書店に久しぶりで入ったら、ドナルド・キーンの「渡辺崋山」が出ていた。今年の3月には出版されていたらしい。定価がちょっと高いので、これは図書館で見つけたら読むことにしようと思った。
昔、江戸時代がわからなくて、天保時代なら、崋山がキーパーソン(幕末なら清河八郎だが)だろうと思い、崋山の交友関係に関心をもったことがある。旅のついでに、田原の崋山記念館や崋山のお墓にもいったことがあるけど、もう、すっかり記憶はゼロだ。記憶をとりもどすために、その中のいくつかを採録しておきます(パソ会議室から)。最近、こればっかりだ。画像は、能勢長谷付近。
以下、例によって、9年前のコピー。長いです。
崋山とつながる人「お銀さま」
98/11/20 22:47 05473へのコメント コメント数:1
少年のころに親しく接し、憧れた美貌の年上の女性。しかし、ある日、突然いな
くなる。25年、年月がたったあと、さて、あの人はどうしているのか、と
訪ねてみたくなったことはないですか?(^^)
崋山がそんな旅をしているのです。
それは、崋山がつかえている三宅友信という隠居の生母お銀さんなのです。
田原藩の11代藩主三宅備前守の側女お銀さまは、この三宅友信を生んだ翌年、
お屋敷を去り、そのまま田舎の実家に帰ってしまいます。
崋山は子供のころ、このお銀さんにかわいがられたことがあるのです。
また、少年のころ、このお銀さんが生んだ子供のお相手をつとめたり、青年期には、
この友信を藩主にしようと運動したり、友信とは切っても切れない関係にあります。
(でも、詳しい説明はこのさいカット)。
とにかく、あの25年前、殿様の側女になり、今、つかえている主君(藩主では
ない。若い)の生母であり、崋山自身も忘れられない人となっているお銀さんを
訪ねてみようということになったのです(もし、苦しい生活をしていたら、ひきとろ
うとまで考えていたようです)。実家のある土地で村人と結婚したという噂は得てい
るのです。
旅は天保2年の9月。崋山は39才。
主君友信は26才。殿様は顔も知らないので、崋山が弟子一人を連れて旅に出発。
場所は神奈川県厚木の付近。当時は相模国。そんなに遠くはないので、9月20日に
江戸を出、9月22日には着いています。近郊の小旅行です。なんと、この旅行記(ス
ケッチつき、雑記帖)が残っているのです。「遊相日記」といって短い(今なら15ペ
-ジ程度の)紀行文です。短いけど、こんな旅、実にドラマチックではありませんか。
まるで山田洋次の映画にも出てきそうな牧歌的な情景です。
崋山につながる人「お銀さま」2
( 8) 98/11/21 14:29 05485へのコメント コメント数:1
>実家のある土地で村人と結婚したという噂は得ているのです。
と書いたけど、どうも、 崋山はそんなことも知らなかったようです。
ただお銀さんは、相模国高座郡早川村の幾右衛門の長女という手がかり
だけです。
さて、早川村に近づいた崋山、人に早川村の幾右衛門を知らないか、と
問う。
「その人は酒に酔って川に落ちて死んだ」
「では、その家族は今でもいますか」
「知らん。小園というところに娘が行ったということを聞いた」
「なぜ?」
「小園の清蔵という百姓の妻になってる。そこは朝夕の煙細う立つ
だけの貧しい家だから、お殿様みたいな人のいくとこではないわ。
わしもよく知らないので、先へ行って聞いてみなせえ」
しばらく行くと、戸数わずか4つか5つくらいの鄙びたを歩く。
日陰にむしろをひいて、背中だけ日にあててうずくまっている爺さん
がいた。崋山がこの爺さんに聞くと、突然、声をかけられてびっくりした
のか、しばらく黙っていたのち、話しだす。
「早川村は、この細道をずっといけばいい。川がある。それが早川じゃ。
そのあたりで幾右衛門と聞けば、知られた酒好きの翁だから、みんな知っている。
もう80才にはなるだろうか。娘は4人いて、2人は江戸にいた。長女ははやくから
