虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

渡辺崋山の旅

2007-09-17 | 歴史
書店に久しぶりで入ったら、ドナルド・キーンの「渡辺崋山」が出ていた。今年の3月には出版されていたらしい。定価がちょっと高いので、これは図書館で見つけたら読むことにしようと思った。
昔、江戸時代がわからなくて、天保時代なら、崋山がキーパーソン(幕末なら清河八郎だが)だろうと思い、崋山の交友関係に関心をもったことがある。旅のついでに、田原の崋山記念館や崋山のお墓にもいったことがあるけど、もう、すっかり記憶はゼロだ。記憶をとりもどすために、その中のいくつかを採録しておきます(パソ会議室から)。最近、こればっかりだ。画像は、能勢長谷付近。
以下、例によって、9年前のコピー。長いです。

崋山とつながる人「お銀さま」
98/11/20 22:47 05473へのコメント コメント数:1

少年のころに親しく接し、憧れた美貌の年上の女性。しかし、ある日、突然いな
くなる。25年、年月がたったあと、さて、あの人はどうしているのか、と
訪ねてみたくなったことはないですか?(^^)
崋山がそんな旅をしているのです。

それは、崋山がつかえている三宅友信という隠居の生母お銀さんなのです。
田原藩の11代藩主三宅備前守の側女お銀さまは、この三宅友信を生んだ翌年、
お屋敷を去り、そのまま田舎の実家に帰ってしまいます。
崋山は子供のころ、このお銀さんにかわいがられたことがあるのです。
また、少年のころ、このお銀さんが生んだ子供のお相手をつとめたり、青年期には、
この友信を藩主にしようと運動したり、友信とは切っても切れない関係にあります。
(でも、詳しい説明はこのさいカット)。

とにかく、あの25年前、殿様の側女になり、今、つかえている主君(藩主では
ない。若い)の生母であり、崋山自身も忘れられない人となっているお銀さんを
訪ねてみようということになったのです(もし、苦しい生活をしていたら、ひきとろ
うとまで考えていたようです)。実家のある土地で村人と結婚したという噂は得てい
るのです。

旅は天保2年の9月。崋山は39才。
主君友信は26才。殿様は顔も知らないので、崋山が弟子一人を連れて旅に出発。
場所は神奈川県厚木の付近。当時は相模国。そんなに遠くはないので、9月20日に
江戸を出、9月22日には着いています。近郊の小旅行です。なんと、この旅行記(ス
ケッチつき、雑記帖)が残っているのです。「遊相日記」といって短い(今なら15ペ
-ジ程度の)紀行文です。短いけど、こんな旅、実にドラマチックではありませんか。
まるで山田洋次の映画にも出てきそうな牧歌的な情景です。

崋山につながる人「お銀さま」2
( 8) 98/11/21 14:29 05485へのコメント コメント数:1

>実家のある土地で村人と結婚したという噂は得ているのです。
と書いたけど、どうも、 崋山はそんなことも知らなかったようです。
ただお銀さんは、相模国高座郡早川村の幾右衛門の長女という手がかり
だけです。

さて、早川村に近づいた崋山、人に早川村の幾右衛門を知らないか、と
問う。
「その人は酒に酔って川に落ちて死んだ」
「では、その家族は今でもいますか」
「知らん。小園というところに娘が行ったということを聞いた」
「なぜ?」
「小園の清蔵という百姓の妻になってる。そこは朝夕の煙細う立つ
だけの貧しい家だから、お殿様みたいな人のいくとこではないわ。
わしもよく知らないので、先へ行って聞いてみなせえ」

しばらく行くと、戸数わずか4つか5つくらいの鄙びたを歩く。
日陰にむしろをひいて、背中だけ日にあててうずくまっている爺さん
がいた。崋山がこの爺さんに聞くと、突然、声をかけられてびっくりした
のか、しばらく黙っていたのち、話しだす。

