虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

蕃談(漂流民次郎吉)1

2007-09-16 | 歴史
漂流民話、もう一つありましたので、書いておきます。
これも、9年前、この時期、なんか集中的に漂流談を読んだのでしょう。その後は、すっかり忘れていますから、熱しやすく冷めやすい自分の性向がよくわかります。この漂流談は、あまり印象に残っていないので、たぶんおもしろくないのかもしれません。パソ通時代の漂流談は、これでおしまいです。
以下コピー。

漂流民次郎吉の話(蕃談)
( 8) 98/06/22 00:46 コメント数:2

天保9年に遭難して漂流した越中富山の長者丸(10人乗り)の漂流記をやってみます。
この漂流記は日本庶民生活史料集成にある「時規(とけい)物語」と「蕃談」が
ありますが、「時規物語」は長すぎるし(しかし、挿絵は素晴しい)、「蕃談」
は東洋文庫に現代語訳があるので、「蕃談」を読んでみることにします。

まだぜんぜん読んでいないので、おもしろいのかつまらないのかは、まったくわから
ない。つまらなかったら(あまりわたしの興味をひかなかったら)、連載もすぐ終わ
るつもりです。でも、井伏鱒二の「漂民宇三郎」はこの事件が史料になっているそう
やし、ちょっとは何かあるかもしれません。

「蕃談」。漂流民次郎吉に取材してこの本を書いた人は、古賀謹一郎。
幕末期には、蕃書調所という幕府の洋学研究所の頭取を勤めた人です。
話を取材した時は29才のころかな。
その序文には概略こんなことを書いています。

中国の晋の代に、ある漁師が桃源境を旅して帰って人々に語り、人々はその
話に驚いたという。この漂流民の話も、わたしたちにとっては桃源境を旅した
人の話のようだ。
しかし、わたし(古賀)はこうも思う。
晋に住んでいたという桃源境の人々は洞窟の中にこもり、500年間、外の世界を
知らなかった。桃源境の人々こそ、漁師から世間の話を聞き、びっくりしたので
はなかろうか。
いや、われわれも、この桃源境の人々と同じではないのか。
鎖国して、海外の事情は何も知らない。

蘭学や長崎だけの情報では満足できない、という鎖国時代の学者の焦り、海外への
探究心を感じます。
                              
RE:漂流民次郎吉の話(蕃談)
( 8) 98/06/22 21:26 03989へのコメント

としまるさん、まいど!海の男 ホ-ンブロワ-じゃなかった藤五郎です(^^)
>>「蕃談」を読んでみることにします。
>これって何て読むんだっけ?未だ学校で習っていないよ(笑)
「ばんだん」と思うけど、ちがうかなぁ。「ばん」とキ-ボ-ドを押すと、
その中に蕃という漢字もあったんだ。
「蕃」というのは、外国人、未開の異国人という意味があるのでしょうね。
当時の日本にとって、中国を除けば、蕃なのだろうか?

この漂流談を語った次郎吉は当時、26才のただの水夫(雑用係)。
でも、体格堂々として、力持ち。大男のロシア人と相撲をとってもだれもかなわず、
日本人、強し、と尊敬されたようだよ。
対面したインタビュア-古賀謹一郎は、「顔色浅黒く、堂々たる偉丈夫で、
すぐれた記憶力を持ち、弁舌もまたさわやかである」と書いています。
ただ水夫の常として文字はなかったそうですが(ほんとかなぁ?)。

文字はなくても、その知性はすごいよ。(文字を知って本を読めば読むほど、
知性教養人格はかえって曇る場合もありうるな)

たとえば、こんなこと言っている。
「そもそもわが国は、外国といえばすべて仇敵視し、異国の船を見れば善悪を
問わずただちに砲撃する。したがって諸外国はわが国をあたかも狂犬に対する
ごとく深く警戒し、本土に少しでも近づく際は厳重に武装を整える。-略-
諸外国の船がみな日本の近海で武備を厳にするというのは、これまったくわが国
がみずからまねいた結果ではないであろうか」(東洋文庫「蕃談-漂流の記録1」
平凡社)

