虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

ジョセフ彦漂流記3

2007-09-15 | 歴史
彦蔵漂流記(5)
( 8) 98/07/05 15:59 04071へのコメント コメント数:1

彦と次作と亀蔵を乗せたイギリス船は香港から、約60日目の航海で再び、カルフォリ
ニアに到着。トマスは以前、永く滞留していた港の軍艦にいき、日本人3人を連れ帰
ったことを告げると、船長は、彦だけ軍艦に乗れ、との指示。彦だけ、軍艦に乗船。
(トマスは船長さんにしかられたのだろうか)。次作、亀のふたりは、
トマスに伴われてちがうところに上陸。

嘉永5年(1852)、越後新潟の漂流民一人が蜜柑を積んだ異国船に救助されて、サンフ
ランシスコの港に入る。彦は少し英語ができるので、通訳をしろといわれて港奉行(税
関長)のところへ行って漂流民の世話をする。ここで税関長サンダ-スさんに見込まれた
のでしょう。
おれのところに身を寄せたら、一人前にしてやる、といわれ、彦はここで世話になる。
他のふたりはトマスの世話でそれぞれ仕事先を見つけます。

港奉行のサンダ-スはボルチモア出身のすごいお金持ち(銀行業もしている)で、役所か
らはいつも馬車を御して家に帰っている。

サンダ-スは家業のことでロシアに用事ができたので、税関長の仕事をやめ、3年振りに
故郷のボルチモアに帰ることになり、彦を同伴する。
サンフランシトコからまず、ニュ-ヨ-クへ。

ニュ-ヨ-クではメトロポリタンという超一流のホテルに泊まる。5階建て、部屋数およそ
2、300。召使、ボ-イなど120人以上の従業員。部屋にはガス管(石炭ガス)があって、
ねじをひねって火をつけると、燃えるのに、びっくりしている。家の中はもちろん、道路にいたるまで夜でも昼のように明るいと書いています。
また、このホテルの下には電信機屋さんがあって、サンダ-スが利用しているのを見てい
る。
ホテルで一泊したあと、川蒸気船に乗ってブルックリンにいき、ここから蒸気車に乗ってボルチモアのサンダ-スの家に着く。
蒸気車に乗ったのは日本人第1号でないのやろか(いや、ジョン万さんが先かな?)

サンダ-スは彦を連れてワシントンの大統領の家まで連れていってくれる。
大統領といえば、彦にすれば、アメリカ国王、さぞや城郭は厳重で大きな造りだろう
と緊張するが、意外に手軽な住居なのにびっくりする。門番もなく、下男が出て取り次いでくれる。ふつうの人の家とたいして違わない。
大統領はお客さんと対談していたが、客が帰ると、彦に手をさしだして握手し、自分か
らいすをもってきて彦をすわらせてくれる。幼いから政府の学校に入れてあげたらどうか、
と大統領はすすめたらしい。この時の大統領は14代フランクリン・ピアス。

江戸時代、船乗りのせがれなど、将軍さまはおろか、田舎のお殿様でも、彦などに口を
聞いてくれることは決してありえないのに、彦は強いカルチャ-ショっクを受けたので
はないでしょうか。
                                 
彦蔵漂流記(6)
( 8) 98/07/05 23:09 04077へのコメント コメント数:1

 ちょっとスピ-ドをあげます。
ボルチモアに帰り、サンダ-ス氏はロシアに仕事へ、彦はサンダ-ス氏の
自宅から学校に通うことになる。
生徒は150人くらい、先生は15人ほどのミッションスク-ル。
言葉がまだよくわからず、同じようには学ぶことができないので、先生を別につけ
てくれたそう。正月から6月までの半年間通う。

さて、6月を過ぎると夏休みだろうか、暑い夏はサンダ-ス夫人の母親が住んでいる
山の中の別荘で2カ月間、過ごしています。
ここでサンダ-ス夫人の母親から牛乳を飲めば身体は丈夫になるとすすめられ、はじ
めは鼻をつまんで飲んだけど、なれたらしい。

夏が終わったころ、サンダ-ス氏がロシアから帰り、また、カルフォルニアの商館に
つれていかれ、そこで二人のイギリス人のもとで学問の修行をすることになる。
しかし、ここに1年半ほど過ごしたころ、サンダ-ス氏は事業に失敗し、そのため、
彦の世話もできなくなる。学問も途中でやめ、彦はある商店で働くことになる。

商店で働くこと1年半、今度はある上院議員が彦をワシントンに連れていくことになる。
近く、ペリ-が日本と和親条約を結ぶことになっている。彦をワシントンの政府の書記役
として働かせ、十分知識を身につけさせて日本に帰国させたら、日米両国のために
なると考えたらしい。サンダ-ス氏の賛成を得て、彦は上院議員といっしょにワシントン
へいき、時の大統領(15代ブキャナン)の前に出る。しかし、まだ書記役に空席はなかった。
で、しばらく、上院議員の家で食客となり、日々、読書をする。ここで、ブルックという天文、測量、航海の学士と知り合い、特別に仲良くなる。

このブルックが軍艦の艦長に選ばれ、日本に渡航することになったので、彦は書記として船に乗りこむことになる。
安政5年(1860)9月軍艦(測量船ク-パ-号)に乗ってサンフランシスコを出航。

さて、この測量船に乗って太平洋を航海しているとき、彦は不思議なものを見ます。
以下、原文から
「海中、不思議のことあり。太洋中は、深くあるべしとかねて思いつるに、かえって浅
 く、地方(陸地)近きところに、深さ1里半に及ぶところあり。また、この海底の土を
 とりて試みるに、焼き物の破損せるがごときものあり。これを指間に捻ずれば、あた
 かも餅の粘滑に似たり。彼是をもって考えるに、前世の地方(陸地)変化して海中と
 なりし物ならんか」
!太平洋に沈んだ謎の大陸、まさか、ム-大陸の話をしているのではなかろうか(^^)
日本人としては、この話をする第1号でしょう。

測量船は小さく船酔いがはげしいので、サンドイッチ島で船をおりて、しばらく滞留し、今度は商船で、香港にいく。香港では、あの岩吉がいた。オ-ルコックに従って帰国する
予定。オ-ルコックは彦を見て英国の通訳にほしいと相談するが、岩吉の職を奪うことに
なるので、断わったそうな。
香港から軍艦ポ-ハタン号に乗って上海へ。
上海から軍艦ミシシッピに乗る。ミシシッピで初めてハリスに対面、ハリスは彦を横浜
領事の通訳とする。
安政6年(1859)6月神奈川入港。彦21才。9年ぶりの日本です。
                               

彦蔵漂流記(7)おしまい
( 8) 98/07/06 19:05 04079へのコメント コメント数:1

彦蔵の「漂流記」には、漂流談を終わった後、漂流記余話として、かんたんに、
アメリカの歴史、アメリカの政治理念、選挙の方法、税、裁判、教会、僧侶の
果たす大事な役割、結婚、祭日、芝居、将棋(チェス)、スポ-ツ、武芸、橋、
鉄船、蒸気車などについて書いています。

当時の日本の国情としたら、漂流した個人の苦労話よりも、こうした外国の事情
こそ、人々に求められたものなのでしょう。
彦蔵の本が出た3年後、慶応2年に福沢諭吉がこうした「西洋事情」をひっさげて
華々しくデビュ-するのですが(ベストセラ-になったらしい)。
しかし、彦蔵の本も文久3年という大攘夷の年に出され、何人かを大いに啓蒙した
にちがいありません。
特に、ワシントンの政治について話したところが白眉ではないかな。
以下のような部分があります。

