虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

ジョセフ彦漂流記1

2007-09-15 | 歴史
 今回も、また、9年前に書いたパソ通の歴史談話室からのコピーでブログを埋めてしまいます。
ジョセフ彦。ジョン万次郎は故郷に記念館もできているけど、彦は、記念碑だけで何も記念館らしきものはない(播磨町よ、作るべし)。知名度もジョン万よりも劣るのではないか。
ジョセフ彦は、長崎で桂小五郎や伊藤博文と交際あり、桂は竜馬あての手紙で、「彦と話し合うように」という手紙も出しているそうだが、竜馬との接触の史料的な裏づけはまだないようだ。でも、竜馬が長崎にいた時代、グラバー亭に彦は住んでいたのだから、会っていたはず。竜馬の民主主義観は、彦の影響もあったとなると、おもしろい。ジョセフ彦は日本で初めて新聞を作った人としても知られる。吉村昭の「アメリカ彦蔵」、「アメリカ彦蔵自伝」は、その後、手に入れたが、まだ読んでいないままだ。知名度も依然として低い。

昨年だったか、アメリカのジョン万の住んでいた家を記念館にする計画が、資金が集まらないので頓挫してしまった、という記事があった。
どうも、漂流民(船乗り)というのは、ちょっと格下げて見ているのではなかろうか。かれが武士や政治家だったら、こんな不当な評価は受けまい。彦や万は、政治家にはない庶民としての謙虚さが多すぎたのだろうか。漂流談を読んで思うのは、江戸時代の船乗りたちの人間力のすばらしさだ。もう一つ、思うのは、ロシアやアメリカの人々の異国人へのやさしさだ。アメリカは「白鯨」の時代にあたる。このころの海の男はいいな。
ちなみに、鶴見俊輔は小田実のことをジョン万次郎に比していた。
彦については、日本に帰国してからの活動をこれから調べたいな、と思っています。
以下、昔のコピー。

                           
彦蔵漂流記
( 8) 98/07/01 22:15 コメント数:2

さて、次は浜田彦蔵(ジョセフ彦)の漂流記です。
これは短いので、すぐに終わりそうです。
出版されたのは、文久3年、秋。幕末動乱まっさい中の時です。
彦蔵は、まだ日本語で自由に文章表現することはできないので、これは
岸田吟香が代筆したようです(聞いたことある名だけど、思い出せないや)。

近世後期の日本人の外国人との交渉は、まずは、漂流民個人、次が外国奉行、
次が外国使節、そして、留学生たち、そして、そして、それからは、どっと外
国が日本に満ちあふれるわけですね。

この彦蔵の漂流記は、福沢諭吉の「西洋事情」(慶応2年)よりも早く、アメリカ
紹介では先駆的だったようです。坂本竜馬もひょっとして読んだのだろうか(?)。
しかし、こんなの読んで感心しているところを見つかったら、「天誅!」と浪人
に斬られるかな(^^)

彦蔵は、天保8、兵庫県播磨に生まれ、「栄力丸」に乗って遭難したのは、13才の
時です。かれの経歴は「アメリカ彦蔵自伝」があるのですが、図書館が、今、休み
なので、まだ見ていません。
で、ここでは、彦蔵自伝とは別の「漂流記」の記事からのみ、報告します。

ただ、この栄力丸に彦蔵といっしょに乗っていた人たちは、幕末の漂流だっただけに
それぞれ、数奇な運命をたどっています。
まず、仙太郎というのは、ペリ-艦隊に乗って帰国します。亀蔵という人は、 遣米使
節 新見豊前守一行と帰国。岩吉という人はオ-ルコックの召使となっていましたが、
ジョウイ浪士(?)に殺されます。
また、「海嶺」の主人公音吉の世話なったのも、この栄力丸の船のりたちでした(日米
和親条約が調印されたあとで帰国できる)。
というわけで、今回は前おきだけで、おわりになっちゃいました。
                              