漂流の記録1、と書いていて全3巻とあるけど、どうも、2、3は出ていないようです。
でも「蕃談」はこの1巻だけで全部です。もうひとつの史料「時規物語」も合わせて
使って補っているので、これで漂流の経過は十分知ることができそうです。
                          

蕃談(漂流民次郎吉)2

2007-09-16 | 歴史
漂流民次郎吉の話「蕃談」(2)
( 8) 98/06/22 23:09 03987へのコメント コメント数:1

船は富山の能登屋の持ち船 長者丸(650石積み)。
乗組員は船頭兵四郎以下合計10名。

  どんな構成かというと、
船頭1名、平四郎(50才くらい) 総取締役。
親司(おやじ)1名 舵取取り役。操縦士。
表(おもて)1名、船首にいて方角を指示する水先案内人。
岡使い1名 会計係 荷物の記帳をしたりする。

片表 1名 片表以下からは若衆ともいうそうな。錨のあげおろしなど
     船内作業。
追い廻し 3名 雑用一切。次郎吉はこの役。
炊(かしき)2名 炊事係。
もちろん男ばっかです。

海の男たち、漂流する前までどんな仕事をしていたのかも見ておきましょう。
当時の船はただの交通産業ではなく、海を股にかけた商売をしておった
ような。

天保9年(1838)4月、大坂への廻米500石を積み、出航。
5月下旬、大坂着。ここで、米を富山藩の蔵屋敷に届ける。
大坂で、綿、砂糖その他を買い込み、空船になった船に積み込み、
6月中頃、大坂出航、7月6日新潟着。新潟の問屋に荷物を届ける。つまり、
大坂で積み込んだ綿や砂糖を売ったということかな?
8月下旬、松前城下に入港。
当然、新潟でお米を買い込み、米の少ない松前で売ったのでは?空船のまま
航行するはずはない・・。
9月末か10月初め箱館に入港。ここでこんぶ5、600石積み込む(これはどこへ
届けるつもりだったのだろう?)

10月10日ころ、南部藩領田ノ浜に向けて出発。出航の時、多くの船が
混雑していたため、接触事故をおこし、船に載せてあった伝馬船が
こわれる。修理のために、10月14日ころから田の浜に2週間ほど滞在。

南部藩は米の値段が高いので、船に残っていた30俵の米のうち20俵を売って、
塩びきの鮪(しび)100本に換える。船頭は商才がないとつとまらないなぁ。

田の浜に停泊中、巫女がきて「来月の23、4日ころ、この船は気をつけたほうが
いいぞ」といったり、悪魔払いと称して獅子舞いのようなことをするものがいた
り、不吉を予感させるようなこともあったらしい。

11月はじめ、仙台領唐丹(とうに)の港に着き、22日まで滞在。
23日出航の明け方、宿のものから、2日前に港の弁天島でひとりでに火が燃え出したり、
この明け方、いつもは聞こえない鐘の音が聞こえた、縁起はよくないので、気をつけ
るように」といわれる。いやなこと言われたね。
23日の朝8時ごろ、出航。
晴れて順風だったが、10時ごろから、西風が強く吹きはじめ、だんだん沖へ・・・。
漂流談は次回に。
                 参考史料  東洋文庫「蕃談」(平凡社)
漂流民次郎吉の話「蕃談」(3)
( 8) 98/06/23 20:47 03991へのコメント コメント数:1

残念ながら、「蕃談」それ自体には漂流のさまを伝える記事はありません。救助
された時点からの記事で始まるんです。船乗りたちの船内での苦労よりも、やは
り異国情報が大切やったんやなぁ。
で、この東洋文庫版の「蕃談」では漂流中のことは、「時規(とけい)物語」か
ら引用しています。

「時規物語」は加賀藩主前田斉泰(なりやす)の命によって家臣が漂流民から
聞き取って記録したもので、「蕃談」の半年後、嘉永3年に完成しています。
すごく大部な本で(漂流記としては最大ではないのか?)、挿絵も多く、すば
らしい本なのですが、長く秘されてきたようで、一般の目にふれることができ
るようになったのは、日本庶民生活史料集成(三一書房)に載ってからでしょう。