ワシントンの功績によって独立できたのだから、その子孫を永く国王にしよう
と衆議一決してワシントンにそのことを言うと、ワシントンいわく。
「今度の戦争は国王の辛政に窮して蜂起したものだ。国民の心が一致すること
によってようやく辛政をまぬがれた。これを考えると、国王の辛政は民衆に害あ
ること外患よりも大きい。また、人民が一致和親しておれば、どんな大敵もとる
にたりない。わが子孫に王位を伝えるとしても、子孫に必ずや不肖の者が生まれ
て国民を苦しめるだろう。国中が一致和親する法律で国を治めること以上によい
ことはない。国民に貴賎の隔てなく、みな同等と定め、禄位を世襲にせず、才能
があって国民が従うものを選んでそれぞれの役人とし、そのうちの最もすぐれた
ものを大統領に挙げたなら、諸民もその命令に従うだろう。しかし、官位にいる
ことが長ければ、おごりぜいたくする者もでてくるから、在位は4年間に限って
位を退き、一般庶民に戻り、また他の賢人を選んで位につかせるべきである」
民衆は、ワシントンの私欲なく、国民のために計ることに心服してその方法に
したがった、とあります。

昔、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んだとき、竜馬はワシントンの子孫は今、
何している?と聞いて、だれも知らないと答えられてびっくりし、アメリカの政体
を頓悟したというような場面があったような。また、西郷さんも、ワシントンを大
英雄として尊敬していた、という話も耳にしたことがあるぞ。
ということは、志士たちも、彦のこの話は伝え聞いたのかもしれないね。
  (日本庶民生活史料集成「漂流」より)

NHK「腕に覚えあり」再放送

2007-09-11 | 映画・テレビ
今、毎週火曜日、平成4年に放送されたNHK「腕に覚えあり」がBSで再放送されている。懐かしい。これは、当時、毎回、楽しみにしていた番組だ。
たしか、「腕に覚えあり」は3シリーズ作られ、今、放送しているのは、赤穂浪士の事件とからめた第1シリーズ。これよりも第2、第3シリーズのがもっとおもしろいのだけど、第1シリーズだけしか再放送されないのは残念。
この作品は、テンポよく、音楽よく、原作よりも明るく、なによりも毎回の刺客たちとの決闘シーン、殺陣が気持ちいい。おもしろい。見てない人は、おすすめだ。

日曜日に読む荘子

2007-09-09 | 読書
今日、書店で「日曜日に読む荘子」という新書版の本を見つけて立ち読みした。
荘子、という言葉を見ると、小田実、ロマンロランなどと、同じく、おや?と気にせずにはいられないのだ。

日曜日、酒を用意して、窓辺で、秋風を体に受けながら、荘子を読む。これは、わたしもときどきやっている元気回復法だ。序章に、そんなことが書いてあった。本文は、ちょっと何をいってるかわからなくて、むつかしそうなので、買うのはやめた。荘子は、そこにいるだけでいいのだ。荘子を解説するとなると、荘子が荘子でなくなる。

荘子に興味を持ったのは、19歳くらいだろうか。
どうして、興味を持ったのだろう。
司馬陽太郎の「竜馬がゆく」に竜馬は老子を愛読していた、という一節があったからだろうか。漢文の時間はだいたいねていたから、学校で興味を持ったはずはない。子どものころ読んだ芥川の「杜子春」に出てくる仙人のことが頭に残っていたからだろうか。わからない。まあ、もっとも元気な青春時代に、「荘子」がバイブルになった。これさえあれば、絶望はない。絶望している人、死にかけている人には、この本を読ませたい、と想っていた。実際、人を送るとき、この本を(もちろん、福永光司の荘子だが)をプレゼントとして贈ったこともある。今、思えば、相手は、どんな反応だったのだろう。ちょっと恥ずかしい。

ペラペラとめくって、適当に読む。聖書には、聖書占いというものがあって、その日、適当に本を開いて、開いたページが自分への今日の言葉だとするそうだが、そんな読み方だ。

「老子」もいい。しかし、老子は無口だ。荘子は縦横に語ってくれるので、親近感を覚える。

最近、おれは、荘子よりも、ただ、読みながら飲む酒が好きではないのか、と想うようになった。どうも、中国の隠者というものが好きらしい。つまり、酒飲みなんだ。

船長日記1

2007-09-09 | 歴史
残暑、厳しくもうヘトヘト。ネタもなく書き込みをする気力もない状態。で、また、10年前、パソ通時代に歴史会議室で話した話題をそのまま借用。それにしても、このころは元気だった。毎日のように読み、書いていた。仕事をしていたのだろうか?昔は江戸時代に興味があって、そこから、このブログの虎尾の会の清河八郎や一揆にも関心をもったのです。異国に漂流した人にもちょっと興味を持ちました。もうすっかり忘れていたけど。あのころの元気がほしいな。
このあとは、9年前のもの。まちがいが多いけど、いちいち訂正しません。
画像は孫文記念館から見た明石大橋。

( 8) 98/06/09 20:01 03906へのコメント コメント数:2

海を1年5カ月間、漂流した記録があります。
尾州名古屋の督乗丸(1200石積の廻船。14人、船長重吉29才)は文化10年(1813)
11月遠州沖で遭難。
嵐に遭難した時に1人は船から転落、半年後、10人が次々病いで死亡、残る3名が
文化12年(1815)2月ついにイギリス船に救助されます。これは生き残った船長の
記録です。

船は、伝馬船(橋船)もなく、舵もなく、帆柱もない(嵐でこわれた)。米5斗俵が
6俵、大豆700俵、油20樽。水は一人3升5合しかない。

なによりも興味があるのは漂流中の船内のようすですよね。
舵も帆もないとあっては、船乗りの仕事もない。ただただ念仏を唱えるか、泣くか
の日々。こんな中での船長の苦労はたいへん。船長重吉は遭難した時から、船長日記
をつけ、一人超人的に働き続けます。

船員たちは、気弱になり、ただ故郷の親兄弟妻子のことのみ思って泣き続ける状態だ
ったようです。無理もないけど。しかし、弱気になり、故郷のことを思って泣いてば
かりでは病気になり、それこそ死んでしまう。
で、船長ははげます。
「心を強く持て!親妻子は敵と思え!暮らしていけなかっても、陸では人の門に立っ
て乞食をするくらいですむではないか。」などと。
しかし、船長重吉だって故郷には22才のかわいいヨメさんと、ヨメさんの胎内には赤
ん坊も誕生してたんだよ。
重吉は今回が初めての船長役。船長としての仕事を力いつぱいやろうとしたのだね。

船長は船員の気をひきたてるために、船の5箇所に灯火を夜昼灯し続けます。
食料は大豆をくだき粉にし、それに米をすこしまぜたもの。米がなくなってからは、
大豆をつぶした粉だけになります。米ははじめはみんなに平等に分けますが、貴重な
ので、あとからは船長が管理します(病人用とか特別の場合に)。

問題は水。すぐになくなりますが、船長は「らんびき」という海水から真水をとりだ
す装置をつくり、それによって1日に水7、8升とり、13人に平等に分けます。
なんでも薪を燃やし、海水を沸騰させ、それを冷やすという方法らしい(当時の船長
は知識として知っていたらしい)。しかし、この方法はどんどん薪を燃やさなくては
ならず、そのうち船の板などあちこちはぎとって燃やさなくてはならなくなる。
漂流中、雨はほとんど降らなかった。

