彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

12月15日、吉良邸討入り

2006年12月15日 | 何の日?
元禄15(1701)年12月14日(厳密には15日の午前4時頃)、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りました。

<まずは豆知識を一つ>
『忠臣蔵』で有名な赤穂事件は元禄14(1701)年3月14日の松之廊下刃傷事件と翌年の吉良邸討入り事件の事を指しますが、江戸時代に上演されていた『仮名手本忠臣蔵』はその舞台を南北朝(室町初期)時代に設定されていた事もあって、大石内蔵助や浅野内匠頭・吉良上野介という名前は庶民にはあまり知られていませんでした。
逆に武士の世界ではこの事件の意味は重要視されていて、これ以降は14日・15日(討入りの14日と吉良が討たれた15日)に事件が多くなるのです。
以前に書きました近江屋事件が11月15日なのもそのためだという説もあるんですよ。


<さて、本題>
そもそも、吉良上野介義央はなぜ赤穂浪士に殺されなければならなかったのでしょうか?
前年3月14日、赤穂浪士の主君だった赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が江戸城松之廊下で吉良に斬りかかり2ヶ所に傷を負わせました。
その日は5代将軍・徳川綱吉の母・桂昌院の為に京から来た勅旨(天皇の使者)を江戸城に迎える大事な日でしたが、その勅旨の来訪を血で汚した(公家は血を忌み嫌う)罪と江戸城内での抜刀の罪で浅野はその日の内に切腹になったのです。
この事件で吉良を殺しそこなった主君の代わりに大石内蔵助良雄などの四十七士が吉良を敵として仇討ちを決意したのでした。
松之廊下刃傷事件で浅野内匠頭は即日切腹になり、これが『忠臣蔵』では浅野の哀れさを誘う要因になっているのですが、これ以前は江戸城内で刃傷に及んだ者やその後継ぎは即日か翌日には切腹になっているので、別に不当な沙汰ではなかったのです。

兎にも角にも、君主が大失態を犯した以上は藩は取り潰しになり藩士は失業します。武士の再就職は今のサラリーマンよりも難しい事でしたので藩士達は浅野内匠頭の弟・大学長広を君主にして浅野家を再興して再就職の道を開こうとしました。
しかし、幕府は浅野家の再興を認めなかったために吉良邸討入りが決行される事となったのでした(逆に言えばもし浅野大学のお家再興が許可されていたら吉良は殺されずに済んでいたのです)。
元禄15年7月18日に浅野大学長広は永預け(無期の監禁)という沙汰が下り、これを受けて18日に京都・円山で赤穂浪士の会議が行われて討入りが決定したのでした。

こうして浪士達は少しづつ江戸へ集合します。

これから討入りに間に何人かの脱落者が出ます。
江戸に出た浪士達が吉良邸の中や吉良の行動をつぶさに観察にする話が『忠臣蔵』のドラマに登場しますが、実際はそんなに苦労しなくてもそれらの情報は手に入ったようなのです。
と言うのも、吉良上野介としては討入りが来るなどという事自体がありえない話でした。
元々、吉良は切られた方で被害者であり、しかも浅野内匠頭を切腹にしたのは将軍であって、吉良が狙われるのはお門違いだったのです。
また、仇討ちの定義は親や兄が殺された時に子や弟・妹が行なうものであって、主君の仇を討つとういう考え方自体が当時の世の中には無かったのです。
『忠臣蔵』関連のドラマで、主君の仇を討たずに一周忌を迎えた浪士達が主君の墓参りに向かうと、民衆が野次を飛ばして馬鹿にするシーンをよく見かけますが、そんな事も実際にはありえないのですよ。
しかし、吉良の妻・富子は赤穂浪士の逆恨みを心配して吉良に逃げるように言いました。
でも吉良は笑って聞き流したために富子一人が実家の上杉家に戻り難を逃れたと伝わっています。

さて、討入りは12月14日という事になっていますが、実際は15日の午前4時頃の話。
この頃は日の出を日付の変わる目安としていたので14日という事になっているのです。
14日の昼に大石内蔵助が浅野内匠頭の未亡人・瑤泉院を尋ねた“南部坂の別れ”や赤埴源蔵が兄の着物の前で酒を飲んだ“徳利の別れ”等の逸話がありますが、これは全てフィクションで実話ではありません(忠臣蔵ファンを敵に回すな、絶対・・・)。
夜になり浪士の内三人の家でそれぞれ集合して身支度を固めて浪士の一人・杉野十平次宅に集まったのが15日午前4時、それから吉良邸に討入ります。
そんな事を夢にも思っていなかった吉良側は備えもないために一方的な殺戮となってしましました、吉良上野介は異変に気付き刀を構えて防戦し両手3ヶ所・左股1ヶ所・右膝頭2ヶ所・右下腿1ヶ所に傷を負い邸内の台所で倒れます。
そして胸に刀を刺されて死亡しました。
ここでも、誤解されているのですが、吉良上野介は炭小屋に隠れたりはしておらず、正々堂々と戦って斬られたのです。
つまり、隠れていた吉良を探すのに手間取った訳ではなく、浪士の誰も吉良の顔を知らなかったためにこの死体を捜すのに時間がかかり、夜明け後にやっと首を切る事が出来たのでした。

吉良の首を取った赤穂浪士たちは、吉良邸の火の後始末をしてから主君の墓所である泉岳寺へ向かいます。
この時に、吉良の首を奪われては困るので、槍の先には首の大きさくらいの置物(千利休が「桂川の魚籠(びく)」と命名した花器)を包んで吊るして、本物の首は別ルートで主君の墓前に運ばれました。
そして、寺坂吉右衛門という足軽が関係者への報告のために大石内蔵助の指示で現場から離れます。
そのため、切腹した浪士は46名なのですがお芝居で『忠臣蔵』が有名になると数合わせのために寺坂の存命中に墓が泉岳寺に作られてしまいます。
後年に寺坂が没した時に寺坂の墓は姫路に作られて、後に泉岳寺に改葬されたのでした。