「早川村は、この細道をずっといけばいい。川がある。それが早川じゃ。
そのあたりで幾右衛門と聞けば、知られた酒好きの翁だから、みんな知っている。
もう80才にはなるだろうか。娘は4人いて、2人は江戸にいた。長女ははやくから
江戸に出て、宮仕えをし、花を飾り、錦を着て帰ったことがあったが、じきに
母親が亡くなったので、家に帰った。女ばかりの家だからということで、小園村
の清蔵の嫁になり、その清蔵の弟を父親の養子にし、次女と結婚させ、家を継がせ
た。幾右衛門も清蔵もたいそう貧しく暮らしているが、ふたりとも働き者だ。清蔵
は他村までかけて、人の世話をしているほどじゃから、自分の家計もままならぬそ
うじゃ」

早川村に行くと、子供たちが遊んでいる。
「幾右衛門の家はどこ?清蔵の家はどこ?」と村の童に聞く。
子供は、幾右衛門の家より清蔵の家のが近いよ、と言う。
じゃあ、教えてほしい、と崋山は子供に小銭をあげて、連れていってもらう。
途中、地蔵堂を過ぎたあたりで、いが栗頭の小さな子供が立っている。
崋山を案内した子供が「おじさん、この子が清蔵の子供だよ」と言う。
よく顔を見ると、たしかにお銀さまのおもかげがある。
「家はどこにある?」と崋山が聞くと、返事もしないで、その子は走り去って
しまう。
その子の後を追っていって、ついに目的の家に着く。大きな母屋で、両側に下屋や
木小屋もある。庭に粟がいっぱい干してあり、犬が鶏の守りをしていた。
崋山、縁側から声をかける。もうし!
すいません、長くなったので、今回はここまで(^^)
                             



崋山につながる人「お銀さま」3
( 8) 98/11/22 12:53 05495へのコメント コメント数:1

ごめんやして!
さて、崋山が(「ごめんやして!」とは言わないか(^^))、声をかけると、
「かしらに手拭をいただきて、老いさらほいたる女」が出てきて、
「いづれよりにや?とおそるおそる問う」

崋山、見て思う。「子供はお銀さまに似ていたけど、この人はそうではない。
しかし、20年以上も前のことだから、昔の顔のままのはずがない」となお、
じっくり顔を見つめていると、耳の下に大きないぼがあるのを発見。あ!
やっぱりあのお銀さまにまちがいない!

「わたしは、童のとき、あなたにとても憐れみをかけていただいた者です。
いささかなりとご恩報じにと訪ねてまいました。わたしは、だれだと思いますか?
お考えください」と崋山。

お銀さま「そんなことはわたしには身に覚えがありません。お殿様はどこからこられ
ましたか?もしや人まちがいではありませんか?」

崋山「まちがいではありません。あなたの名は何といいますか」
お銀「まち(町)」
崋山「昔の名は?」
お銀「まち」

崋山、あれ?やはりまちがいであったかと自信がなくなるが、耳の下のいぼがなに
よりの証拠だと思い、「昔、お銀と名のったことはありませんか?」と聞く。

お銀さん、急に驚いた顔をし、
「昔、江戸にいた時にはそう呼ばれていたこともあります。では、あなたさまは、
麹町(田原藩の江戸屋敷があった)から、おいでなされましたか?」と、言い、
「まずは奥へお入りなさい」と家に招じ入れてくれる。

部屋は畳はなく、板敷。そこで、改めて対面。頭の手拭をとった女性は、まぎれも
なくお銀さまその人でした。
「ただ涙にむせびて、互いに問い答えることもなく、時、移り」と崋山は書いてい
ます。

しばらくして、「わたしの名は何というか、おぼえておられますか」と崋山。
お銀「されば、上田ますみ様でらっしゃいますか?」(上田ますみは、25年前に今の
崋山と同じ年齢の侍だったらしい。お銀さまも25年という時間の経過を忘れて、当時
の同年配の武士の名をあげたのでしょう)