毎日、船底にこもって何もせず、ただ泣いている船員たちを見て、これでは病気にな
ると判断した船長は、縄で数珠をつくり、みんなでいっしょに念仏百万遍唱えさせる
ことにする。念仏を唱えたものには米と水を与えることにしたそう。つまり、1日の日
課を与えたのですな。米と水をもらうたるめに船底から起き上がって念仏会に参加する
者もいた。

さて、正月。漂流中に正月の祝いもあったものじゃないと思うけど、船長は正月の行事
をきちんとします。漂流中だからこそ、こんな生活の行事をおこなうことは精神の健全
さを保たせる上で大切ですね。
ありあわせのもので、松飾りをととのえ、豆を団子にし、水が酒のかわり、正月だけは
豆の食事をやめ、米のかゆ。みんな羽織を着て祝います。しかし、みんな、祝いの言葉
はなく、泣き出すばかりであったとか。

船長、みんなの気をなぐさめようと、船乗りの好きな博打もうってよろしい、銭をわた
すから大いに賭けごとをすべし、とも言います。でも、だれ一人、始めるものはなかったとか。
船長は若いためか、船員たちは好き勝手なわがままや苦情ばかり言ったようす。

さて、漂流を始めて4カ月後、ひとりふたりと病気で倒れ、ついに立って動ける者は船
長の重吉ひとりに。
今まで、13人で分担していた仕事、らんびきで水を作り、水をくみ、豆をこなにし、
看病し、食事の世話をするなどという仕事は船長ひとりがぜんぶやることに。
一番泣きたかったのはこの船長重吉だったろうよ。あ----。
さて、このあと、重吉やいかに。

つづく(つもり)
                参考:「船長日記」(日本庶民生活史料集成)
                                
船長日記(2)
( 8) 98/06/09 21:26 03909へのコメント コメント数:1

速成レポ-トです。まちがいがあれば、おゆるしを。

重吉をのぞいて他の12人はみな病に倒れ(3月ごろから)、重吉もほとほと疲
れ果て、「親兄弟でもなく、中には他国人もいるのに、なぜ他人のためにここ
まで苦労しなくてはならないのか。もう、うっちゃっておこうか」と考えたこ
ともあったらしい。
でも、「いやいや、同じ船で同じ災難にあうのもなにかの因縁。前世では、こ
の人たちにきっと大恩をうけたのかもしれない。寝てはいられぬ」と身を粉に
して世話したようだ。えらいな。

倒れた病人、まだ米が3升残っているのを知っているので、「米を食わせてく
れぇ」としきりに言うので、3升の米もすぐになくなる。病人はしだいに我を
わすれ、西瓜を食わせてくれ、素麺を食わせてくれぇ、と口々に言って重吉を
困らせる。

漂流して半年後の5月8日、最初の病死人が出る。死骸を海に捨ててしまったら、
残る病人は「いずれわれらもあのような姿に」と気を落とすと思ったので、重吉
の部屋の隣の間に死骸をそのまま安置する。

たしかにどこかもわからない海に捨てられ、魚の餌食になるのは、当時の人とし
ては、たえられないことだったのかもしれない。
しかし、最初の病死人が出てから次々に病死する人があいつぎ、6月末には10人が
死亡。10人の死骸も捨てずに、同じく重吉の居間の隣の間に置く。生きている病人は
2人に。しかし、重吉も看病や食事の世話は楽になっただろう。

そして、8月1日と2日。ついに大雨。漂流以来11カ月ぶりの雨。ヤッタ-!
鍋釜などあらゆるものを並べて水をたくわえる。
8月3日、海の中より、カアカアという鳴き声。つり道具を投げ入れると、なんと
1尺ほどの鰹。大喜び。7本の鰹をつりあげる。
3人で塩水につけてなまの鰹を4本食べ、あらは煮て食べたそう。「その味わい、
甘露ともなんともたとうべき物こそなかりけり」
この日からいろんな魚がとれ、3人は夜昼、魚だけを食べるように。そのためか、2人
の病人も元気回復し、2週間ほどたつと起きて釣をすることもできるようになる。

さて、今度は、4匹のジョ-ズ(鰐鮫)が常に船に近づきだす。これは船に苔が発生し、
虫が住み着き、魚が集まり、その魚を食わんとして鮫が集まるそうな。
重吉たちは鮫の大口を開けさせ、その中に大釜で沸騰させた海水をぶっこんだりして
退散させている。まさに海洋冒険談だ。

9月末、11人の死骸は海に捨てたらどうかと2人に相談され、紙くじをひいて、神さま
のお告げを聞いて、捨てることにする。
11人の死骸、はじめはくさって臭いがひどかったそうだが、このころには、干上がり、
頭はしゃれこうべ、さわると、はらはらとこぼれ、土を運ぶようにして海に捨てたそ
う。南無!

死骸を捨ててから1週間たったころ、またも鮫が40匹ほど来襲。船の回りの魚をことご
とく食べ尽くして去っていく。
このため、以後、釣をしても魚は1匹もとれなくなり、ふたりも再び病人に。
またも重吉はひとりになってしまう。あ----。

つづく(つもり)

船長日記2

2007-09-09 | 歴史
船長日記2
昔の会議室のネタより借用。
( 8) 98/06/09 23:33 03912へのコメント コメント数:1

さて、2年目の大晦日。昨年は13人いて、みんなで正月の準備をしたけども、
今はたった二人。しかも一人は病人で、さすがの重吉も今度大波がきたら、
首をくくって死のうと覚悟を決める。

明くる正月になって思う。今まで何度も神くじでうらなったけど、まだ命の
無事についてはお告げを聞いてはいなかった。わが命どうなるか聞いてみよう。
1、2、3と3枚の紙に数字を書き、1、3が出たら、死すべし、2が出たら、
助かるというくじを作る。おそるおそるくじを引くと、2で出た。
命がある、と出たので喜んだが、しかし、1年も生きられない、今度は、何月ご
ろ助かるか、と1月から12月まで紙に書いて、また神くじに聞く。すると、正月
と2月の月が出る。やれ、近いと喜び、今度は、なおも何日に助かる?と神くじ
に聞く。すると、正月27日28日と出る。
次は方角を聞く。方角は丑寅と出た。

さて、その正月28日、ああ!山が見える。どこかの島だ。伝馬船があれば漕いで
いけるのだが、近づけない。風がふき船の向きが変わり、そして、だんだん遠ざ
かる。ついにまた海のただ中。

重吉のショック、お察しください。
気もくじけ、ばったりと床上に倒れ伏します。
しかし、重吉やおら気をとりなおして正2月と出たので、2月かもしれぬと、起き
上がり、再び、丑寅の方角(どっちの方角やろ?)を見続ける。

2月13日の暮れ、重吉がうつらうつらとねむりかけたころ、後ろに白いふたりの人
が立つという体験をします。
「きれいなる僧、装束は白きひたたれようのものを着、えほしをかぶりたまえり」
と書いています。この不思議な人は、「国より助け船出すべし。その船にかならず
せきこみて乗るべからず」と告げたそう。重吉が不思議がっていると、漂流以来灯
し続けてきた5つの灯火のうち、ふたつがふっと消える。いやな予感。これは船霊
(船玉)が去ったということか?と考える。
船玉とは船の主霊。紙雛一対、船主の妻の髪の毛、すごろくの賽(サイ)2つ、この
3品を帆柱の下に納めている。
難破するときは船玉は他の者に化けて船を出るとか。船玉がさるということは船の
命も終わるという伝承があるのでしょう。