さて、寺坂を除いた46名を民衆が拍手で迎えて途中で甘酒を振舞われたとの話がありますが、これもフィクションです。
甘酒を振舞った店は今もお商売をされていますが、この時は討入り後に体の冷えた浪士が暖を取るためにこの店の主人をたたき起こし無理やり甘酒を用意させたそうです。
民衆達も急な暴徒の集団に怯えて家の中で息を潜めて様子を窺っていたと言われています。

色んな虚実を交えながらも、討入り後に泉岳寺の浅野内匠頭の墓前にに吉良上野介の首を供えた46人の浪士達はそのまま幕府の使者が来るのを待ちました。
「本当に仇討ちだけが目的ならばこの泉岳寺で一同が揃って切腹するはずだ」と批判する儒学者も居ましたが、浪士達にすると死罪になるとは思っても見ない事だったと言われています。
この事件で浪士達には二つの罪がありました。
1.許可無く仇討ちをした事。
2.徒党を組んで将軍のお膝元を騒がせた事。
普通はどちらも死罪になる罪ですが、これで死罪にならなかった事例が過去にあったのです。
寛文12(1672)年2月1日に起こった浄瑠璃坂の仇討ちと言う事件で、その酷似した内容から後に『雛型忠臣蔵』と呼ばれる事なりますが、この首謀者達はすぐに遠島になった後に彦根藩に高禄で召抱えられたのです。
罪は1は無罪、2で遠島六年だったのです。
この為、吉良邸討入りは就職活動の一環という見方もあるくらいなのです。
就職活動とまで言われた討入りは結局は46名全員の切腹と言う形で決着を迎える事となります。
吉良を討った事が仇討ちとは認められなかったからで、もし浪士達の行動を仇討ちと認めるならば、松之廊下刃傷事件での浅野内匠頭への切腹の沙汰が間違いだったと幕府が認める事になるというのが大きな要因だったと言われていますし、前述したようにそもそも仇討ちではないのですから、斬首ではなく切腹となっただけでも幕府にとっては温情だったのです。

元禄16(1703)年2月4日、46名は預けられていた大名屋敷で切腹します、しかし切腹の作法を知っている者は殆どいませんでした。
当時の切腹は実際に腹を切る事は殆ど無く、切腹人の前に置かれた三方に載せた扇子(脇差ではない)に手を伸ばした瞬間に首を斬られていたのです。
ですが、浪士達には布で包んだ脇差が使用されたそうなので破格の待遇だったと言えます。
この脇差は切腹後に折って捨てられるので、現在残っている浪士使用の脇差は偽者だとも言われているんですよ。
ちなみに浪士切腹の同日に吉良義周は高島お預けの沙汰を受けているのです。


話は飛んで明治38(1905)年、日本と露西亜が戦った日露戦争の終結のためにポーツマス条約の締結に赴いたポーツマス条約全権大使・小林寿太郎はその後にセオドア=ルーズベルト大統領を訪ねに米国のホエワイトハウスへ出かけています。
ポーツマス条約で日本側有利のように斡旋したのがルーズベルト大統領だったからでした。
しかし、小林はなぜ大統領がこんなに親身になってくれたのかが疑問だった…
その疑問を感じ取った大統領は自分の書斎に小林を招いて、擦り切れる程に読み込まれた一冊の本を示したのです。
『The Toyal Ronins』と言う『忠臣蔵』の英訳本で明治13(1880)年にニューヨークで出版された物でした。
小林が、その本を目にしながら、まだ大統領の意図が解からずに居ると、大統領はこの本を手にして「この本が武士道とは何か、日本人がどれほど忠義に厚く義に勇む人々かを教えてくれました」と言ったと伝えられているのです。大統領は赤穂浪士を信頼の糧とし大の日本びいきとなり、20世紀初頭の世界史に影響を与えたのでした。
明治時代には米以外にも英・仏・独等にも翻訳本が出版されて、武士道と忠義が日本の顔となったのです。


さぁ、長々と書きましたが、これが彦根藩と関係あるのでしょうか?

はっきり言えば、本編の事件とは全く関わりがありません。
当時の彦根藩は、4代藩主・井伊直興が直通に家督を譲って(元禄14年3月5日)間もない頃でした。
直興は隠居前に大老職を辞していたので彦根藩主は幕府の要職には就いて居なかったのです。

でも、敢えて言うならほんの少しだけ関わりがあるのです。
吉良の首を取った赤穂浪士たちが、主君の墓所である泉岳寺へ向かう時の事、当日に浪士達が通過する永代橋が彦根藩中屋敷の前だったのです。
永代橋の辻番の警護の武士は彦根藩中屋敷前を不逞な浪士集団を通す訳には行かないと、浪士達と「通る」「通さない」の問答になります。
この騒ぎを聞きつけた彦根藩の藩士達が門前に現れ、赤穂浪士や藩士との審議の後に浪士達を通す事にしたのです。

赤穂浪士たちが礼を述べながら通り過ぎようとすると、一人の藩士が「厳しい寒さの朝ゆえ、熱い湯を一杯ずつさしあげましょう」と提案し、他の藩士も協力して浪士たちの為に茶碗に湯を酌んで与えたのでした。
大石内蔵助は「思いがけず温まる事ができ、生き返った気分です」と感謝を示してその場を去って行ったそうですよ。

大きな事件の陰に隠れた小さなエピソードですが、どんな出来事もこう言った小さな事が積み重なってできているのです。
こじつけの様な歴史紹介でした。

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