江戸に出て、宮仕えをし、花を飾り、錦を着て帰ったことがあったが、じきに
母親が亡くなったので、家に帰った。女ばかりの家だからということで、小園村
の清蔵の嫁になり、その清蔵の弟を父親の養子にし、次女と結婚させ、家を継がせ
た。幾右衛門も清蔵もたいそう貧しく暮らしているが、ふたりとも働き者だ。清蔵
は他村までかけて、人の世話をしているほどじゃから、自分の家計もままならぬそ
うじゃ」
早川村に行くと、子供たちが遊んでいる。
「幾右衛門の家はどこ?清蔵の家はどこ?」と村の童に聞く。
子供は、幾右衛門の家より清蔵の家のが近いよ、と言う。
じゃあ、教えてほしい、と崋山は子供に小銭をあげて、連れていってもらう。
途中、地蔵堂を過ぎたあたりで、いが栗頭の小さな子供が立っている。
崋山を案内した子供が「おじさん、この子が清蔵の子供だよ」と言う。
よく顔を見ると、たしかにお銀さまのおもかげがある。
「家はどこにある?」と崋山が聞くと、返事もしないで、その子は走り去って
しまう。
その子の後を追っていって、ついに目的の家に着く。大きな母屋で、両側に下屋や
木小屋もある。庭に粟がいっぱい干してあり、犬が鶏の守りをしていた。
崋山、縁側から声をかける。もうし!
すいません、長くなったので、今回はここまで(^^)
崋山につながる人「お銀さま」3
( 8) 98/11/22 12:53 05495へのコメント コメント数:1
ごめんやして!
さて、崋山が(「ごめんやして!」とは言わないか(^^))、声をかけると、
「かしらに手拭をいただきて、老いさらほいたる女」が出てきて、
「いづれよりにや?とおそるおそる問う」
崋山、見て思う。「子供はお銀さまに似ていたけど、この人はそうではない。
しかし、20年以上も前のことだから、昔の顔のままのはずがない」となお、
じっくり顔を見つめていると、耳の下に大きないぼがあるのを発見。あ!
やっぱりあのお銀さまにまちがいない!
「わたしは、童のとき、あなたにとても憐れみをかけていただいた者です。
いささかなりとご恩報じにと訪ねてまいました。わたしは、だれだと思いますか?
お考えください」と崋山。
お銀さま「そんなことはわたしには身に覚えがありません。お殿様はどこからこられ
ましたか?もしや人まちがいではありませんか?」
崋山「まちがいではありません。あなたの名は何といいますか」
お銀「まち(町)」
崋山「昔の名は?」
お銀「まち」
崋山、あれ?やはりまちがいであったかと自信がなくなるが、耳の下のいぼがなに
よりの証拠だと思い、「昔、お銀と名のったことはありませんか?」と聞く。
お銀さん、急に驚いた顔をし、
「昔、江戸にいた時にはそう呼ばれていたこともあります。では、あなたさまは、
麹町(田原藩の江戸屋敷があった)から、おいでなされましたか?」と、言い、
「まずは奥へお入りなさい」と家に招じ入れてくれる。
部屋は畳はなく、板敷。そこで、改めて対面。頭の手拭をとった女性は、まぎれも
なくお銀さまその人でした。
「ただ涙にむせびて、互いに問い答えることもなく、時、移り」と崋山は書いてい
ます。
しばらくして、「わたしの名は何というか、おぼえておられますか」と崋山。
お銀「されば、上田ますみ様でらっしゃいますか?」(上田ますみは、25年前に今の
崋山と同じ年齢の侍だったらしい。お銀さまも25年という時間の経過を忘れて、当時
の同年配の武士の名をあげたのでしょう)
崋山がその者は15、6年前に亡くなりました、というと、
「では、あなたは渡辺登さまでいらっしゃいますね!どうしてまたお訪ねくだされた
のでしょう!なんと夢ではないのかしら!今日は夫は用事があってまだ帰ってないの
です。家の子を紹介します」とさっきから陰からようすを見ていた子供たちを呼んで
ひとりひとり紹介する。なんだかあわててとまどってるお銀さんの姿が目に浮かびます
ねぇ。
その場にいたのは、次男(19)、長女(11)、三男(8才、道で会ったいが栗頭の子