その日の、夜中、またもふたりの者が現われて重吉に同じことを伝える。というこ
とは、あのふたりは船玉ではないのか?一体、だれだろう。だれか船の中に入った
のだろうか、と船の中を紙燭をもってすみずみ見て回ったけども、だれもいない。

明け方、西方に3里のところに大船が見える。びっくりしてふたりに知らせ、服に着
替えさせ、羽織を着る。浦賀奉行と尾州藩の船手形を首にかける。
異国船はだんだん近づいてくる。船がとまり、ボ-トをおろし、6人の者が乗って船
に来る。重吉ははしごをおろす。
異人に浦賀の切手を見せても興味を示さず、しまえとのそぶり。言葉が通じないの
で、14人乗っていたが、あとの人は死んで捨てたということをジェスチャ-で話す。
異国人は船底に降り、あちこち調べているようす。他にだれもいないとわかって、
口をさして、「食べ物は何を食べた」と聞いているようなので、大豆の粉をなめて
見せると、異国人も、なめる。
そのあと、つよく手を握ってきたそうだ。
「心の中にはそらおそろしく思いながら、こなたよりもまた強く握りたり」
重吉を助けた船はイギリス船ホ-ストン号(船長ペゲツ)。

重吉の異国漂流はまだ続くけど、1年5カ月にわたる太平洋漂流はひとまず、
これで終わり。
                                 

船長日記(4)
( 8) 98/06/10 22:04 03914へのコメント コメント数:1

おっと、まちがいがありました。訂正。
>さて、2年目の大晦日。昨年は13人いて、みんなで正月の準備をしたけども、
>今はたった二人。しかも一人は病人で、さすがの重吉も
3人生き残っています。二人(音吉、半兵衛)は病気で倒れ、元気なのは重吉ひと
りだけ。救助されたのは3名です。
ついでだ。つづきも書いてしまえ(^^)

文化12年(1815)2月14日重吉が救助された地点は、米国のロスアンゼルスの西南の
海らしい(北アメリカと南アメリカの中間にあたる海?)。

異国の船に乗せられて、初めての洋食。
小麦団子を大にして焼いたもの(パンか?)、赤きかまぼこのようの物一切れ(牛
肉?)、くじらの油身のようなもの(豚肉)、などを出されたようですが、赤きか
まぼこのようなもの(牛肉)だけは臭くて、食べられず、そっと袖に入れて海に捨
てたらしい。お茶に砂糖を入れて持ってきたというから、これは紅茶でしょうか。

朝、いつものように水垢離を取って神々に拝んでいると、船中の人がみな笑うらし
い。
異国の人は神を頼まないのかなぁと思ったけど、船員も、起きると、神様に拝む
ようすをするので、拝みかたが違うので笑ったのだなあ、と思ったりする。
このころは、イギリスの船員たちも熱烈なキリスト教徒だったでしょうね。

船長たちは、テ-ブルの上に日本の絵図をひろげ、「ジッバン、ジッバン」と言い、
指で、ミヤコ、キウシウ、エト、スルガ、と言う。で、重吉も尾張を指して、
江戸まで指を動かし、遠州で口でプ-と吹いて吹流されて漂流したまねをすると相手
は理解してくれる。じぶんをさして「ジッパン」と言い、そして相手をさし
て、どこの国か聞いてみる。相手にはなかなか通じず、10回くりかえして、やっと
「ランダム」(ロンドン)と答える。重吉はオランダかと思い、オランダなら長崎
へいくにちがいないと安心する。

1週間ほどで、ある港(ノバエスパニヤ)に停泊。重吉は長崎についたと思う。船長
はじめ重吉ら7人上陸(病人の二人は船内)。港には馬で迎えがあり、重吉にも乗れ
とすすめられるが、乗れないので、相乗りさせてもらう。ある白壁の屋敷(役所?)
につき、日本の人と紹介され、ここでご馳走を受ける。重吉はここはオラン
ダ屋敷と思い、明日にも奉行所に連絡がいって助かるだろうと思う。

翌朝、船の水夫が、斧や包丁を持って降りる。港にはたくさんの牛がいて、水夫たち
が、斧で牛の頭を割り、皮をはぎ、肉を船内に入れている。このようすを見て、ここ
は長崎ではない、と思い、ここは、どこの国?と聞けば、ここは「オロシアの属国北
アメリカ南アメリカの界にてノ-ハイスパンヤという所」と答える。船はイギリスの
ロンドンの船で、イギリスの船は北アメリカへ行くには、必ず、ここに寄るという。
船内の二人の病人はこの土地の役人の家(白壁屋敷)に泊まり、病気の治療をしても
らった。

10日ほどの停泊ののち再び出航。途中、嵐にあう。重吉はおれたちのような難破船の
者を乗せたから嵐にあったのではないか、などと心配するが、船長は大丈夫、心配する
な、とウォッカを飲ませてくれたり、唄を歌ってくれたりしてなぐさめてくれる。

嵐で少し故障した船を修理するためルキンという川港に停泊。港には納屋小屋1軒だ
けで、他に人家なし。穴に住み、男女とも裸で、生の魚を食べている現地の人々をか
いまみる。アメリカ先住民族でしょうか。
ここで、修理用の材木を積んだ川船が来る。その船から材木を積みおろしているさま
を見ている重吉に突然、声をかけるものがいる。材木をつみおろしている人足のひと
りだ。

「おまえは、奥州か?松前か?」と日本語で聞く。
「風俗は異国のさまなれども、眼のようすそのほか、日本人に違いなし」と思った重
吉は、これまで漂流してきたわけを話し、なんとか日本に帰るてだてはないものか、
もし、それが無理なら、あなたにしたがって仕事を覚えたい、と話す。しかし、相手
はどうも、親しく応じてくれないようす。いったいぜんたい、ここはなんという国
だ、と問えば、「ルキン」とのみ答える。「あなたは日本では、どこの国で、なんと
いうお名前ですか?」と質問すると、
「わたしは、日本人ではない」との返答。どうもあまりしゃべりたがらない。隠して
いる。
で、重吉は、怒った顔でこう言う。
「おまえはどうしてそんな嘘を言うのか!隠しても日本人であることはわかっている。
おれは、おまえを日本に連れて帰ろうというわけではない。なぜ、そんなに隠すのだ!」相手「いや、わしは昔、松前へ行って日本の言葉を覚えただけさ」と言い、そのまま、
川船に乗って去ってしまった。この人とはそれっきりです。日本人にまちがいありませ
んね。しかし、数奇な運命も世にはあるのだろうなあと、わたしはふ--んとため息です。
参考:三一書房「日本庶民生活史料集成」第5巻「船長日記」  

わからないところはすっとばして適当に読んでますので、わたしなりの(たぶん、まち
がいの多い)読みとりよ。                              
        

船長日記3

2007-09-09 | 歴史
船長日記(5)
( 8) 98/06/11 22:37 03919へのコメント コメント数:1

ルキンに約30日滞在したあと、重吉を乗せたイギリス船は北をさして出航。40日
ばかり進んだころ、船は鉄砲、大砲の用意を始めたので、これは軍船だったのか
と、驚くが、それは、ちょうどロシアの属国「ノ-ジ」「インディン」両国の
海上にあたり、この両国は海賊の働きをするのでその防衛のためだとか。