彦蔵漂流記(2)
( 8) 98/07/02 23:04 04043へのコメント コメント数:1

嘉永3年(1850)、10月26日、浦賀港を出航した栄力丸(17人)は遠州灘
で暴風にあい、異国船に救助されたのが12月21日。
約50日間の漂流です。この50日間、彦蔵は(少年の時は彦太郎だったそうだが)、
メモをとっていたのか、「漂流記」には、この漂流期間中の天候や船のようす
をかんたんにですが、記録しています。
えらい感心な子供ですね。
このとき、少年彦は満でいえば13才、炊(かしき)役です。
12才の時まで寺子屋に通っていたというから、かんたんな読み書きはできた
のでしょう。
でも、この彦少年、家庭的には恵まれてなくて、実父は彦が1才の時に死亡、母親
は12才の時に死亡しているのです。たしか彦自身の墓もその後、無縁墓になって
いたのではないかな(このへん確認してませんが)。しかし、写真で見ると、
彦は、謙虚そうで、ハンサム、とてもスマ-トな男です。

50日間の記録をちょっと眺めると以下のようなものです(省略しています)
10月29日。この日から漂流記録は始まります。風雨が激しくなり、帆を下ろし、
     船は飛鳥のようになり、生きた心地もなかった、と書いています。
10月31日、船の安定のために、帆柱を切り捨てる。
11月1日、風波もおさまり、桁を帆柱の代用にする。
    日本の船を見る。みんなは、この船に乗り移ろうというが、
    船長は、あえて助けを求めない。船長は、今年の春に船を失っているので、
    今、また船を捨てるのはいやだったのだろう。(まだ、陸に戻れる、
    と思っていたのだね。船長の責任は思いね。)
    夜、また大風。帆をおろす。
11月2日、かすかに山が見える。みんな喜ぶ。島の海岸に着く。
11月3日、島に上陸しようと思ったが、どこの国の島かわからない、
    もし鬼の住む島であったなら、命を失う、などど評議しているうちに、
    上陸もせず、漂流。また、途中で、ひとつの島を発見し、八丈島だと言う
    者もいたが、風の具合が悪く、東へ漂流する。
    (このへんまでは助かるチャンスはあったのだのな)

11月13日、風、強く、船は転覆しかける。積み荷を捨てる。髪を切り、神仏に
     祈る。(いよいよ、みんな覚悟を決めたか)
11月18日、蒸留器を仮に設けて、塩水から真水をとる。
11月23日、船頭は23夜を信仰していて、粥をたき、ぼた餅を作り、月の前に供えて
     みんなでたべる。(漂流中なのに、なかなか風流だぞ)
11月24日、2匹の恐ろしい鰐鮫が向かってくる。
12月3日、夕刻になって雪がふりだす。
12月5日、大波のため、船内に大量の海水。深さは6尺。けんめいにアカ(海水)を
     くみだす。
12月20日、船釘がゆるんだため、ロ-プを船に巻つける。
12月21日、異国船に救出。米国船オ-クラント号。

          

ジョゼフ彦漂流記2

2007-09-15 | 歴史
彦蔵漂流記(3)
( 8) 98/07/03 22:49 04056へのコメント コメント数:2

嘉永3年(1850年)、12月21日に栄力丸を救出した異国船は、アメリカの
商船オ-クラント号。中国からカリフォルニアへ帰る途中の船でした。

約40日の航海を続けてカリフォルニアに着くのですが、なにしろ
異国人と会うのは初めてなので、みんな疑心暗鬼の心境だったようです。
船員が「フィジ-島の人は人を食う」という話をすると、われわれもその
うち食われるのか?と思ったり、生きた豚を1頭殺す場面を見て、やはり
異人は鬼と同じだ、と恐れたり。

嘉永4年(1851年)1月23日、カリフォルニアの港に着く。港の役人がきて
「ハウア ユ-」と言ったので、この言葉は「はいや」に似ているので、
うれしかったとか。カルフォルニアは元メキシコの領土だったが、戦争
をして、アメリカの領土となり、金鉱の発見のため、サンフランシスコ
は大都会となった、と書いています。

