おはようございます。
生き生き箕面通信1651(130630)をお届けします。
・88歳の元沖縄県知事・大田昌秀さんの遺言――「日本にとって沖縄とは何だったのか」
「今年は沖縄にとって最悪の年になるかもしれない」と、口火を切った大田昌秀さん。箕面駅前の会場で講演会の臨んだ太田さんは、「もう88歳だから、静かに暮らしたいのだが、そうもいっておれない」と、”老骨”に鞭打つようにして全国行脚を続けています。
「沖縄にとって最悪の年になるかもしれない」という懸念の根拠と、ではどうすればいいのか、についての答えはストレートには明らかにされませんでした。が、考えるヒントはたくさん提供してくれていました。
大田さんは、日本で唯一地上戦が戦われた沖縄戦の実態と、島民が追い込まれた日々の状況、生きざまについて体験したことを詳しく語りました。戦争が始まったときに十代半ばだった大田さんは、二十歳で終戦を迎え、人生で最も感受性の強い期間を戦争とともに過ごしました。
そして、戦争が終わって感じたことは、「沖縄に派遣されてきた日本軍は、島民は守ってくれなかった」。戦後も沖縄を見捨て、日本から切り離して米軍統治下で軍事基地の島にした。
戦後直後は、何も信じられず、自分が壊れたような状態だった。その時、本土からひそかに持ち込まれた日本国の新憲法を読んで衝撃を受けるとともに、「これだ」と思ったそうです。
そこには、戦争放棄の条項がある。教育を受ける権利から労働者の権利まで、文化的に平和の下で人間が人間らしく生きていくための人権尊重が規定されている。
ところが、その憲法は沖縄には適用されなかった。
大田さんは講演の中で二度ほど、「日本にとって沖縄とは何だったのか」という疑問を口にしました。
そうした中で起きたのが、「平和憲法の下に帰る」という、熱烈に憲法の実質的適用を求める「日本復帰運動」でした。そして、県民がひたむきに取り組んだ結果、外国軍隊の支配下で奪われていた人間としての権利を一つ一つ勝ち取り、「人間解放」を実現してきたのでした。
憲法は、沖縄の人間にとっては、自分たちの手で苦労を重ねて勝ち取ってきた”宝”だったのです。それが、今年の参議院選挙の結果次第では、変えられようとしている。
会場で販売されていた大田さんの著書「沖縄差別と平和憲法」の帯で、「私は強い危機感を以って本書を書いた。書きながらも表現しようもない絶望感にとらわれた。が、基地沖縄に住む私たちには絶望するゆとりはない。戦後半世紀、殺すこともなく殺されることもなかったのは平和憲法のおかげ。その護持と発展に全力を尽くす」と記しました。
「最悪の年になるかもしれない」という危機感は、「日本国憲法が死ねば、『戦後日本』も死ぬ」という切羽詰まった気持ちからわき上がってきているのです。
大田さんは、直接は口にしませんでしたが、本当はこう言いたかったのかもしれません。「本土の皆さん、何をしておられるか。もっと考え、行動していただきたい。平和憲法を死守しようではありませんか」と。
それが、88歳の一人の老人が遺す遺言として聞こえてきました。