しかし、そこも難なく通りすぎ、「アミシヅカ」(シヅカ、シトカ)とい
う港につく(地図で見ると、たしかにシトカという地名はある(アラスカ)。
バンク-バ-よりから600キロほど北かな?)。当時は帝政ロシア領。

港には大船8隻が停泊、5隻はロシア船、3隻はアメノカ船。港の高台には城の
ようなものがあり、造船工場もあるようす。船が入港すると、無事に入港した
ことを祝うのか、他の船や城からも祝砲を放たれる。

重吉たちは他の船の船員たち(船長とか主にリ-ダ-)とともにアメリカ船に。ここ
で船乗りたちの無事を互いに喜ぶお祝い、パ-テイがあるのですね。
ロシア人、アメリカ人、イギリス人、中国人(通訳として船によく乗せている)が
いて、歌って踊る。

東洋人だから、中国人なら話が通じるかもしれないと、重吉と中国人(南京人)を
対面させる。が、話し言葉はいっこうに通じない。筆談で、重吉は、「砂糖、茶碗」
と書くが、これも通じない。漢字で、「一、二、三、」と数字を十まで書いたら、
これは通じたとか。

次は順番に部屋の真ん中に出て、余興(芸)を見せる。
ロシア人、アメリカ人、次々に足拍子をふんで歌う。中国人も。
次は、重吉も歌えといわれ、真ん中に出る。しかし、異郷にきて、とても歌う心境に
はなれず、悲しくなり、なんだか腹もたち、異国人というやつは、人の災難を見て、
なぐさみものにするのか、とうらめしくなり、口の中で不満をつぶやいていたが、だ
んだん心が激して大声をだして嘆いていると、そのさまが心をこめて歌っていると思
われたのか、やんやの大喝采を受ける。

さて、翌日もまた、このアメリカ船で大勢集まって、パ-ティ-、酒宴、余興(歌)。
昨日は、漂流者をなぐさみものにするのか、と少し腹をたてたけど、いや、これは、
みんなで退屈を晴らすために、楽しんでいるのだ、と反省し、今日は、おれも、
ちゃんと新内節かいたこでも歌ってやろうと、にこやかに、本気でみんなの前でいた
こを歌う。
しかし、今度はみんなからブ-イング、ちゃんとまじめに歌えぇ-と非難。
で、重吉、ちぇ!なんでいなんでい、昨日は歌いたくないのに、歌え歌え、と強制し、
今日はちゃんと歌っているのに、文句を言う。おれはどうすればいいのだい、と大声
で嘆いて見せると、と拍手が起き、それそれ、その調子、それが最高!とみんなの喝采
をうける。

港には城があり、その城の主バラノフという人物より招待を受ける。
このシトカ港は、ロシアの太平洋進出の尖兵となって活躍したロシア・アメリカ会社
の支配人バラノフが開いたもので、今でもバラノフ島という島があるらしい。

さて、このバラノフの豪壮な屋敷で重吉は、6人の美女の誘惑をうけるわけです
が(ドキドキ)、まあそれはあせらずに次回にしましょう(^^)
                              
船長日記(6)
( 8) 98/06/12 21:17 03926へのコメント コメント数:1

としまるさん、まいど!読んでくれていてありがとさん。

バラノフの館には、重吉の他、停泊している9隻の主な船員など30人ばかり
招待される。あとの日本人二人は船に残される。つまり重吉は船長待遇なの
でしょう。

館は高台の上にあり、大きな門の両側に10人余のコサック、門をすぎてなお登る
と、また門がありそこにもコザックが警備、行くとまたも門、コザツクと、
かなり厳重な固めの城塞のようです。
重吉は長いはしごを登り、やっと大広間に。
そこに長テ-ブルと椅子があり、30人余が席につき、飲食、そして一種の舞踏会。

重吉が椅子にすわってダンスを見物していると、ナバロフが手をとって別室に
案内してくれる。そこには美しい女性が6人いすにすわっている。ナバロフが
女性に耳うちすると、1人の女性が重吉の前に立ち、十字をきって礼拝したあと、
重吉の頬を両手でおさえ、キスをする。6人の女性、みな同じことをする。
そこでバラノフはまた退出。部屋には6人の美女と重吉のみ。

「女は重吉を見ては笑う。重吉はいかなるわけかさらにわからず、そら恐ろしく
 色青くなりて」大いに弱る。ドキドキ。このあと、どうしたのかは、詳しく書
いていない。
ただ大広間からの歌や踊の声が聞こえてきた、とだけ。でも、時間は申の刻(夕
方)から亥の刻(午後10時すぎ?)まで、6人の女性といっしょに過ごした時間は
短くないはすだ(と、推理)。

夜も更け、大広間のバ-テイ-は終わり、重吉を救助してくれたイギリス船の船長
ベケツ他、みんな帰り、館に残ったのは重吉とロシア船長ふたりの3人だけになる。
重吉はまた大広間のテ-ブルにいざなわれ、重吉の両側には美女3人ずつがすわり、
向かいにはバラノフとロシア船長二人が座る。

少年たちの踊りも終わり、夜食も出たあと、バラノフはテ-ブルに日本のいろんな品
物を並べて重吉に見せる。
たとえば、吸い物のお碗、革のタバコ入れ(煙管入り)、小田原堤灯、
カタカナのイロハ、ひらがなのいろはを書いたもの、和漢年代記、鉄砲指南の書など。

最後に、日露辞典のような大きな本を2冊出し、これを見せながら、バラノフたちは
重吉に次のように語る。

「イギリスの船長(ベケツ)は、あなたを日本に帰す心はない。一生、水夫にして使
うつもりだ。もし日本に帰りたければ、ベケツと別れてここに留まりなさい。わたしの
ところには船は46隻もあるので、どの船でも日本に送ってあげよう。でも、もし、数千
里の海上を経て、また危険な航海をするのが心配ならば、ここにとどまって船長になっ
てもよいし、この城の主になってもよい。あなたの自由です。いつまでもベケツについ
ていたら、一生、後悔します。それに、いつもいつも故郷のことを思い暮らしていては、あなた、病気になりますよ。いったん、故郷をお忘れなさい。気をもちかえて、心をな
ぐさめ、なにか楽しいことをしなさい。もっと楽しみなさい。せっかく生きのびたので
すから。
とにかく、今夜はここにお泊まりなさいな。もう夜も遅くなりましたから。
この6人の女性の中からだれでも気に入ったものをどうぞ相手になさってください」

重吉、返答に窮するが、やっと、「船に残している二人の仲間はきっとわたしを待っていると思う。みんな帰ったのに、わたしだけ帰らなかったら心配するでしょう。ぜひにと
おっしゃるのなら二人も呼び寄せてほしい」と言う。
「そんなこといわず、今夜だけはこの中の女性とお泊まりなさいな」
重吉「いえ、明日はふたりをつれてきます。今夜は船に帰してください」
ナバロフ「では、明日、迎えの人をやりますから、きっとですよ」
重吉「約束します」