着いた翌日、彦は港の役人に上陸を許され、まず靴を買ってもらい、市中見
物をする。黒人が大声を出して馬を御し、荷物を運んでいたりするのに驚き、
彦はまだ13才なので、黒人を怖がり、船主の手をぎゅっと握って船主のそば
をはなれなかったそうな。かわいいね。お店でパイというお菓子を食べさせ
てもらう。

港には古くなった船で、ただ荷物を積んでおく倉庫船といわれる船があり、彦
の船は、この倉庫船の隣に停泊する。倉庫船の主は彦たちを珍しがり、夜、
踊りに案内してくれる。2階建ての建物で2階が舞台、1階が飲食。踊るものは
仮面をかぶって、男が女の姿をし、女が男のふりをするそうだ。踊りが始まる
前、彦たちは舞台にあげられて紹介される。大勢の見物人たちから、煙草や指
輪やお菓子など恵んでもらったそうだ。彦が一番たくさんもらったそうで、洋
銀16枚もあったよし。やはり子供というのは得だね。
アメリカ人はみんな親切だったけども、特に漂流したのが子供の場合、みんなの
同情をひきますからね。

でも、子供だからと思って反対にだます悪い奴も中にはいたらしい。
踊りを見物してから2、3日後、別の船員が、あの洋銀16枚もっておいで、洋服を
買ってあげよう、と彦をつれだしますが、遊女のいるちょっといかがわしそうな
料理屋で勝手にさんざん飲み食いし、支払は彦の洋銀を使われたそうな。子供の
金を使って酒飲むな!

しばらくして、彦たち17人は港を防御するための大軍艦に乗り移り、ここで1年間
生活することになる。船長は常に彦をそばにおいて用事に使ったらしい。また、
この船で日本人の世話をする担当になったのは、ト-マスという人。見かけは髭面の
たくましい大男たが、とてもやさしく親切な人だったようだ。
この船で1年間、生活したのだけど、そこでの生活については書いてくれてないので、
わかりません。
あ、ひとつだけ、船の人たちは、毎日、何度も鉄アレイ(片手で持つ奴)を使って
筋肉を鍛えておったそうな。

書き落としたけど、船に救助された時、彦たちは半熟のゆでたまごを出されて、
これは変だぞ、と苦情を言おうとしたらしい。ということは、江戸時代の人たちの
ゆでたまごは、半熟ではなかったのだね。わたしも半熟は嫌いだ。
                               
彦蔵漂流記(4)
( 8) 98/07/04 21:09 04063へのコメント コメント数:1

彦たちを送り返してくれる軍艦がやっと港にきた。
1年間、彦たちは港の船に抑留生活を送ったわけだが、食事、衣服、調度に
いたるまで何不自由なく世話をしてもらったようで、船主と別れる時は、父母に
別れる思いがしたそうです。

さて、新しい軍艦の名は、セント・メリ-号。
大砲は22挺あり、乗り組みの役人28人、兵卒水兵100人ほどで今までで一番大きな
軍艦だったらしい。
出航してから17日目にサンドイッチ島(ハワイ)に着く。着く直前に、栄力丸の船
頭、万蔵が病死。遺体は島に葬り、10日間、島に滞留。

サンドイッチを出航して40日目、香港に着き、ここに3日間、滞留。ここは阿片戦争
でイギリスに奪われ、異人の家は美しいが、中国の人の家はとても粗悪、と書いてあ
ります。香港からマカオの港に入る。

そして、サスケハナ号に乗り移るのだけど(どこで乗り移ったのかがよくわからぬ)、
このサスケハナ号に乗り移ってからの待遇はすごく悪かったようです。

米など一粒もくれず、食事は水夫用、怒って足蹴にされることもあったらしい。
この軍艦の日本人への取扱いが悪かったのは、この船は中国人を常に取扱いなれた船
だったので、中国人に対すると同様の扱いをするため、と書いてあったが。
サンフランシスコからここまでいっしょに付いてきてくれたトマスさんも、同情し、
心を痛めてくれたのだけど、トマスさんにもどうすることもできず、追っ付けペリ-
がくる、ペリ-がきたら日本に送り返す、その時までしばらくがまんしてほしい、と
言われたそうだ。

