虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

山国隊 ③

2010-04-20 | 歴史
前回の山国隊の墓標の説明、訂正。一番右が原 六郎で、そのとなりが河田左久馬、そのとなりが水口市之進。
水口市之進は山国隊の代表の一人だが、もう一人総代の地位にあった藤野 斎(いっき)の墓標はどこにあるのだろう?
だいたい、この神社で、なぜ地元山国の藤野や水口の説明が一切なかったのだろう。

藤野 斎が京都の芸者との間にできた子供は日本映画界の父といわれた牧野省三。
牧野省三は映画「山国隊」を作ることを夢見ていたそうだ。

また、隊士の中に北小路という名前の人がいるが、この人はかつて60年安保のとき全学連委員長として名を鳴らした北小路敏の先祖だそうだ。

隊員たち83名の名前、出身村 年齢などはわかっているはずだけど、いったいどこで確かめたらいいのだろう。

さて、山国という土地は古来、皇室とは関係が深かったらしい。平安遷都のとき、その造営の材木を提供したのはこの土地。江戸時代までは皇室領だった。江戸時代になってから、皇室領、旗本領、門跡領に分割され、村人にとっては、皇室領に統一されることが願いだったようだ。

戊辰戦争が始まるとき、朝廷は丹波の村々に檄を飛ばした。西園寺公望の出した檄文にはこうある。
「官軍へ加わり候村々は、当年限り年貢半納の御沙汰これあるべく候、もし、狐疑いたし、不参せしむるにおいては、その一村たちどころに御誅罰あい加えられるべき事」

相楽総三たち赤報隊は、一足先に年貢半減を掲げ、東に進んでいた。
山国隊は、その後を進む東山道軍に属した。
摂津の多田御家人たちの多田隊も同じく、このとき、檄に応じて東山道軍に参加している。
「山国隊」という名は岩倉具視がつけたそうだ。

さて、山国隊は、近藤勇たちとの勝沼の戦いや彰義隊との戦い、奥羽戦争まで転戦するが、その費用は自弁で、なんと七千八百両かかったそうだ。

戦いが終わっての章典は、他の草莽への報いと同様、わずかなもので、莫大な借金だけが残ることになる。

武士で他藩の河田左久馬や原 六郎たちは中央に出て出世をしていくが、山国隊員たちは、みな、山国の地で一生を終えた。

古本うしおに堂のブログにも、山国隊の本について少し書いておきました。



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