崋山がその者は15、6年前に亡くなりました、というと、
「では、あなたは渡辺登さまでいらっしゃいますね!どうしてまたお訪ねくだされた
のでしょう!なんと夢ではないのかしら!今日は夫は用事があってまだ帰ってないの
です。家の子を紹介します」とさっきから陰からようすを見ていた子供たちを呼んで
ひとりひとり紹介する。なんだかあわててとまどってるお銀さんの姿が目に浮かびます
ねぇ。
その場にいたのは、次男(19)、長女(11)、三男(8才、道で会ったいが栗頭の子
供)、末ッ子(3)。しばらくして、長男(22)も馬をひいて帰ってくる。「いと太く、
たくましい男にて、素朴いうばかりなし」と崋山は書いています。いい息子たちを持っ
てるとお銀さんの境遇に安堵したかもしれません。

お銀さんは、そばがき、酒、吸い物、とうふ、たまご、梅干し、栗餅などを出して、
馳走してくれるが、江戸の味になれた弟子などは、あまり食がすすまなかったらしい。
でも、崋山は、「その人喜びのあまり、何かと工夫してかくはもてなしなりける」
と、書いています。梅干しが一番うまかったそうだ。この場のようすもスケッチし
ています。

父親幾右衛門もやってきて、お銀さんとの昔語りに時を過ごす。
お銀さん「わが身の上を語りては泣き、都の空を思いては泣く。ただ今日という今日、
仏とやいわん、神とやいわん、かかる御人の草の庵におたずねくださって・・・」

しかし、はや、日が暮れかかる。
農業のさまたげになってはならぬと、崋山は辞去します。実にいい再会だった、と
崋山は幸福な時を過ごしたかもしれません。この日は、厚木に泊まるのですが、
いっぱい飲みたい気分だったのでしょう。「人を呼んでくれ、今日はおれがおごる」
と宴会をします。
なんと、その場に、あの時、会えなかったお銀さんの夫清蔵が訪ねてくるのです。
他村での仕事で遅く帰ってきた清蔵、妻から話を聞いて、大急ぎで走ってきたそう
です。走り通しだったので、あえぎあえぎ、崋山と対面します。角ばった赤黒い顔。
口は鰐のようで、厳然たる村丈夫。おみやげまでもってきている。いい夫だなぁ。
「清蔵と対話する。わが心様を話し、清蔵が心のほどを聞く。わが心、安し」
と崋山はこの紀行文をしめくくっています。

この紀行文の全原文は「日本庶民生活史料集成第3巻」(三一書房)に出ています。
また、この紀行文をわかりやすく解説したものに芳賀徹「渡辺崋山優しき旅人」(朝日
選書)があります。詳しく知りたい人はそれを見てね。清蔵、お銀さん夫婦の墓もある
そうだ。
(この芳賀徹という人は、新しい歴史教科書を作る会の人だけど)

渡辺崋山の旅2 厚木

2007-09-17 | 日記
1の続き。
崋山につながる人「厚木の医者」
( 8) 98/11/23 11:34 05504へのコメント

わたしは、崋山さんといっしょに厚木を旅してきました(^^)

さて、崋山につながる人、庶民編。
まず唐沢蘭斎というお医者さんから。この人とは宴会以来仲良くなり、翌日は
厚木をいっしょに案内してくれ、崋山が厚木を去る時には、遠くまで見送ってく
れる。一期一会の出会いで、このあと、この人がどうなったかは崋山も知らない。

日記には、蘭斎いわく、と、この無名の医者の話したことをずらっと書いている
のですから、崋山の取材意欲はたいしたものです。優秀な新聞記者にもなれるね。
崋山にこんなことを言ったそうです。
厚木は烏山藩3万石大久保佐渡守の領地。厚木は洪水の災害の多いところなんです
が、その災害は人災であるといい、藩政を強く批判しています。

