山国護国神社の説明板のつづき。
「尚 この間に明治15年7月14日京都府は「自今、招魂社祭祀及び修繕等の諸経費は皆官費を以て被支給候事」の通達を出し、昭和20年の終戦に至るまで官費をもって招魂社の諸費は賄われて来た。また、明治16年8月には社殿を新築し、石棚を造り、招魂場としておなり、の体裁を整えた。招魂社が明治2年に設けられて以来明治16年までに支出した金員は2千余円の多額にのぼる旨が記録されている。
憲法が改められて以来、官営の招魂社は認められなくなり、昭和20年宗教法人山国郷社となり、昭和26年宗教法人山國護国神社となって、町民崇敬の社となっている。明治百年祭より、日清・日露・大東亜戦の戦病死者を昭和42年より合祀されている」
説明板は以上です。
石段をのぼると、まず、明治2年に造られたという招魂碑(石)がある。また、明治16年ころに建てられた3メートルくらいの顕彰碑(京都府知事槙村正直が碑文を書いたのだろうか、なに書いているのかはよく見えない)。そして、隊士の墓標がずらりと立っている。隊士は83名いたというけど、数えてないけど、83あるのだろうか。
墓標は1段目(上)と2段目(下)に分けられていたけど、これは山国隊は東軍と西軍に別れたというから、そのためだろうか?わからない。
何の説明もない。いや、隊士83名の名前くらいははっきりと説明板に書くべきだろう。
墓標に、名前は刻んでいるといっても、読みにくい。
個人の小さな説明板はある。池田慶徳、河田左久馬、原 六郎、槙田正直の4つだ。
池田慶徳は因幡藩藩主(水戸斉昭の子)、招魂碑の石の「大きみの御たてとなりし ますらおの いそしを 世々にたつる石ふみ」という歌はこの人が作ったらしい。
河田左久馬。因幡藩士。因幡藩きっての攘夷志士。山国隊は因幡藩とともに行動することになり、河田は山国隊の隊長になる。
原 六郎 (但馬の出身だが、生野の変に参加したあと、因幡藩に保護を求めた)。山国隊の司令長になる。
槙村正直(長州藩士。行政裁判所長官となり、無役地事件にもかかわる) 京都府知事。
この4人とも山国の人ではない。4人とも明治後もそれぞれ栄光に包まれた生涯を送った人だ。
なぜ、山国出身の人を、山国隊士全員の名を出し、かれらの事蹟を知らしめようとしないのだろう。
画像は墓標。一番、右が隊長河田左久馬、その隣は原 六郎。他の墓標よりも少し土台が高くなっている。差をつけているわけだ。なんだい、これは、おかしいよ。
この墓標が造られた頃は、すでに天皇制軍隊も確立され、草莽の存在よりも、天皇を上にいただく階級意識が濃厚になってきていたのだろうか。
山国出身の山国隊の主人公たちはどこにいるのか。とりあえず1杯飲ってからにしよう。
「尚 この間に明治15年7月14日京都府は「自今、招魂社祭祀及び修繕等の諸経費は皆官費を以て被支給候事」の通達を出し、昭和20年の終戦に至るまで官費をもって招魂社の諸費は賄われて来た。また、明治16年8月には社殿を新築し、石棚を造り、招魂場としておなり、の体裁を整えた。招魂社が明治2年に設けられて以来明治16年までに支出した金員は2千余円の多額にのぼる旨が記録されている。
憲法が改められて以来、官営の招魂社は認められなくなり、昭和20年宗教法人山国郷社となり、昭和26年宗教法人山國護国神社となって、町民崇敬の社となっている。明治百年祭より、日清・日露・大東亜戦の戦病死者を昭和42年より合祀されている」
説明板は以上です。
石段をのぼると、まず、明治2年に造られたという招魂碑(石)がある。また、明治16年ころに建てられた3メートルくらいの顕彰碑(京都府知事槙村正直が碑文を書いたのだろうか、なに書いているのかはよく見えない)。そして、隊士の墓標がずらりと立っている。隊士は83名いたというけど、数えてないけど、83あるのだろうか。
墓標は1段目(上)と2段目(下)に分けられていたけど、これは山国隊は東軍と西軍に別れたというから、そのためだろうか?わからない。
何の説明もない。いや、隊士83名の名前くらいははっきりと説明板に書くべきだろう。
墓標に、名前は刻んでいるといっても、読みにくい。
個人の小さな説明板はある。池田慶徳、河田左久馬、原 六郎、槙田正直の4つだ。
池田慶徳は因幡藩藩主(水戸斉昭の子)、招魂碑の石の「大きみの御たてとなりし ますらおの いそしを 世々にたつる石ふみ」という歌はこの人が作ったらしい。
河田左久馬。因幡藩士。因幡藩きっての攘夷志士。山国隊は因幡藩とともに行動することになり、河田は山国隊の隊長になる。
原 六郎 (但馬の出身だが、生野の変に参加したあと、因幡藩に保護を求めた)。山国隊の司令長になる。
槙村正直(長州藩士。行政裁判所長官となり、無役地事件にもかかわる) 京都府知事。
この4人とも山国の人ではない。4人とも明治後もそれぞれ栄光に包まれた生涯を送った人だ。
なぜ、山国出身の人を、山国隊士全員の名を出し、かれらの事蹟を知らしめようとしないのだろう。
画像は墓標。一番、右が隊長河田左久馬、その隣は原 六郎。他の墓標よりも少し土台が高くなっている。差をつけているわけだ。なんだい、これは、おかしいよ。
この墓標が造られた頃は、すでに天皇制軍隊も確立され、草莽の存在よりも、天皇を上にいただく階級意識が濃厚になってきていたのだろうか。
山国出身の山国隊の主人公たちはどこにいるのか。とりあえず1杯飲ってからにしよう。