しかし、3か月待ってもまだペリ-は来ない。この船の待遇にはがまんできないと
思った仲間の中の8人は南京に行ってそこから日本に帰ろうと思い、ついにこの軍艦か
ら脱走。しかし、途中で強盗に襲われ、身ぐるみはぎとられたので、再び、やむなく、
この軍艦に戻る。脱走なんかしたので、ますます待遇は悪くなったそうです。

トマスさんもいよいよイギリス船に乗ってアメリカに帰国することになる。
彦に言う。
「カリフォルニアは繁盛しているし、仕事も多い。日本に帰ろうとしても、ペリ-は来
ないし、いつになるのかもわからない。船の待遇も最悪だ。どうだ。わたしといっしょ
に船に乗らないか。日本の近海を通って帰るし、日本に帰れるかもわからない。もし、
日本に帰れなくても、アメリカでは自分が世話をし、立身の道を見つけてあげる」

彦は一人では心配、日本人2、3人を同伴させてほしい、と頼むが、一人の賃金までは出
せるけど、それ以上は出せない、と言う。で、彦は一人で行こうと決心する。
でも、トマスさんはやっぱりやさしい人で、次作と亀蔵の二人も同伴してくれました。

こうして、彦たちは再び、アメリカへ。のこりの人たちは?
のこりの人たちはやはり、このサスケハナ号を出て、上海にいき、そこで音吉の世話に
なって、ペリ-に先立って帰国することになります。
いや、ペリ-のサスケハナ号に乗った人がひとりだけいました。岩吉。
としまるさんが、「女衒てやつだよ」と紹介してくれていましたが、うん、この男は
どことなく陰があります。みんながいやがっていたサスケハナ号に乗って帰るのだから、なにか異国人と裏の結びつきがありそう(妄想モ-ド(^^))
                              

RE:彦蔵漂流記(4)
( 8) 98/07/04 22:47 04070へのコメント コメント数:1

自己レスです。
勘違いしました。
>いや、ペリ-のサスケハナ号に乗った人がひとりだけいました。岩吉。
>としまるさんが、「女衒てやつだよ」と紹介してくれていましたが、
サスケハン号に乗って帰ったのは、仙太郎でした。
岩吉はやはりオ-ルコックとともに帰ります。すいません。
もうひとつ。
>のこりの人たちはやはり、このサスケハナ号を出て、上海にいき、そこで音吉の世話に>なって、ペリ-に先立って帰国することになります。
「ペリ-に先立って帰った」と「漂流記」には書いているけど、他の者は安政元年7月に中国の船で長崎に帰っています。う--ん、このへんは今ひとつはっきりしません。まちがってるかもしれません。
                 

ジョセフ彦漂流記3

2007-09-15 | 歴史
彦蔵漂流記(5)
( 8) 98/07/05 15:59 04071へのコメント コメント数:1

彦と次作と亀蔵を乗せたイギリス船は香港から、約60日目の航海で再び、カルフォリ
ニアに到着。トマスは以前、永く滞留していた港の軍艦にいき、日本人3人を連れ帰
ったことを告げると、船長は、彦だけ軍艦に乗れ、との指示。彦だけ、軍艦に乗船。
(トマスは船長さんにしかられたのだろうか)。次作、亀のふたりは、
トマスに伴われてちがうところに上陸。

嘉永5年(1852)、越後新潟の漂流民一人が蜜柑を積んだ異国船に救助されて、サンフ
ランシスコの港に入る。彦は少し英語ができるので、通訳をしろといわれて港奉行(税
関長)のところへ行って漂流民の世話をする。ここで税関長サンダ-スさんに見込まれた
のでしょう。
おれのところに身を寄せたら、一人前にしてやる、といわれ、彦はここで世話になる。
他のふたりはトマスの世話でそれぞれ仕事先を見つけます。