供)、末ッ子(3)。しばらくして、長男(22)も馬をひいて帰ってくる。「いと太く、
たくましい男にて、素朴いうばかりなし」と崋山は書いています。いい息子たちを持っ
てるとお銀さんの境遇に安堵したかもしれません。
お銀さんは、そばがき、酒、吸い物、とうふ、たまご、梅干し、栗餅などを出して、
馳走してくれるが、江戸の味になれた弟子などは、あまり食がすすまなかったらしい。
でも、崋山は、「その人喜びのあまり、何かと工夫してかくはもてなしなりける」
と、書いています。梅干しが一番うまかったそうだ。この場のようすもスケッチし
ています。
父親幾右衛門もやってきて、お銀さんとの昔語りに時を過ごす。
お銀さん「わが身の上を語りては泣き、都の空を思いては泣く。ただ今日という今日、
仏とやいわん、神とやいわん、かかる御人の草の庵におたずねくださって・・・」
しかし、はや、日が暮れかかる。
農業のさまたげになってはならぬと、崋山は辞去します。実にいい再会だった、と
崋山は幸福な時を過ごしたかもしれません。この日は、厚木に泊まるのですが、
いっぱい飲みたい気分だったのでしょう。「人を呼んでくれ、今日はおれがおごる」
と宴会をします。
なんと、その場に、あの時、会えなかったお銀さんの夫清蔵が訪ねてくるのです。
他村での仕事で遅く帰ってきた清蔵、妻から話を聞いて、大急ぎで走ってきたそう
です。走り通しだったので、あえぎあえぎ、崋山と対面します。角ばった赤黒い顔。
口は鰐のようで、厳然たる村丈夫。おみやげまでもってきている。いい夫だなぁ。
「清蔵と対話する。わが心様を話し、清蔵が心のほどを聞く。わが心、安し」
と崋山はこの紀行文をしめくくっています。
この紀行文の全原文は「日本庶民生活史料集成第3巻」(三一書房)に出ています。
また、この紀行文をわかりやすく解説したものに芳賀徹「渡辺崋山優しき旅人」(朝日
選書)があります。詳しく知りたい人はそれを見てね。清蔵、お銀さん夫婦の墓もある
そうだ。
(この芳賀徹という人は、新しい歴史教科書を作る会の人だけど)
昔、江戸時代がわからなくて、天保時代なら、崋山がキーパーソン(幕末なら清河八郎だが)だろうと思い、崋山の交友関係に関心をもったことがある。旅のついでに、田原の崋山記念館や崋山のお墓にもいったことがあるけど、もう、すっかり記憶はゼロだ。記憶をとりもどすために、その中のいくつかを採録しておきます(パソ会議室から)。最近、こればっかりだ。画像は、能勢長谷付近。
以下、例によって、9年前のコピー。長いです。
崋山とつながる人「お銀さま」
98/11/20 22:47 05473へのコメント コメント数:1
少年のころに親しく接し、憧れた美貌の年上の女性。しかし、ある日、突然いな
くなる。25年、年月がたったあと、さて、あの人はどうしているのか、と
訪ねてみたくなったことはないですか?(^^)
崋山がそんな旅をしているのです。
それは、崋山がつかえている三宅友信という隠居の生母お銀さんなのです。
田原藩の11代藩主三宅備前守の側女お銀さまは、この三宅友信を生んだ翌年、
お屋敷を去り、そのまま田舎の実家に帰ってしまいます。
崋山は子供のころ、このお銀さんにかわいがられたことがあるのです。
また、少年のころ、このお銀さんが生んだ子供のお相手をつとめたり、青年期には、
この友信を藩主にしようと運動したり、友信とは切っても切れない関係にあります。
(でも、詳しい説明はこのさいカット)。
とにかく、あの25年前、殿様の側女になり、今、つかえている主君(藩主では
ない。若い)の生母であり、崋山自身も忘れられない人となっているお銀さんを
訪ねてみようということになったのです(もし、苦しい生活をしていたら、ひきとろ
うとまで考えていたようです)。実家のある土地で村人と結婚したという噂は得てい
るのです。
旅は天保2年の9月。崋山は39才。
主君友信は26才。殿様は顔も知らないので、崋山が弟子一人を連れて旅に出発。