なんで「時規(とけい)物語」だって?実は、漂流民は異国の人に「時計」を贈
られ、帰国後、加賀の殿様に献上したからなんです。

では、では、東洋文庫「蕃談」によって漂流のようすをちくっと見てみましょう。

天保9年11月23日、朝8時ごろ仙台領唐丹港を出航した「長者丸」、10時ごろから
吹きだした大風(西風)のため、沖へ流され、昼すぎには、つめこんでいた塩しび
と、こんぶ100石の荷物を海中に捨てます。
24日、さらにこんぶ200石も海に捨てる。船の安定を保つためかなぁ。
25日、帆柱を切り倒し、船首に錨をふたつ降ろす。帆柱を切り倒すのは、風にあたっ
て、船が沈没しないようにするため、錨を降ろすのは船が風に流されないようにする
ためかな?

この大風、23日から27日まで5日間も続き、波は高く、船は揺れに揺れ、沈没の危険
にさらされたようで、この間、船員たちは食事らしい食事をとる間もなかったよう
だ。この間は暴風によるパニック、そして暴風との必死の闘いの時で、まだゆっくり
事態を考える暇もなかっただろうな。

28日。やっと晴れ、波も静まる。助かった、と喜ぶが、しかし、どこを見ても陸は見
えず、方角もわからない。食料の米はわすが2俵しかない。で、粥にして食べることに
する。方角がわからないので、やはり神くじ(占い)をひいている。忍び寄る不安。

12月17日夜、またも大嵐。船内は水びたし、伝馬船も流失。和船には甲板がないので、
高波がくると、それがドバッ-と船の中にたまるんですね。いっぱいになると、水船に
なって沈んでしまう。で、せっせと水(アカというらしい)をくみださなくてはいけ
ない。積み込んでいたこんぶが水を吸い込み、かさがふくれ、船が重くなったので、
こんぶもすぐに捨てなくてはならなくる。でも、みんなもうクタクタ。身体が動かん。
この時、船長の平四郎がみんなに梅干を一人に二粒ずつ配って口にいれさせると、
少し元気が出て、動き始めたそうな。
しかし、この嵐の時から、とうとうみんな覚悟を決め、髪を切ったそうだ。
遭難すると、船乗りたちは髪を切り、神さんの助けを祈るという習わしがあるようで
すね。
さて、これからは飢えと渇きと絶望と闘う日々が続くのです。
                       

蕃談3

2007-09-16 | 歴史
漂流民次郎吉の話「蕃談」(4)
( 8) 98/06/23 22:26 03993へのコメント コメント数:1

風の吹くままに漂流を続ける長者丸。
食料も乏しくなり、1日に米2合を10人で食べることになる。
米にこんぶを刻んで粥にし、また積み込んでいた塩しびを海水で煮て食べたり
した。
しかし、米も残すところ、あと3升となる。
せっかく30俵もあったのに、田の浜なんかで売って、いりもしない塩しびなん
か買うからだ、と船長への不満の声もあがる(船長はもっと安い土地で米を
買い入れるつもりだったらしい)。
で、船長は残りの3升の米は10人に平等に分ける。一人3合。みんなは自分の
手元に貯えておいて、生米のまま少しずつ噛っていたそうだ。

天保10年の正月も過ぎ、1月の半ばを越えたころには水はまったくなくなって
しまう。前回の「船長日記」の重吉さんは、「らんびき」という海水から真水
をとる方法できりぬけたけども、今回の船長さんは、その方法をよく知らなか
ったらしく失敗している(船長平四郎さんは、売薬商人上がりで、船には詳し
くなかったのかもしれない)。
いくらのどが渇いていても海水は飲めない。
しかし、あまりにのどが渇いていたのか、炊(かしき)の五三郎(25才)が
味噌桶にたまった海水をかぶかぶ飲んでしまい、それ以来、急に衰弱し、
24日の夜、死んでしまう。遺体は海中に沈める。