「災害が起きると官は役人を派遣して堤の改築をする。役人がきて、市民(原文にも
市民と書いています)の財や食をむさぼり、民を使役して民を苦しめる。堤が完成
しても、ただ人を使って土石を運んで岡にしただけだから、頑丈ではない。川底をさ
らっていないので、役にたたない。大雨がふれば、かえって大災害になるだけだ。
堤が壊れてもその後、補修する話はいっこうに聞かない。
役人は土木工事は入札で業者を選ぶが、その費用もいいかげん。官金1千両使っても、
実際に工事に使う費用は300両にも満たない。また、工事を請け負った者は、官威を
かさにきて、村民を使い、その害、一国に及ぶ。堤がこわれたあと、結局、村人が力
を合わせ、新しい堤を築くが、官がつくるものよりも、民が自身で作ったものの方が、
その頑丈さはまさっている。もし、官金を村長に下して、工事をさせたら、大災害は、
決して起こらず、費用も半分ですむ」

なんだか、今のこの国の政治批判かと錯覚してしまいそうです。当時の田舎の
ふつうの人だって、市民政治の視点をしっかりもっているんだね。

またこんなことも言っています。
「厚木の土地、鳥山藩ではなく、天領になったら上々、旗本の知行地でもいい。
なぜなら、天領なら、願いごと達することも早く、何事も寛大公平。上にいるお代官
も、微禄なので、民に勢いがあり、代官も手なづけやすい。上も民の機嫌をうかがうか
ら、勝手の訴えもできる。ところが小さな藩はたちが悪い。威勢強く、詮索も行き届き、少しの隙があれば、刻政をおこない、ご用金を申し付け、ただ収奪ばかりをおこなう。
わたしは、医者だから、旗本の屋敷にも出入りするが、厚木の土地の富を旗本に説いて
奪ってもらおうかしら。これは簡単にできそうだ(^^)」
崋山の田原藩も、烏山藩以上にちっぽけな藩です。
「余、聞きて、愕然たり」と感想を述べています。
                             

崋山につながる人「厚木の侠客」
( 8) 98/11/23 11:36 05504へのコメント コメント数:2


絵をかくというおもしろい侍が宿に泊まっている噂を聞いて、その後も
いろんな人が崋山の宿にやってきます。絵師、趣味人、漁師、表具師、
名主、はては坊さんまで。そして、隣の酒井村(旗本領)の村長をしている
駿河屋彦八という人までやってくる。この人、実はこのへん一帯の侠客。

土地の人は皆、彦八に敬服しており、彦八が来ると、みんな首を下にし、彦八の
言うことは皆唯々諾々と従うという人。初めて会う人には必ず面罵するという
激しい気性の人。「初めて彦八に接し、面罵されなかったのはあなただけです」
と崋山は皆にいわれたそうだ。さすが崋山。

「彦八、性素朴、小児のごとし。不義を憎むにいたって己れ、死すとも止まず」。
彦八の酒井村は、もとは某家の領地だったが、主人に不正あり、彦八、許せぬ、
と大争い、ついに公裁に及んで、彦八に理ありとされて、某家はこの土地を移され、
酒井村は天領となる。で、彦八は村長もさせられている。
なるほど、前回、医者がしゃべっていた話(天領にかえてもらおう)は、彦八のこ
とが頭にあったんだね。

崋山はこの彦八に政治について問います。
  「なにか不足に思うことはあるかね」
彦八「何も思うことはありません。今日になれば、今日のことをなし、明日は明日
   のことでさあ。ましてや、人のことは知りませんや。
   ですが、もし、ここに2万両を10年無利息で貸してくれたら、土地に貧乏人は
   いなくなり、その繁栄もはかりしれない。これはだれでも知っていることで
   さあ。
   しかし、今の殿様では、慈仁の心、これっぽっちもなく、ただ民の隙をうか
   がい、収奪だけをしている。殿様を取り替えるのが一番いいと思ってます」