港奉行のサンダ-スはボルチモア出身のすごいお金持ち(銀行業もしている)で、役所か
らはいつも馬車を御して家に帰っている。

サンダ-スは家業のことでロシアに用事ができたので、税関長の仕事をやめ、3年振りに
故郷のボルチモアに帰ることになり、彦を同伴する。
サンフランシトコからまず、ニュ-ヨ-クへ。

ニュ-ヨ-クではメトロポリタンという超一流のホテルに泊まる。5階建て、部屋数およそ
2、300。召使、ボ-イなど120人以上の従業員。部屋にはガス管(石炭ガス)があって、
ねじをひねって火をつけると、燃えるのに、びっくりしている。家の中はもちろん、道路にいたるまで夜でも昼のように明るいと書いています。
また、このホテルの下には電信機屋さんがあって、サンダ-スが利用しているのを見てい
る。
ホテルで一泊したあと、川蒸気船に乗ってブルックリンにいき、ここから蒸気車に乗ってボルチモアのサンダ-スの家に着く。
蒸気車に乗ったのは日本人第1号でないのやろか(いや、ジョン万さんが先かな?)

サンダ-スは彦を連れてワシントンの大統領の家まで連れていってくれる。
大統領といえば、彦にすれば、アメリカ国王、さぞや城郭は厳重で大きな造りだろう
と緊張するが、意外に手軽な住居なのにびっくりする。門番もなく、下男が出て取り次いでくれる。ふつうの人の家とたいして違わない。
大統領はお客さんと対談していたが、客が帰ると、彦に手をさしだして握手し、自分か
らいすをもってきて彦をすわらせてくれる。幼いから政府の学校に入れてあげたらどうか、
と大統領はすすめたらしい。この時の大統領は14代フランクリン・ピアス。

江戸時代、船乗りのせがれなど、将軍さまはおろか、田舎のお殿様でも、彦などに口を
聞いてくれることは決してありえないのに、彦は強いカルチャ-ショっクを受けたので
はないでしょうか。
                                 
彦蔵漂流記(6)
( 8) 98/07/05 23:09 04077へのコメント コメント数:1

 ちょっとスピ-ドをあげます。
ボルチモアに帰り、サンダ-ス氏はロシアに仕事へ、彦はサンダ-ス氏の
自宅から学校に通うことになる。
生徒は150人くらい、先生は15人ほどのミッションスク-ル。
言葉がまだよくわからず、同じようには学ぶことができないので、先生を別につけ
てくれたそう。正月から6月までの半年間通う。

さて、6月を過ぎると夏休みだろうか、暑い夏はサンダ-ス夫人の母親が住んでいる
山の中の別荘で2カ月間、過ごしています。
ここでサンダ-ス夫人の母親から牛乳を飲めば身体は丈夫になるとすすめられ、はじ
めは鼻をつまんで飲んだけど、なれたらしい。

夏が終わったころ、サンダ-ス氏がロシアから帰り、また、カルフォルニアの商館に
つれていかれ、そこで二人のイギリス人のもとで学問の修行をすることになる。
しかし、ここに1年半ほど過ごしたころ、サンダ-ス氏は事業に失敗し、そのため、
彦の世話もできなくなる。学問も途中でやめ、彦はある商店で働くことになる。

商店で働くこと1年半、今度はある上院議員が彦をワシントンに連れていくことになる。
近く、ペリ-が日本と和親条約を結ぶことになっている。彦をワシントンの政府の書記役
として働かせ、十分知識を身につけさせて日本に帰国させたら、日米両国のために
なると考えたらしい。サンダ-ス氏の賛成を得て、彦は上院議員といっしょにワシントン
へいき、時の大統領(15代ブキャナン)の前に出る。しかし、まだ書記役に空席はなかった。
で、しばらく、上院議員の家で食客となり、日々、読書をする。ここで、ブルックという天文、測量、航海の学士と知り合い、特別に仲良くなる。

このブルックが軍艦の艦長に選ばれ、日本に渡航することになったので、彦は書記として船に乗りこむことになる。
安政5年(1860)9月軍艦(測量船ク-パ-号)に乗ってサンフランシスコを出航。