場所は神奈川県厚木の付近。当時は相模国。そんなに遠くはないので、9月20日に
江戸を出、9月22日には着いています。近郊の小旅行です。なんと、この旅行記(ス
ケッチつき、雑記帖)が残っているのです。「遊相日記」といって短い(今なら15ペ
-ジ程度の)紀行文です。短いけど、こんな旅、実にドラマチックではありませんか。
まるで山田洋次の映画にも出てきそうな牧歌的な情景です。
崋山につながる人「お銀さま」2
( 8) 98/11/21 14:29 05485へのコメント コメント数:1
>実家のある土地で村人と結婚したという噂は得ているのです。
と書いたけど、どうも、 崋山はそんなことも知らなかったようです。
ただお銀さんは、相模国高座郡早川村の幾右衛門の長女という手がかり
だけです。
さて、早川村に近づいた崋山、人に早川村の幾右衛門を知らないか、と
問う。
「その人は酒に酔って川に落ちて死んだ」
「では、その家族は今でもいますか」
「知らん。小園というところに娘が行ったということを聞いた」
「なぜ?」
「小園の清蔵という百姓の妻になってる。そこは朝夕の煙細う立つ
だけの貧しい家だから、お殿様みたいな人のいくとこではないわ。
わしもよく知らないので、先へ行って聞いてみなせえ」
しばらく行くと、戸数わずか4つか5つくらいの鄙びたを歩く。
日陰にむしろをひいて、背中だけ日にあててうずくまっている爺さん
がいた。崋山がこの爺さんに聞くと、突然、声をかけられてびっくりした
のか、しばらく黙っていたのち、話しだす。
「早川村は、この細道をずっといけばいい。川がある。それが早川じゃ。
そのあたりで幾右衛門と聞けば、知られた酒好きの翁だから、みんな知っている。
もう80才にはなるだろうか。娘は4人いて、2人は江戸にいた。長女ははやくから
江戸に出て、宮仕えをし、花を飾り、錦を着て帰ったことがあったが、じきに
母親が亡くなったので、家に帰った。女ばかりの家だからということで、小園村
の清蔵の嫁になり、その清蔵の弟を父親の養子にし、次女と結婚させ、家を継がせ
た。幾右衛門も清蔵もたいそう貧しく暮らしているが、ふたりとも働き者だ。清蔵
は他村までかけて、人の世話をしているほどじゃから、自分の家計もままならぬそ
うじゃ」
早川村に行くと、子供たちが遊んでいる。
「幾右衛門の家はどこ?清蔵の家はどこ?」と村の童に聞く。
子供は、幾右衛門の家より清蔵の家のが近いよ、と言う。
じゃあ、教えてほしい、と崋山は子供に小銭をあげて、連れていってもらう。
途中、地蔵堂を過ぎたあたりで、いが栗頭の小さな子供が立っている。
崋山を案内した子供が「おじさん、この子が清蔵の子供だよ」と言う。
よく顔を見ると、たしかにお銀さまのおもかげがある。
「家はどこにある?」と崋山が聞くと、返事もしないで、その子は走り去って
しまう。
その子の後を追っていって、ついに目的の家に着く。大きな母屋で、両側に下屋や
木小屋もある。庭に粟がいっぱい干してあり、犬が鶏の守りをしていた。
崋山、縁側から声をかける。もうし!
すいません、長くなったので、今回はここまで(^^)
崋山につながる人「お銀さま」3
( 8) 98/11/22 12:53 05495へのコメント コメント数:1
ごめんやして!
さて、崋山が(「ごめんやして!」とは言わないか(^^))、声をかけると、
「かしらに手拭をいただきて、老いさらほいたる女」が出てきて、
「いづれよりにや?とおそるおそる問う」
崋山、見て思う。「子供はお銀さまに似ていたけど、この人はそうではない。
しかし、20年以上も前のことだから、昔の顔のままのはずがない」となお、
じっくり顔を見つめていると、耳の下に大きないぼがあるのを発見。あ!
やっぱりあのお銀さまにまちがいない!
「わたしは、童のとき、あなたにとても憐れみをかけていただいた者です。
いささかなりとご恩報じにと訪ねてまいました。わたしは、だれだと思いますか?
