 ・読売の社説は検察を擁護

2010-12-26 07:45:02 | 日記
おはようございます。
生き生き箕面通信750(101226)をお届けします。

・読売の社説は検察を擁護

 本日の読売新聞社説は、最高検が発表した「証拠改ざんなど不祥事に対する検察としての検証報告」に対するものでした。見出しは「猛省を抜本改革につなげよ」と、「抜本改革」をうたっています。ところが、本文では肝心の「何を抜本改革すべきか」については1行も言及がありません。あるのは、最高検の検証報告をただ追認するだけです。これではきわめてずさんな内容といわざるをえません。

 たとえば、「最高検が再発防止策として、特捜部内に証拠管理を専門に扱う検事を配置したり、高検がすべての証拠を点検したりするなど、監督強化を打ち出したのは当然である」と、検証報告を追認し、結果的に最高検にお追従しています。

 検察改革で最大の焦点になっている「可視化」に対しては、「これまで裁判官裁判の対象事件で部分的に導入されてきた取り調べの録音・録画(可視化)について、特捜部の扱う事件でも試行することを盛り込んだ。供述の不当な誘導が確認された以上、その検討は避けて通れまい」と、へっぴり腰の指摘にとどまっています。

 社説は続けて、「ただ、全面的な可視化については、「容疑者から真実を聞き出せなくなる」など、弊害を指摘する声も捜査現場には根強い。試行を重ねて、その功罪を慎重に見極めるべきだろう」と、はっきり言えば「全面可視化反対」の論調です。

 読売の社説には、「捜査現場の声」は取り上げていますが、それでは国民の声はどうなのですか、という視点が欠落しています。だから明らかに検察の立場を代弁する内容といわざるを得ないのです。

 この社説の結びはこうです。「政官界の不正摘発に果たしてきた特捜検察の役割も踏まえた議論を重ねてもらいたい」。一見、もっともな主張のように見えます。しかし、検察の抜本改革のメニュ―には、「特捜部の廃止」そのものが上がっているのです。そもそも特捜検察については、戦後のGHQ改革では「特高検察は民主主義の普及に障害になる」と撤廃する内容でした。少なくとも、検察に捜査権限は持たせない方針でした。ところが、権力の源泉である捜査権限の維持にこだわり、必死の抵抗をしたあげく、しぶとく生き残ったといういきさつがあります。検察は本来、警察が捜査してきたものを、起訴するかどうかを判定する機関のはずでした。捜査はあくまで警察の役割と明確に区別されていたのです。

 検察は、「大物政治家などの不正を暴くには、警察は力不足」といいます。しかし、それは検察の思い上がりに過ぎないことは数々の事例で明らかになっています。むしろ、たとえば国松・警察庁長官の狙撃事件で、最初から検察が乗り出して捜査にあたった例では、そもそも周辺の聞き込み捜査という基本中の基本すらできていなかったことが明らかにされています。事件はそうした初動捜査の誤りもあって、結局お蔵入り、という検察史上に一大汚点を残すことになりました。警察があたっていれば考えられないミスでした。

 この事件の時効を迎えて記者会見した検察は、何と言ったか。「いまでもオウム真理教が犯人だと思う」と、堂々と「悔し紛れの一言」を言ってのけました。推定無罪の原則もなんのその、すくなくとも検察が口にしてはならない言辞をかくも簡単に発言してしまう検察劣化の見本のような会見でした。

 ぼくは検察には民主主義社会に欠かせない役割があると認めます。それを、国民の立場に立つ検察へ抜本的に改革するチャンスです。ところが、読売の社説は、まず現行の特捜部を前提にしたところからの議論です。この国の形はどうあるべきか、その中における検察の位置づけはどうあらねばならないか、そうした大きな絵を描く視点がない社説は、しょせん重箱のすみをつつくだけ。こんなしょうもない社説をよくも書くものだと思わされます。