さて、この測量船に乗って太平洋を航海しているとき、彦は不思議なものを見ます。
以下、原文から
「海中、不思議のことあり。太洋中は、深くあるべしとかねて思いつるに、かえって浅
 く、地方(陸地)近きところに、深さ1里半に及ぶところあり。また、この海底の土を
 とりて試みるに、焼き物の破損せるがごときものあり。これを指間に捻ずれば、あた
 かも餅の粘滑に似たり。彼是をもって考えるに、前世の地方(陸地)変化して海中と
 なりし物ならんか」
!太平洋に沈んだ謎の大陸、まさか、ム-大陸の話をしているのではなかろうか(^^)
日本人としては、この話をする第1号でしょう。

測量船は小さく船酔いがはげしいので、サンドイッチ島で船をおりて、しばらく滞留し、今度は商船で、香港にいく。香港では、あの岩吉がいた。オ-ルコックに従って帰国する
予定。オ-ルコックは彦を見て英国の通訳にほしいと相談するが、岩吉の職を奪うことに
なるので、断わったそうな。
香港から軍艦ポ-ハタン号に乗って上海へ。
上海から軍艦ミシシッピに乗る。ミシシッピで初めてハリスに対面、ハリスは彦を横浜
領事の通訳とする。
安政6年(1859)6月神奈川入港。彦21才。9年ぶりの日本です。
                               

彦蔵漂流記(7)おしまい
( 8) 98/07/06 19:05 04079へのコメント コメント数:1

彦蔵の「漂流記」には、漂流談を終わった後、漂流記余話として、かんたんに、
アメリカの歴史、アメリカの政治理念、選挙の方法、税、裁判、教会、僧侶の
果たす大事な役割、結婚、祭日、芝居、将棋(チェス)、スポ-ツ、武芸、橋、
鉄船、蒸気車などについて書いています。

当時の日本の国情としたら、漂流した個人の苦労話よりも、こうした外国の事情
こそ、人々に求められたものなのでしょう。
彦蔵の本が出た3年後、慶応2年に福沢諭吉がこうした「西洋事情」をひっさげて
華々しくデビュ-するのですが(ベストセラ-になったらしい)。
しかし、彦蔵の本も文久3年という大攘夷の年に出され、何人かを大いに啓蒙した
にちがいありません。
特に、ワシントンの政治について話したところが白眉ではないかな。
以下のような部分があります。

ワシントンの功績によって独立できたのだから、その子孫を永く国王にしよう
と衆議一決してワシントンにそのことを言うと、ワシントンいわく。
「今度の戦争は国王の辛政に窮して蜂起したものだ。国民の心が一致すること
によってようやく辛政をまぬがれた。これを考えると、国王の辛政は民衆に害あ
ること外患よりも大きい。また、人民が一致和親しておれば、どんな大敵もとる
にたりない。わが子孫に王位を伝えるとしても、子孫に必ずや不肖の者が生まれ
て国民を苦しめるだろう。国中が一致和親する法律で国を治めること以上によい
ことはない。国民に貴賎の隔てなく、みな同等と定め、禄位を世襲にせず、才能
があって国民が従うものを選んでそれぞれの役人とし、そのうちの最もすぐれた
ものを大統領に挙げたなら、諸民もその命令に従うだろう。しかし、官位にいる
ことが長ければ、おごりぜいたくする者もでてくるから、在位は4年間に限って
位を退き、一般庶民に戻り、また他の賢人を選んで位につかせるべきである」
民衆は、ワシントンの私欲なく、国民のために計ることに心服してその方法に
したがった、とあります。

昔、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んだとき、竜馬はワシントンの子孫は今、
何している?と聞いて、だれも知らないと答えられてびっくりし、アメリカの政体
を頓悟したというような場面があったような。また、西郷さんも、ワシントンを大
英雄として尊敬していた、という話も耳にしたことがあるぞ。
ということは、志士たちも、彦のこの話は伝え聞いたのかもしれないね。
  (日本庶民生活史料集成「漂流」より)