“そそくさ”を絵に描いたような様子で、
稽古が終わると先頭きってスタコラサッサとお帰りあそばしていたマエストロ。
ぺちゃくちゃおしゃべりしながらエレベーターを待つ合唱団を尻目に、
ひとりで階段を駆け下りていくのが常だったマエストロ。
みんなとちょっと距離のある、
たとえて言えば、いつも指揮台の上にいて、
みんなとの間に線を1本引いてる人。
そんな感じ。
そんなマエストロが、めずらしくヒイラギのすぐ背中にいた先週、
話しかけてみた。
――こないだは台風まで来ちゃって、すごかったですね。
あぁ、今日、マエストロが本番なんだなぁ、て思ってました。
「あはは、そんなこと考えてたんですか。
僕、あの日は東京にいなかったですよ。」
なんだ、話しかけられれば意外にふつうにお話する人なんじゃん。
昨夜はまた、いの一番に稽古場を出てったマエストロ。
おしゃべりしながら一緒にエレベーターを待ってた仲間のIさんが、
不意に誰かに話しかけた。
振り返れば、マエストロ。
あ、どーも、と会釈してエレベーターに乗り込むと、
マエストロも乗ってきた。
「さっき、2人で目の前で笑ってるから、なんか気になっちゃった」
と笑ってみせる。
なんだ、こんなに近くでお話できる人なんじゃん。
そんな、マエストロのこと笑ったりしませんて。
何の話で笑ってたんだか、2人とも憶えてないくらいですから。
区民オペラの歌劇団で冬の間だけお世話になること8年。
やっとこさ、ヒイラギに慣れてくれたのかな。
もう間もなくウィークエンドという金曜日の午後5時40分、
今日3本めの校正がすっかりきれいに片づいた。
これから次の原稿にかかるには半端な時刻。
少し早いけど、仕事を切り上げて稽古場へ。
ここらで過労気味の感性をリフレッシュさせても罰は当たるまい。
いつもは連絡の悪い通勤電車は、今日に限って急行がやってきた。
いつもは延々下りてこないカルチャーセンターのエレベーターは、ドア全開で待っていた。
いつもは2,3人待たなきゃいけない稽古は、すぐに番が回ってきた。
琴に三味線。
立て続けに弾き歌うこと40分余り、
砂に水がしみるように、音がからだにしみ込んでいく。
指先から喉元へ、音符が体温になって駆け抜けて、声になってでていく。
そうそう、この感じ。
感性を遣いすぎたときは、
音楽のお灸が効くみたい。
「忙しいみたいだけど、練習してこなくていいから、
からだにだけは気をつけて」
涙がでるようなお言葉を先生からかけてもらいつつ、
稽古場を出る。
駅のホームで時計を見れば、「19:50」。
もしや。
恵比寿の稽古場から、金曜の夜恒例『Carmen』の稽古場までは
電車でほんの4駅。
休憩が終わるころには着ける計算。
参加する前から、〝練習に半分しか行けなくてもいいですか~〟などと
不届き千万なおサボり宣言をしていたヒイラギを、
「まぁ、相談だね」
と言いながらも見逃し続けてくれてるマエストロに、
たまにはヤル気らしきものを見せておくか。
イヤ、しかし、欠席のつもりでハナから楽譜も家に置いたまんまで
ヤル気らしきものなんぞ見えるのか。
自分で自分につっこみながら、丸1時間遅刻して到着。
歌声が途切れたところで、おそるおそるドアを開けると、
「あ、ボンソワ♪」
みんなが笑顔で迎えてくれて、のっけからアットホーム感倍増。
4幕のいちばん凛々しい歌だといふのに、
マエストロが思わず腰を浮かしちゃうほど、
思う存分まったりとエスカミーリョを称えてしまいましたとさ。
金曜夜の音楽漬け、かくもヒーリング効果大。