重吉、ナバロフの言葉に大いに心を迷わされ、夜中、いろいろ煩悶する。
どうしょう・・・。
ナバロフの言うとおり、ベケツはおれを日本に帰すつもりはないのだろうか?
ひとまず、この国に2、3年いて、天文地理を覚えたら、日本に帰るのもかんたん
かもしれぬ。
ここで、船長となり、日本と交易してくるといって、洋品をたくさん積み込んで
日本に帰り、水夫らはオランダ屋敷に送り返し、船は自分のものにするっていう手
もあるな、その時はおれはもしや大金持ちか・・・。と大胆な想像もする。
かと思うと、
いやいや、もうあの恐ろしい海の世界に出るよりも、あの美しい女といっしょに
なり、ここで安楽に豊かに暮らすのも悪くはないとも考えたりする。
重吉さん、女性はしっかり観察しているようで、「北より3人目の女は、日本にて
も見もおよばざりしほどの美人なれば、かれをわが妻にして・・・」などとも書い
ていますよ(^^)。

結局、翌朝、船長ペゲツにナバロフが言ったことはほんとうか?と悩みを正直に
うちあけ、ペゲツに否定され、やはりペゲツを信じることになる。
ナバロフは以後、重吉にこの話は持ち出さなかったようだ。

だれだ?一晩くらい泊まっていけばよかったのに、と言っているのは(^^)

                              

船長日記4

2007-09-09 | 歴史
船長日記(7)
( 8) 98/06/12 23:14 03929へのコメント コメント数:2

重吉の乗っているイギリス船(船長ベゲツ)は、予定では、このシトカ港から、
また、ノウハイスハンヤ(ノバエスパニヤ)へ戻り、そこから広東南京まで交易
にいく船です。
船長ベゲツは中国から長崎に重吉たちを送り届けようと考えていました。
でも、ここでロシア人から、それでもあまりにも遠回りになる、最近はロシアと
日本は仲良くなり、ことにオホ-ツクには日本人(仙台の善六とか)もいるのだから、
オホ-ツクから蝦夷に送り届けた方がよい、と言われる。
イギリス船(ベゲツ)にとっては、それは反対に遠回りになる航路だけど、重吉の
ためにその航路をとることにする。ベゲツ船長はやはり親切な人なのだ。

ただ、当時の港での交易は、港へ入った順に交易をする習わしになっていて、ベゲツ
の船は9隻のうちでは一番最後に港に入ったので、交易は一番最後になり、順番を
待っていると、海が氷ってオホ-ツクにはいけなくなる。
で、このことを他の船長たちに相談すると、みんな話のわかる人ばかりなのか、船の
掟を曲げて、イギリス船に最初に交易をさせる。海の男たちって役人とちがうなあ。
 イギリス船から出したもの、塩、塩硝、酒、買い入れるもの、皮類。

アミシツカ(シトカ)港に約40日停泊したあと、太平洋を西に進む。48日後にカムチ
ャッカ半島南端に来る。ここから蝦夷まで23の島があり、この島々の間を通り抜けて
オホ-ツクへいくのだが、霧が深く、船の航行は危険な状態。で、北へまわってカムサ
スカ(カムチャッカ)へ行く。

カムチャッカ港にいると、土地の長官ルダカウが日本語で「日本人、日本人!」とよび
かける。重吉が出て、対面してみると、
「兵庫の高田屋の嘉兵衛をしっているか」と聞く。
「知っている」
「かれも無事に日本に帰った。今は日本とロシアといくさはない。仲良くなったのは
 喜ばしいことだ。話したいことがたくさんある。明日の朝、来てくれ。迎えにくる」
と言って帰った。

あくる日、ルダカウの家に重吉が行くと、忠臣蔵十段つづきの錦絵を出し、これは高田
屋嘉兵衛にもらったと、見せてくれる。また、高田屋嘉兵衛の手紙も見せてくれ、それ
には
「日本の人が漂流してこの国へ着いた者があれば、日本に送り返してほしい」というこ
とが書かれていて、オロシア御代官さまルダカウ様、高田嘉兵衛屋とある。
わたしたちも日本に送り返してもらえるだろうか、と聞くと、「もとより送り返す。今
年も3人の日本人を送り返したばかりだ。でも、今年は無理。もうすぐ海が氷る季節に
なるので、来年の夏にまで船は出せない。来年の夏までここでゆっくりしたらよい」
と言う。

9月、港に1隻のロシア船が入港。ルダカウに聞くと、あれこそ、今年、日本人を送り返
した船だが、逆風で目的地につけず、ひきかえしてきたという。
むこうにも3人の日本人、こちらにも3人の日本人。港の浜辺で出会った3人同士、互いに
ロシア人の服装をしていたそうだが、強く抱きあって懐かしんだそうな。
この3人は薩摩の人(船長喜三左衛門、角次、左助)。

                     
船長日記(8)
( 8) 98/06/13 12:32 03930へのコメント コメント数:1

さて、重吉がカムチャッカで会った薩摩人の漂流談はこうだ。
4年前(文化9年)、薩摩の米を積んで江戸に来るとき、大風に吹き流
されて、6か月漂流、米は十分にあったのだが、寒さのため13人死んで
しまう。ついに蝦夷沖で船は沈没し、12名は橋船にのって漂う。
40日目、オンネコタン島に漂着。島にうちあげられ、船はこわれ、6人だけ
上陸できる。
そのうち3人は凍え死に、残り3人は1年間、この島で生活。
島で鳥の羽で作った服を着、鳥肉を食べ、穴で生活している島人に会い、
この人にカムチャッカまでつれてきてもらったとのこと。
今年、ここから日本に送り返されたが、エトロフ島付近で風向きが悪くなり、
再び、カムチャッカまでひきかえされたという。
 オンネコタン島?地図で見ると、たしかに千島列島の島としてありますね。

薩摩人3人と重吉たち尾張人3人は土地の長官ルダカウの家にひきとられ、一室を
与えられて6人で住むことになる。
イギリス船長ケベツも上陸、船は他の者を仮船長にして、出航。なぜ、ケベツも
ここに滞在することになったのだろう、と思っていると、薩摩人が言う。

「われわれの滞在費、賄い料はロシア国王から出ている。あなたたちの分はイギリ
 ス船長が支払っているらしい」と。
重吉「え?あなたたち薩摩人はロシアに何かを献じたのか?」
薩摩人「何もしていない」
重吉「だったら、われわれと同じではないか。なぜ、薩摩人ばかりを優遇するのか。
   これは許せない」

重吉はルダカウの下でこうした実務を一手にひきうけているオンデレイハンのいる
役所にすごい剣幕でどなりこむ。
役人オンデレイハンがやさしく実情をうちあけるには、こうだ。

「わが国ではロシア領に漂着したものは本国に送り返すことになっています。
 薩摩人はロシア領オンネコタン島に漂着したのだが、あなたたちは、イギリス船に
 救助されたので、このことを都に報告して、指示を待たなければならないのです。
 カムチャッカから首都ベテロブルグまでは早飛脚でも9カ月かかります。往復で
 18カ月です。イギリス船のケベツ船長がいわれるには、来年、薩摩人だけ本国に
 帰して重吉たちはここに残るのはあまりにもかわいそうだ。それにこんなに寒い土
 地で長く住んでいると病気になるかもしれない。ここはぜひ6人一緒に帰してほしい
 とたのまれましてね。都にはうまく報告しておいてほしい。そのかわり、ここの食
 事代、衣服代はケベツさんが持つとおっしゃいます。でも、薩摩人はロシア人が
 送り返すことができるけど、重吉たちはあなたが引き渡さなくてはいけませんよ、と
 言いますと、こころえた、引き受けましょうとおっしゃり、交易の船は部下にまかせ
 て、船長さんはここにとどまることになったのですよ」

イギリス船長ケベツのなんたる義侠心!
剃刀を持って役所にどなりこんだ重吉。
「思いのほかに初めてケベツがはからいを聞いて驚き、ふところに入れたる剃刀もはず
 かしくなり、かくまでケベツが深切をつくすことを深く感じ、涙をおさえてぞ帰りけ
 る」

人を助けるために、このイギリス船長ほど力をつくしてくれる人が当時の日本にいただ
ろうか!えらいぞ、イギリス人!
 

