虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

山国隊 ②

2010-04-19 | 歴史
山国護国神社の説明板のつづき。

「尚 この間に明治15年7月14日京都府は「自今、招魂社祭祀及び修繕等の諸経費は皆官費を以て被支給候事」の通達を出し、昭和20年の終戦に至るまで官費をもって招魂社の諸費は賄われて来た。また、明治16年8月には社殿を新築し、石棚を造り、招魂場としておなり、の体裁を整えた。招魂社が明治2年に設けられて以来明治16年までに支出した金員は2千余円の多額にのぼる旨が記録されている。
憲法が改められて以来、官営の招魂社は認められなくなり、昭和20年宗教法人山国郷社となり、昭和26年宗教法人山國護国神社となって、町民崇敬の社となっている。明治百年祭より、日清・日露・大東亜戦の戦病死者を昭和42年より合祀されている」

説明板は以上です。

石段をのぼると、まず、明治2年に造られたという招魂碑(石)がある。また、明治16年ころに建てられた3メートルくらいの顕彰碑(京都府知事槙村正直が碑文を書いたのだろうか、なに書いているのかはよく見えない)。そして、隊士の墓標がずらりと立っている。隊士は83名いたというけど、数えてないけど、83あるのだろうか。
墓標は1段目(上)と2段目(下)に分けられていたけど、これは山国隊は東軍と西軍に別れたというから、そのためだろうか?わからない。

何の説明もない。いや、隊士83名の名前くらいははっきりと説明板に書くべきだろう。
墓標に、名前は刻んでいるといっても、読みにくい。

個人の小さな説明板はある。池田慶徳、河田左久馬、原 六郎、槙田正直の4つだ。
池田慶徳は因幡藩藩主(水戸斉昭の子)、招魂碑の石の「大きみの御たてとなりし ますらおの いそしを 世々にたつる石ふみ」という歌はこの人が作ったらしい。

河田左久馬。因幡藩士。因幡藩きっての攘夷志士。山国隊は因幡藩とともに行動することになり、河田は山国隊の隊長になる。

原 六郎 (但馬の出身だが、生野の変に参加したあと、因幡藩に保護を求めた)。山国隊の司令長になる。

槙村正直(長州藩士。行政裁判所長官となり、無役地事件にもかかわる) 京都府知事。

この4人とも山国の人ではない。4人とも明治後もそれぞれ栄光に包まれた生涯を送った人だ。

なぜ、山国出身の人を、山国隊士全員の名を出し、かれらの事蹟を知らしめようとしないのだろう。

画像は墓標。一番、右が隊長河田左久馬、その隣は原 六郎。他の墓標よりも少し土台が高くなっている。差をつけているわけだ。なんだい、これは、おかしいよ。

この墓標が造られた頃は、すでに天皇制軍隊も確立され、草莽の存在よりも、天皇を上にいただく階級意識が濃厚になってきていたのだろうか。

山国出身の山国隊の主人公たちはどこにいるのか。とりあえず1杯飲ってからにしよう。



山国隊探索報告 ①

2010-04-19 | 歴史
山国神社と山国護国神社とは違うようだ。
山国護国神社は、山国隊の隊士たちを祭る場所で、隊士たちの墓標が立っている。画像が山国護国神社の入り口。この横に説明版が立っているが、手書きの文字で、だれが書いたかも記入していない。いや、上にのぼると、いくつか人物を説明した板も立っているが、だれが書いたか、わからない。ふつう、こういう説明版は教育委員会が書くけど、これは村の人が書いたのだろうか。

ここはたまたま通りがてらに、見つけてちょっとしか見ていないのだけど、いろいろ疑問に感じることがあった。

まずは、神社下の説明板をそのまま書いてみる。

「    山國護国神社由緒

王政復古の政変に際し、勤皇隊の総司令官西園寺公望公の要請に呼応して、山国庄の名主等が農民兵を組織して勤皇隊に加わり、鳥羽・伏見の戦はもとより遠く江戸、奥羽地方まで転戦した事は史実に基づいても明らかな所であります。
其の山国隊が、山国庄に明治2年2月21日凱旋した日に伍長会を開いて戦病死をした戦士の招魂場を設けることを話した後、2月24日全隊員が先ず王社明神に参拝して報告祭を催し、その足で、先日議決した薬師山に戦病死をした七隊士の墓標をたて招魂祭を催した。その隊士の名は次の通りである。

仲西市太郎(江戸) 田中浅太郎(安塚) 田中伍右衛門(上野) 新井兼吉(安塚) 高室重蔵(江戸) 高室治兵衛(安塚) 北小路萬之助(京都)

明治8年12月15日最初の招魂祭を京都府の監督官の臨席のもとに催したが、これが恒例となって、毎年、山國村民が多数参列して現在に至るまで盛大に執行せられている。」

まだ、続くが、ひとまず、ここで1服。