彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

西三条第発掘現地説明会

2011年12月10日 | 史跡
藤原良房の弟で、応天門炎上事件で素早く兵を動かした人物でもある藤原良相の邸宅“西三条邸(西京第)”が特定されたというニュースが飛び込んできました。
それも、推測での話ではなく、ちゃんとした文字史料まで出てきたそうですから、行かねばなりません。現地説明会に参加しました。

場所は、JR二条駅西口すぐです。
発掘現場の向こうに見える丸い屋根が駅です、駅から駅前ロータリーを挟んだ場所が現地でした。

今回は仏教大学のキャンパス建築による調査だったために、広大な場所が掘られていました。

そんな発掘でとくに注目されたのが、池の部分です。

この時代に大きな池を屋敷内に構えていることも珍しいのですが、池の中に2石の礎石が見つかります。

池の上に建物が建っていたことを示す礎石、それはここに釣殿があったことを予測させたそうですが、この周辺から池に投げ捨てられたと見られる遺物が多く出土します。

それは、小さな器だったり(携帯は、大きさを示すための比較対象です)

中国からの青磁や白磁だったり、水晶を使った碁石だったそうです。


そして、今回の大きな発見につながったのが、“三条院釣殿高杯”と書かれた土器片です。

また“政所”と書かれた物も見つかりました。

現地で確認したところ、この屋敷には、良相の姉で仁明天皇の皇后だった藤原順子が一年ほど滞在していたことがあり、そのために屋敷の人々は誇りを持って“院”を使っていたのだと思うとのことでした。(そうでなければ、院号を家臣が使うのは不敬にあたります)。
しかし、周囲から見れば藤原良相の屋敷でしかないので西三条第と“第”の呼び方が歴史上に残ったようです。

西三条第は、藤原良相が亡くなった後の消息は不明だったのですが、これらの遺物が釣殿辺りの池の中から多く見つかったことと、良相の子孫がこののちは下級役人にしかなっていないこと考慮すると、良相没後に一族は屋敷を追われて、その時に持って行けない物をゴミとして池の中に投棄したとも考えられるそうです。
そうなれば、院の字が付いている物を捨てるのは不敬ではないのか?と、また不敬の疑問がよぎったのですが、これを聞くと、「その家の者は院でも、他の人にはそうではないので」との答えでした。
そう考えると、池に投棄したのは藤原良相の関係者ではなく他の人(たとえば政敵だった)のでしょうかね?
疑問はますます深まります。

しかし、これによって歴史の謎の一つが解明したことになります。

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