1月26日、久しぶりの雨。桶などを持ちだし、水をためる。この水は1日に3度
(朝、昼、晩)茶碗に1ぱいずつみんなに分配し、あとは、封印し、勝手に飲む
ことを禁止にする。雨はこのあとも一月に1度くらいしか降らなかったようだ。

2月になる。でも、日本では4月のような陽気。
船には常に海水が侵入してくるようになる。船底の釘が抜けたところから海水が
しみこんでくるらしい。せっせと水の汲み捨て作業をする。
2がつの終わりごろには船板に貝がつくようになり、船底には藻もはえてくる。
船員たちは、たまに流れてくる海草や魚(あまりいなかった)、藻なども食べた
ようだ。途中、大亀やさめも近寄ってきている。時規物語には、大亀の絵も載っ
ている。

4月12日、片表役の善右衛門(40才くらい)が死ぬ。
4月13日ごろ。表(水先案内人)の金六(49才)、投身自殺。
                             藤五郎
漂流民次郎吉の話「蕃談」(5)
( 8) 98/06/24 21:18 03996へのコメント コメント数:1


>かわいそうな五三郎(^^;)砂漠の上なら仕方もないが、海に浮かんでるんだから
>目の前の海水を飲みたくなるのも解らん事もないな---。
海水は塩気が強くてのどを通らないけど、どうしても水分がほしくて海水をのもう
とするなら、こうすればいいって「蛮談」にはかいてあったよ。
「桶に海水をくみいれて、そのなかに顔をつっこみ、しばらく息をとめてみる。
 そうすると、苦しくなって首をあげるとたんに、一口ごくりと飲み込んでしまう
 ことができる」って。
 なんだ、これでは、おぼれそうになった時に口に入る海水と同じだね。
さて、前回の続き。
4月13、4日ごろ、表(水先案内人)の金六は海にとびこんでしまうが、その
わけは、こうです。

この金六は松前で新たに乗り込んできた人。この船の案内人である人が松前で船を降
りてしまったので、急きょ、東航路(太平洋側航路)に詳しいという金六を松前で雇
いいれたわけ。
船が漂流したことについては、ずっと責任を感じていただろうし、新入りだけに、み
んなから非難されていたのかもしれませんね。
この時には、病気になり、満足に身体も動かせなくなっている。

この日、船の中で最年少の炊(かしき)金蔵(18才?)をよんでこんなことを言う。

「今まで20年、船に乗っていて失敗したことは1度もなかった。今度の難船は、
 おれの運が尽きた証拠だ。こんなおれが生きていたのでは、ほかの者にまで迷惑が
 かかる。この上は、早く命を断って、みんなを助けたい。
 どうか、この世の飲みおさめに水を4日分だけ飲ませてくれ」

金蔵は、そんなことはできないと断わったが、翌日は、金六はこう言う。
「どうか、おれを矢倉の上までつれていってくれ」
金蔵が体をかかえてなんとか上に運ぶと、そこでも水を要求する。
ようすがへんなので、金蔵がみんなに話すと、そんなの大うそだ、ただ水がほしいだ
けだ、ほっとけ、と言われる。

金六はしきりに頼む。
「せめて3日分の水を飲ませてくれたら思い残すことなく死ねる・・・たのむ、最期の
願いだ」

金蔵は見るにしのびなくなり、みんなに、どうか金六に水を飲ませてやってくれ、
もし、うそだったら、自分のもらう分の水でうめあわせる、と懇願する。
それほど言うなら、とみんなも許し、金蔵は茶碗で9はい分の水をもっていってやる。
金六はさもうまそうに水を飲み干したあと、身をおどらせて海にとびこんでしまった
そうです。

もう、みんな限界にきていたのでしょうね。あと一月も漂流していたら、全員、絶望
だったでしょう。

しかし、金六が海にとびこんでから約2週間後、アメリカの捕鯨船ゼンロッパ号に救助
されるのです。4月の24日ころ。
この捕鯨船は、ナンタケット島の捕鯨船。ナンタケット島といえば、当時の捕鯨業の
基地。いや、メルビィルの「白鯨」の主人公たちも、この島から出航するし、あのエイ
ハブ船長もこの島の出身なのです。海の魅力にとりつかれたメルビィルは「白鯨」の
中でも、ナンタケット島の人こそが海の住人であると、絶賛している名前です。海の男にとっては胸をときめかす港だったのでしょう。
しかし、日本の漂流民、エイハブ船長の船にはのらなくてよかったね(^^)
       

