今日、書店で「日曜日に読む荘子」という新書版の本を見つけて立ち読みした。
荘子、という言葉を見ると、小田実、ロマンロランなどと、同じく、おや?と気にせずにはいられないのだ。
日曜日、酒を用意して、窓辺で、秋風を体に受けながら、荘子を読む。これは、わたしもときどきやっている元気回復法だ。序章に、そんなことが書いてあった。本文は、ちょっと何をいってるかわからなくて、むつかしそうなので、買うのはやめた。荘子は、そこにいるだけでいいのだ。荘子を解説するとなると、荘子が荘子でなくなる。
荘子に興味を持ったのは、19歳くらいだろうか。
どうして、興味を持ったのだろう。
司馬陽太郎の「竜馬がゆく」に竜馬は老子を愛読していた、という一節があったからだろうか。漢文の時間はだいたいねていたから、学校で興味を持ったはずはない。子どものころ読んだ芥川の「杜子春」に出てくる仙人のことが頭に残っていたからだろうか。わからない。まあ、もっとも元気な青春時代に、「荘子」がバイブルになった。これさえあれば、絶望はない。絶望している人、死にかけている人には、この本を読ませたい、と想っていた。実際、人を送るとき、この本を(もちろん、福永光司の荘子だが)をプレゼントとして贈ったこともある。今、思えば、相手は、どんな反応だったのだろう。ちょっと恥ずかしい。
ペラペラとめくって、適当に読む。聖書には、聖書占いというものがあって、その日、適当に本を開いて、開いたページが自分への今日の言葉だとするそうだが、そんな読み方だ。
「老子」もいい。しかし、老子は無口だ。荘子は縦横に語ってくれるので、親近感を覚える。
最近、おれは、荘子よりも、ただ、読みながら飲む酒が好きではないのか、と想うようになった。どうも、中国の隠者というものが好きらしい。つまり、酒飲みなんだ。
荘子、という言葉を見ると、小田実、ロマンロランなどと、同じく、おや?と気にせずにはいられないのだ。
日曜日、酒を用意して、窓辺で、秋風を体に受けながら、荘子を読む。これは、わたしもときどきやっている元気回復法だ。序章に、そんなことが書いてあった。本文は、ちょっと何をいってるかわからなくて、むつかしそうなので、買うのはやめた。荘子は、そこにいるだけでいいのだ。荘子を解説するとなると、荘子が荘子でなくなる。
荘子に興味を持ったのは、19歳くらいだろうか。
どうして、興味を持ったのだろう。
司馬陽太郎の「竜馬がゆく」に竜馬は老子を愛読していた、という一節があったからだろうか。漢文の時間はだいたいねていたから、学校で興味を持ったはずはない。子どものころ読んだ芥川の「杜子春」に出てくる仙人のことが頭に残っていたからだろうか。わからない。まあ、もっとも元気な青春時代に、「荘子」がバイブルになった。これさえあれば、絶望はない。絶望している人、死にかけている人には、この本を読ませたい、と想っていた。実際、人を送るとき、この本を(もちろん、福永光司の荘子だが)をプレゼントとして贈ったこともある。今、思えば、相手は、どんな反応だったのだろう。ちょっと恥ずかしい。
ペラペラとめくって、適当に読む。聖書には、聖書占いというものがあって、その日、適当に本を開いて、開いたページが自分への今日の言葉だとするそうだが、そんな読み方だ。
「老子」もいい。しかし、老子は無口だ。荘子は縦横に語ってくれるので、親近感を覚える。
最近、おれは、荘子よりも、ただ、読みながら飲む酒が好きではないのか、と想うようになった。どうも、中国の隠者というものが好きらしい。つまり、酒飲みなんだ。