諌早公園には移築した眼鏡橋があります。
「本来はこの場所より400m下流の本明川に架かっていました。
諌早市の中心部を流れる本明川は、古くから何度も大水害に襲われ、川に架けられた木の橋はその度に流されていました。このため昔の人たちは飛び石を利用して川を渡っていました。
そこで水害でも流されない橋を造ろうと、天保九年(1838年)に石橋の建設が始まり、翌十年(1839年)に念願の眼鏡橋が完成しました。
いさはやの眼鏡橋 いきもどりすれば おもしろかなり
と数え歌にされるほど愛されていましたが、昭和三十二年(1957年)の諌早大水害では橋の造りがあまりにも頑丈であったため激流でも壊れず、水の流れを堰き止める堤防の形となって、死者行方不明者539名の大きな犠牲者を出す原因となりました。
大水害のあと、本明川の川幅を広げることとなり、ダイナマイトで壊す計画がありましたが、眼鏡橋を残したいという市民の願いによって、昭和三十三年(1958年)に石橋としては全国で初めて国の重要文化財に指定されました。
そして、昭和三十六年(1961年)にこの諌早公園に移されました。」
諌早大水害は私が生まれる前の出来事ですが、毎年寺井先生にお願いしている6月の「気象学習会」でよく出てきます。
名前や被害の大きさはなんとなく知ってしましたが、やはり実物を見ないことには実感が湧きませんでした。
ダイナマイトで破壊しないで、残していくだけでも災害の記憶は引き継がれていきます。
「本来はこの場所より400m下流の本明川に架かっていました。
諌早市の中心部を流れる本明川は、古くから何度も大水害に襲われ、川に架けられた木の橋はその度に流されていました。このため昔の人たちは飛び石を利用して川を渡っていました。
そこで水害でも流されない橋を造ろうと、天保九年(1838年)に石橋の建設が始まり、翌十年(1839年)に念願の眼鏡橋が完成しました。
いさはやの眼鏡橋 いきもどりすれば おもしろかなり
と数え歌にされるほど愛されていましたが、昭和三十二年(1957年)の諌早大水害では橋の造りがあまりにも頑丈であったため激流でも壊れず、水の流れを堰き止める堤防の形となって、死者行方不明者539名の大きな犠牲者を出す原因となりました。
大水害のあと、本明川の川幅を広げることとなり、ダイナマイトで壊す計画がありましたが、眼鏡橋を残したいという市民の願いによって、昭和三十三年(1958年)に石橋としては全国で初めて国の重要文化財に指定されました。
そして、昭和三十六年(1961年)にこの諌早公園に移されました。」
諌早大水害は私が生まれる前の出来事ですが、毎年寺井先生にお願いしている6月の「気象学習会」でよく出てきます。
名前や被害の大きさはなんとなく知ってしましたが、やはり実物を見ないことには実感が湧きませんでした。
ダイナマイトで破壊しないで、残していくだけでも災害の記憶は引き継がれていきます。