蕃談4

2007-09-16 | 歴史
漂流民次郎吉の話「蕃談」(6)
( 8) 98/06/25 20:19 03997へのコメント コメント数:1

長者丸の海上漂流は約6カ月、うち3人が死亡し、アメリカの捕鯨船に
救助されたのは7人になります。船長はケフカル、船の名はゼンロッパ号。
ただし、外国の名前については、漂流民の耳に聞こえたままを記録している
ので、正確には、ちゃんとした言い方があると思います。たとえば、サンドイッチ
(諸島)のことを「サンイチ」とか、オアフ(島)のことを「ワホ-」と書いたり
していますから。

7人はケフカル船長の船に約1と月のったあと、他の捕鯨船からもひきとりたい
という申し出があったので、ケフカル船長の船には船頭平四郎、次郎吉、金蔵
がのこり、あとの4人は、他の3隻の捕鯨船に分乗することになる。

そして、これら4隻の捕鯨船は捕鯨をしながらと、サンドイッチ諸島(つまり、ハワイ)
まで行き、オアフで7人は再び合流することになる。ハワイに行けば、広東までゆく軍
艦があるということらしい。
救助されたのが4月、ハワイに着いたのが9月なので、約5カ月間、漂民たちは捕鯨船
にのっていたことになります。捕鯨の手伝いもしたらしいよ。
捕鯨船の中の記事で、目についた記事を適当にピックアップすると、

・「三本マスト」を見て、あ、外国船だ、と思ったそうですから、外国船は3本マスト
  と知っていたのですね。
・外国船に乗り移る時には、みんなとびっきりの着物に着替えている。やはり正装する
 んだね。日本人の代表になるんだものね。
・救助された時、お米の粥に砂糖をまぜたのを出されている。「船長日記」の時にも、
 お米に砂糖をかけたのが出ていたし、ジョン万も、粥に砂糖をかけたのが出たそうだ。 なんやろ?うまいのやろか。だれか試してください。
・外国船に乗ってからは西洋服を支給されている。船頭は綿入れの着物を船長に贈って
 いる。また、1両もした脇差も船長に贈ったようだ。
・救助されて3、4日、はじめて石鹸を使って行水をしている。
・船には黒人もふたり乗っていて、一人は身長7尺5寸の大男、鼻の穴に1文銭がかるが
 るに入ったらしい。力もちで、ふだんはおとなしいがケンカすると水夫5、6人が相手
 にしてもかなわなかったそう。
・船頭平四郎が小さい春画を1まい持っていたが、船のみんながちょうだいちょうだい!
 というのでやってしまったとか。春画は世界共通の文化だね。
・夜になると、水夫たちは船首の方でダンスをしていた。
・捕鯨船の乗組員は30人ほど。

まあ、こんなところでしょうか。次郎吉たちはメモをとっていたわけではなく、帰国し
てから、記憶にたよってしゃべっているんですから。
                              

漂流民次郎吉の話「蕃談」(7)
( 8) 98/06/25 22:16 04001へのコメント コメント数:1

次郎吉たちは、天保10年(1839)9月から翌年の7月まで約11カ月間、ハワイに滞在
することになる。

アメリカの捕鯨船の船長は広東商人やここの宣教師に漂流民の世話をたのんで別れる。
広東商人(華僑)は広東いきの船に詳しいし、牧師さんは島の文化人だから損得ぬき
で世話をしてくれるはずと考えたのですね。
ところが、どうも広東商人は、本気になって送り帰すことよりも、貴重な労働力が手に
入ったことを喜んだだようで、いつまでも島にいてほしかったような感じです。
次郎吉たちは、ここで甘ショから砂糖をしぼりとる手伝いをさせられます。といっても
拘束された労働者といった苛酷な立場ではありませんが。
あちこちに有力な広東商人がいたようですね。