お考えください」と崋山。
お銀さま「そんなことはわたしには身に覚えがありません。お殿様はどこからこられ
ましたか?もしや人まちがいではありませんか?」
崋山「まちがいではありません。あなたの名は何といいますか」
お銀「まち(町)」
崋山「昔の名は?」
お銀「まち」
崋山、あれ?やはりまちがいであったかと自信がなくなるが、耳の下のいぼがなに
よりの証拠だと思い、「昔、お銀と名のったことはありませんか?」と聞く。
お銀さん、急に驚いた顔をし、
「昔、江戸にいた時にはそう呼ばれていたこともあります。では、あなたさまは、
麹町(田原藩の江戸屋敷があった)から、おいでなされましたか?」と、言い、
「まずは奥へお入りなさい」と家に招じ入れてくれる。
部屋は畳はなく、板敷。そこで、改めて対面。頭の手拭をとった女性は、まぎれも
なくお銀さまその人でした。
「ただ涙にむせびて、互いに問い答えることもなく、時、移り」と崋山は書いてい
ます。
しばらくして、「わたしの名は何というか、おぼえておられますか」と崋山。
お銀「されば、上田ますみ様でらっしゃいますか?」(上田ますみは、25年前に今の
崋山と同じ年齢の侍だったらしい。お銀さまも25年という時間の経過を忘れて、当時
の同年配の武士の名をあげたのでしょう)
崋山がその者は15、6年前に亡くなりました、というと、
「では、あなたは渡辺登さまでいらっしゃいますね!どうしてまたお訪ねくだされた
のでしょう!なんと夢ではないのかしら!今日は夫は用事があってまだ帰ってないの
です。家の子を紹介します」とさっきから陰からようすを見ていた子供たちを呼んで
ひとりひとり紹介する。なんだかあわててとまどってるお銀さんの姿が目に浮かびます
ねぇ。
その場にいたのは、次男(19)、長女(11)、三男(8才、道で会ったいが栗頭の子
供)、末ッ子(3)。しばらくして、長男(22)も馬をひいて帰ってくる。「いと太く、
たくましい男にて、素朴いうばかりなし」と崋山は書いています。いい息子たちを持っ
てるとお銀さんの境遇に安堵したかもしれません。
お銀さんは、そばがき、酒、吸い物、とうふ、たまご、梅干し、栗餅などを出して、
馳走してくれるが、江戸の味になれた弟子などは、あまり食がすすまなかったらしい。
でも、崋山は、「その人喜びのあまり、何かと工夫してかくはもてなしなりける」
と、書いています。梅干しが一番うまかったそうだ。この場のようすもスケッチし
ています。
父親幾右衛門もやってきて、お銀さんとの昔語りに時を過ごす。
お銀さん「わが身の上を語りては泣き、都の空を思いては泣く。ただ今日という今日、
仏とやいわん、神とやいわん、かかる御人の草の庵におたずねくださって・・・」
しかし、はや、日が暮れかかる。
農業のさまたげになってはならぬと、崋山は辞去します。実にいい再会だった、と
崋山は幸福な時を過ごしたかもしれません。この日は、厚木に泊まるのですが、
いっぱい飲みたい気分だったのでしょう。「人を呼んでくれ、今日はおれがおごる」
と宴会をします。
なんと、その場に、あの時、会えなかったお銀さんの夫清蔵が訪ねてくるのです。
他村での仕事で遅く帰ってきた清蔵、妻から話を聞いて、大急ぎで走ってきたそう
です。走り通しだったので、あえぎあえぎ、崋山と対面します。角ばった赤黒い顔。
口は鰐のようで、厳然たる村丈夫。おみやげまでもってきている。いい夫だなぁ。
「清蔵と対話する。わが心様を話し、清蔵が心のほどを聞く。わが心、安し」
と崋山はこの紀行文をしめくくっています。
この紀行文の全原文は「日本庶民生活史料集成第3巻」(三一書房)に出ています。
また、この紀行文をわかりやすく解説したものに芳賀徹「渡辺崋山優しき旅人」(朝日
選書)があります。詳しく知りたい人はそれを見てね。清蔵、お銀さん夫婦の墓もある
そうだ。
(この芳賀徹という人は、新しい歴史教科書を作る会の人だけど)