崋山、聞いて「愕然として驚き」、そなたの言うことは犬にも劣ることだ、と言い返す。 昔、ある百姓の犬が地頭をほえ、地頭がおこって百姓を責めた。百姓は「わたしの犬はわたしだけを主人と思って地頭さまを主人とは知らないのです」と言ってあやまったと
いう話をして、どうだ、厚木の民、この畜生に劣ると思わないか?と問う。しかし、ぜんぜん説得力がないね。現代人の目で見れば、崋山は封建社会の政治思想をぬけでていないけど(武士だから仕方ないのですが)、彦八は庶民の生活の視点から政治を見ているんだよ。

「彦八、黙然」とありますが、たぶん大坂人なら、アホぬかせ、やっぱりお侍に話しても無駄やった、という心境だったのでしょう。

林竹二は「田中正造の生涯」(講談社現代新書)の中にこの話を引き、「武士階級中の
ヒュ-マニスト崋山もこの種の士道へのとらわれをぬけることはできなかった」と、書い
ています。彦八という庶民像はすばらしいじゃないか!
そして、こんな一庶民の政治に対する考えを書き留めた記録もまた実に珍しいのではないでしょうか。崋山は彦八の顔もスケッチして残しています。
                                

崋山と松崎慊堂

2007-09-17 | 歴史
崋山につながる人「松崎慊堂(こうどう)」
( 8) 98/11/23 21:45 05510へのコメント コメント数:2

天保の大儒と称される老学者です。また、偉い人だ。しかも漢学者!固そう!
でも、崋山の学問の師であるだけでなく、命の恩人でもありますから、はずす
わけにはいきません。
で、そんなに固い人でもないんです。いい人です(^^)

明和8年(1771)肥後の農家に生まれる。貧しいので寺の小僧にやられる。
16の歳に江戸に出奔。江戸の寺の和尚にひろわれ、林家の昌平校に入る。
苦学して、後、佐藤一斎とともに林述斎門下の双壁といわれる。

苦学していたころ、こんな話があります。品川の娼家に泊まるのですが、
この書生は夜中に起き出して本を読んでいる。相方の女性が「なぜ、本を
読んでいるの?」と聞く。慊堂は「自分は苦学生で、昼間は本を読む暇が
ない。だから、夜を読書の時間にあてている」と答える。
「あなたが1カ月学問するにはどのくらいお金がかかるの」
「2分あれば、十分なんだが」
「2分くらいなら、わたしが倹約したらできるお金だから、わたしが学資を
送ってあげるわ」
それから毎月、この遊女は2分送ってくれ、おかげで、慊堂の学問も進み、
塾を開いて独立できるようになり、慊堂は、この遊女を落籍して妻にします。

慊堂が「蛮社の獄」で牢屋にいれられた時は、慊堂はすでに70才以上の高齢で、
しかも病気で苦しんでいました。しかし、崋山を助けるために憤然と行動を
おこします。対照的なのが、佐藤一斎。この人は崋山を助けるよう人に求められ
ても、「何もしないほうがいい」と断わるのです。(崋山は佐藤一斎も松崎慊堂
とも肖像画をかいています)

慊堂は林述斎に会い、鳥居耀蔵にも会い、水野忠邦にも崋山は無実であるという
建白書を出すのです。崋山は死刑にきまっていたようですが、この建白書が水野
を動かし、崋山の罪は軽減されます。

前、AKIさんが近藤重蔵の息子の世話を羽倉簡堂がした、と書いておられまし
たが、羽倉さんにたのんだのが、なんと、この松崎慊堂のようです。
この人も、めんどう見がいいねぇ。この時代、親分がいっぱいいるね(^^)

崋山が自殺したことを知った時、慊堂は「崋山は杞憂のために罰せられ、杞憂の
ために死んだ」と悲しんでいます。

慊堂は50才ころから70すぎで死ぬまで日記をつけていたようで、それは「慊堂日録」
として平凡社東洋文庫全6巻(文政6年から天保15年まで)として出版されています。
この中には、崋山の記事はもちろん、大塩の乱の記事なども出ているそうです。