船長日記(9)
( 8) 98/06/13 14:53 03933へのコメント コメント数:1

カムチャッカの海は9月から翌年の4月まで氷の海になるので、重吉は10か月ほど
ここに滞在することになる。
長期間滞在したのでここでの生活は語るべきことも多いはずだ。だが、重吉と対
面してこの話を聞きとった人は5回しか重吉と対面しておらず、重吉も漂流のよう
な苦しい体験はすぐにも語れるが、10カ月以上のカムチャッカの日常生活のさまは、
どこから何から話してよいかわからず、話しにくかったようです。

聞く人が何日もいっしょにそばにいて、そのつど思い出したことを、そういえば、
こんなことがあったよと話せるのだが、短い対面の場だけで語るのはむずかしい、
と重吉は言ったもよう。そうだよなあ。異国での長い生活を今すぐ語れっといわれ
てもできないよ。

それでも、雪に閉ざされた国のようす。暖炉のある家、服装、犬のひくソリ。食事
のこと、精密な日本国の絵図、キリスト教の祭のようす、妻の不倫に特に夫はかまわ
ないとか、離婚はしない、国王も妾はもたない、病院、子供が遊びで投げた氷柱が
重吉の頬にあたり、母親があやまりにきたとか、いくつか語り残しています。
総じて、この国について好意的に語り残しています。幕末のジョウイ志士とは大ちが
い。

言葉はかなり覚え、だいたいことは通じるようになったようです。
相手の人がものを自分に問うとき、「カクナ」というので、同じようにこちらも、
物をだして「カクナ」と言うと、答えてくれるので、いろんな品物を出しては
「カクナ、カクナ」と聞き、そのたびにその答えを次々にメモしていったそう。
勉強家だなあ。

人のところにいって、今日はいい天気だなあ、元気かあ?なんていう挨拶言葉
は「ドブラ、ゲン、ドロマ、ダラシ」と言うそうだ。
ある日、言葉が通じないで、ただだまっていたところ、相手がしきりに
「テウセルゼ-ス スカゼ カウリン」と繰り返したそう。
何日かたって、テウセルセ-スとは「何を腹たてる」という意味で、スカゼとは
「話す」、カウリンとは「物いわぬ」という意味とわかる。
何を腹たてて話もせずだまってんだ!と言ったのでしょう。

ロシア語に詳しい人、あってるのでしょうか?(^^)
                           

船長日記5

2007-09-09 | 歴史
船長日記(10)
( 8) 98/06/13 15:52 03934へのコメント コメント数:1

文化13年5月末、海の氷も溶けたので、ロシア船フリ-エ-ル号(パ-ウェル号、
68人乗り)に乗って港を出航。イギリス船長ペゲツ、日本人6人も乗船。
この時、薩摩の船長喜三郎と重吉と漂流を共にしてきた水夫半兵衛は病気
をしており、病体のまま船に運ばれる(やはりカムチャッカの厳しい気候が
健康を害したのだろうか)。
6月11日、水夫半兵衛、死ぬ。ロシア船の作法により水葬。重吉、音吉、ペゲツ
嘆き悲しむ。

まもなく、エトロフ、クナシリの沖に来る。北海道はすぐそばだ。
船から日本の船2隻が見えたが、日本船はロシア船を見ると、いそいで逃げさる。
日本も近い。
しかし、ロシア船長は、すでに船内の薪や水、食物は乏しくなった、日本の地に
ついても食物や水の補給ができるかどうかも心もとない、やはり、カムチャッカ
へ引き返して来年、食物を十分用意して来よう、という。
日本人を送還するのは国の掟だけど、どうもロシア船長は、日本とのいざこざを
避けたい風があってなにかと理由をつけて、ひきかえすようだ。

重吉たちは、ボ-トを降ろしてくれ、われわれだけで行く、と言ったが、危険だ
からと許可してくれない。船長ベゲツにもたのむがやはり賛成してくれない。

船長ベゲツは重吉にこう言う。
「重吉さん、こうなったら、わたしといっしょにイギリスへ行きましょう。そして、
世界を見てきましょう。これから南京、広東、天竺、紅毛(オランダ)、その他さ
まざまの珍しい国々を見せてあげましょう。そして、7年目にはきっと日本に帰らせ
てあげます。どうです?ぜひ、そうしましょう!」

重吉、世界を見て歩くということに心大いに動き、またこの大好きな船長と行動を
共にするのも楽しいと思い、賛成。

もう一人の尾張の漂流仲間、音吉に言う。
 「おまえはもう1年カムチャッカにとどまって、来年、薩摩人といっしょに帰国した
 らよい。おれは、ペゲツといっしょに世界を見てくる。7年後には帰る」
音吉「おれを捨てるのかぁ?おまえがいなくて、これからどうやって過ごせるものか。
   おれもいっしょに連れていってくれ」
重吉はベケツにこのことをたのんでみるが、さすがのベケツも重吉はいっしょに連れ
ていきたかったけど、音吉までは考えていなかった・・・。で、この話は消える
(ああ、重吉に世界を見させたかったです!残念)

で、結局、ボ-トを降ろしてほしい、と執拗に頼み、重吉と音吉はボ-トに乗り込むこと
になる。これが6月28日。場所はウルップ島とエトロフ島の境の沖。
ここで、イギリス人ペゲツと日本人重吉は永遠に別れることになる。
                           藤五郎

03938/04488 MXG01260 藤五郎 船長日記(11)おしまい
( 8) 98/06/13 16:06 03937へのコメント コメント数:3

薩摩人3人と重吉、音吉2人の計5名が食物、諸道具を積み込んだボ-トに乗り込む。
まずエトロフを目指す。エトロフへ1里ばかりのところで強風にあい、ウルップ島
に吹き流される。
島にボ-トをひきあげ、地を掘り、その上にボ-トを屋根のようにしてかぶせ、そこ
で野宿。
腹がへったので、豚肉を煮ていると、その匂いをかぎつけて、あちこちから熊がや
ってくる。みんな恐れて、ボ-トの下にかくれると、熊はボ-トの上にのぼり、あち
こちかじり回す。ボ-トの下から鉄砲をひっきりなしにぶっぱなして、熊を退散させ
る。
それからは、夜ごと、たき火をすることにしたら、熊は近づかなくなったそう。
ここは場所が悪いということで、数日後、場所を移動する。

7月7日、天気がよかったので、ボ-トを出す。エトロフの北東に着く。ここは、日本
の島だ、とみんな喜ぶ。(エトロフって、八丈島に流された近藤富蔵の親父近藤重蔵
が探検した土地だよね)
ここでまた豚肉を煮ていると、またも大熊が何頭もやってくる。みんな船の下にもぐ
り、鉄砲をうち鳴らす。
7月9日、家のあるところを求めて、ボ-トに乗って違う岸に。そこで、鳥の羽を
身にまとった人(アイヌ人?)に会う。この人に案内されて、日本人の番所のあると
ころまで、またボ-トに乗っていく。そこでやっと日本の役人にあう。これで、みんな
大安心。みんな毎日毎日、ぐたぁ-と、寝ていると、役人から「こんな所で死んだらら、
ロシアで死ぬのと変わらないではないか。ここで心をゆるしてはならぬ」と励まされる。ここでは、高田屋嘉兵衛の弟も付き添いにきてくれる。

エトロフから、クナシリ、アッケシ(厚岸)と進み、9月2日にやっと松前箱館に。
箱館で牢屋敷に入牢。漂流者は罪人扱いだね。

11月、箱館から役人付き添いで船に乗り、江戸千住に着いたのが12月4日。
お江戸では、またお奉行様のお調べとか、たいそうなことがあって5カ月もここに
とどめられ、尾張に帰されたのは、4月。しかし、ここでも屋敷に半年とどめられ、
故郷、半田村に帰ったのは、5月。約4年ぶりの故郷です。

重吉の妻は、ちゃんと待ってました。重吉が行方知らずになってから、みんなから、
新しいムコをもらえとしきりに勧めるのですが、夫の位牌を守りながら、一人、子
供を育ててきたのです。もし他人の妻になっていたらつらい(ありうる話だけど)。
重吉が帰ってきたとき、彼女はただ黙って、夫の前に両手をついておじぎをしたとか。

長文でたいへん失礼しましたっ。
               史料は「船長日記」(日本庶民生活史料集成)
              

週刊金曜日の小田実

2007-09-07 | 読書
週刊金曜日は、風速計とか編集長とかの短いコラムはネットで読むことができるので、たまにのぞくことがある。
8月10日に佐高信の「小田実という存在」という文を読んだが、いったい何をいいたいのかわからない内容。この人は、久野収、藤沢周平、城山三郎など大きな存在をネタに自分を見せているような感じがして、あまり好感は持っていない。何がいいたいのだ?小田の死を惜しむ言葉もなく、自分は最も早く小田のデモに参加した、と書くのみ。この時期、マスコミで生きていく上で、小田実を評価することに逡巡するものがあるのか?

9月7日、今日は本多勝一の「小田実の死に想う」のコラムがでていた。小田と本多は友人であり、本多自身も、脱走兵のために中古アパートを購入し、隠れ場所を提供したことを書き、「現時点の日本でこそ行動の先頭に立ってほしかった」とその死を惜しんでいる。
ただ、「もの書きとしての彼の問題点にも一言ふれておく。同じことを別のメディアにも書いたりするのだ。本誌でもそんなことがあって、以後、本誌から彼への原稿依頼はされなくなった」と書いてある。
自分の伝えたいことはあらゆるメディアを使って伝えるのは問題ではない。当然だ。問題だと考えるのは、メデイアの側だ。小田の死に際して、なぜ本多はこんなことを書かなくてはいけないのだろう?

かつて司馬遼太郎は、高山彦九郎を評価するとき、筆の走りだが、と断りながらも、高山彦九郎は、小田実と本多勝一を合わせたような人かもしれない、と書いていたっけ。

清水利益「青木村義民史 反骨の群像」

2007-09-01 | 一揆
青木村教育委員会の発行(2004年刊)。だが非売品で、定価はついてない。一昨年の義民サミットに参加した人に配ったということだが、無料で配るのはもったいなくはないか。

113ページでカラー写真などもある立派な本だ。定価をつけて広く販売すべき本だ。しかも著者は、青木村の義民史を追って70年ちかくなる人(今年は80歳を越えている)。昭和15年に著者はなんと16歳のときに、上田宝暦騒動の首謀者清水半平の墓を発見した人だ。

本文は、天和の義民増田与兵衛、義民平林新七、宝暦義民、文化6年の勇吉、明治2年の世直し騒動、そして昭和初年の農民運動について書いてある。みんな青き村の出来事だ。

中でも上田宝暦騒動は有名で、二人の首謀者の立派な最後、また、百姓の訴えを聞き、百姓に代わって殿様に決死の覚悟で訴え、ほとんどの訴えを聞き届けられたという29歳の若き家老岡部九郎兵衛のことなどは、よく知られている。

首謀者半平(侠客)と浅之丞(組頭)の二人のみが処刑されたのだが、この本で、半平ははじめから覚悟をしていたものの、浅之丞は、村役人の身代わりとして犠牲になった悲劇の人ではなかったか、と推理している。
写真に家老だった岡部九郎兵衛の墓がうつっていた。宝暦13年12月に死んだとある。では、あの若き家老、百姓一揆に味方をして藩政改革に取り組んだ岡部さんも早死にしてしまったのだ。何か事情がありそうではないか(殺されたか)。

昭和初年の農民運動をも「昭和の義民」と書いているのも好感が持てる。青木村は、一時期、他村から「アカキ村」といわれるほど、社会主義的運動が盛んだったようだ。青木村からそんなに離れていないところにある別所温泉には暗殺された山本宣治とタカクラテルの碑もあるそうだ。

著者は清水利益氏。まさか清水半平の関係者?農民運動はおろか労働運動もまったく消えうせた今日の日本をどのように見ているのだろう。



孫文記念館(舞子浜)

2007-09-01 | 日記
神戸の孫文記念館にいった。明石大橋のそば。海ではつりをしている人もいる。アジがつれるらしい。広い浜公園に3階建て六角形の建物(実際は八角)。中国の実業家の別荘だったらしい。なぜ、ここを知ったかというと、小田実の最後の小説「終らない旅」に出てくるからだ。こんなところがあるのは、あの小説を読むまで知らなかった。入館料300円。須磨寺に寄って帰った。

青木村 上田藩宝暦一揆

2007-09-01 | 一揆
この夏、松本から浅間山に向かう途中、青木村に寄ったけど、義民の墓を見つけることは失敗した。
青木村に入ると、まず町役場に立ち寄り、「宝暦義民の墓はどこにあるんですか」と受付の人に聞くと、「え?義民?」と首を傾げられた。受付の人は知らないらしい。上司の人がきて、昨年の全国義民サミットのパンフレットと地図をくれた。
すぐ目の前にある夫神山の麓、近くだという。すぐに出発。たしかに義民ソバ屋があった。しかし、案内標識も見つからず、狭い農道を車で登っていった。山林の中に墓を見つけたので、あれかと思って近づいてみるが、どうもちがうようだ。

なんか人の墓を無断で(線香もなしに)踏み込むのも気がすすまなくなり、あきらめることにした。ちょうど、そこに赤ちゃんを連れた若いお母さんが歩いていたので、「宝暦義民の墓は知りませんか」と聞いたら、「へー、そんなのあるのですか、知らなかった」と答えた。最近、他村から嫁にきた人なのかもしれない。どう考えても、その場所から100メートル以内にはあるはずなのに。地元の人も知らない?しかし、予定があるので、ここは縁がなかったのだと思い、青木村を去ることにした。ただで去るのはしゃくなので、青木村の唯一の国宝とされる大法寺だけ見た。
ただ、地元にきてやはり有益な情報は得た。一昨年、ここで全国義民サミットを開いたとき、参加した人に、地元の郷土歴史家(首謀者半平の墓を発見した人)の清水利益氏の「青木村義民史」という本を配ったそうだ。この本は手に入れることができた(あとで、紹介したい)。

画像は青木村の大法寺。