アメリカの牧師さんにはほんとによく世話になっています。牧師さんは、学校をつくり、ハワイの伝道事業の真っ最中だったのでしょうね。ハワイがアメリカのものになった
のは牧師さんたちの力なんでしょうか?
ここで船頭の平四郎が病気で死にますが、牧師さんが会葬してくれ、墓碑もつくって
くれます。
カヌ-をあやつる土地の原住民(カナカ族)も出てきます。
遊廓みたいなところに案内されますが、顔は真っ黒で、歯が欠けている(前歯を抜く
という風習があったらしい)女性なので、遠慮させてもらったそうですが。

アメリカの軍艦がなかなか来ない。フランス船の船長に聞くと、中国では、アヘン戦争が起きているから、広東経由は危険といわれる。結局、ロシア経由の方が早く帰国できる
かもわからないということで、牧師さんたちの世話でイギリス船を紹介してもらい、
天保11年7月やっとホノルルを出航します。漂流民は今、6人です。

ハワイ編は手抜きして大急ぎで通り抜けることにしました。詳しくは東洋文庫「蕃談」
を参照あれ。

             

蕃談5

2007-09-16 | 歴史
漂流民次郎吉の話「蕃談」(8)
( 8) 98/06/26 21:08 04002へのコメント コメント数:1

駆け足でいきます。

天保11年(1840)、9月、イギリス船にのってホノルルを出航、9月上旬、カムチャ
ッカのペトロバブロフスクに着く。

イギリス船長は、若く、髭面の飲み助だが、豪放で勇敢な男だったよう。
「この国の人の常として、地位や俸給の高いものほど、下に使っている者の倍以上
 も心身を労している。このことは船長の行動を見てわかった」
なんて書いています。徳川日本の皮肉もこめているのだろうか。
ぺトロバブロフスクは、「船長日記」の重吉も、高田屋嘉兵衛も滞在した町です。
(いったい何番目の訪問者になるのだろう?他にもいると思う)

はじめは、兵営に住まわせられるが、なんたって食事がまずい、兵隊用の粗末なもの
なので、苦情を言い、のち、3人の裕福な民間人に分宿させてもらうことにする。
ということは、今まで、かなりごちそうを食べさせていてもらったわけだ。

民間人のところに分宿するが、薪割りや倉庫の番など仕事もさせられる。奉公人に
なる。しかし、待遇が悪いと思ったら、自由に奉公先を変えることができるようなので、まあ、ホ-ムスティのようなものか。イルク-ツクから、「漂流民は厚くもてなせ」と指
示がくると、扱いも一段と丁寧になる。お客さま待遇だな。

新任の長官が赴任してきて、次郎吉は、新しい長官の家で世話になることになる。
長官の家には美人の小間使いキンニャという乙女がいて、長官に「どうだ、キンニャ
といっしょになってベテルブルグにいっしょにいかないか」としきりに勧められた
らしい。今だったら、ハ-イ!と帰化する人も多いと思うのに、当時の日本人は国に
帰りたいという気持ちがよほど強かったのだね。

次郎吉がカムチャッカの海辺を散歩していたとき、米俵を倉庫に運んでいるのを見て、
手伝ってあげようと、米俵2俵を軽々とかついだところ、みんなびっくりしたそうだ。
また、相撲をしばしばとっだが、いつもロシア人から、日本人にはかなわない、と
称賛されたそう。格闘技においても、かつてはレベルが高かったのかもしれぬ。

ここに、約10カ月滞在しますが、いそいで、次にいきます。
カムチャッカよりもオホ-ツクの方が、首都との連絡に便利ということで、天保12年
6月、ここを出航、7月にはオホ-ツクに移動します。
オホ-ツクの役所の長官はゴロウニン(日本に幽囚の身となる)の甥ということで屋
敷で世話になり、親切にもてなしてくれる。
また、ここの次官は、高田屋嘉兵衛をロシアに連れてきたリコルドの部下だったそう
で、この次官の家でも親切にしてもらえる。
日本はゴロウニンを捕え、ほんとうなら、敵なのに、こんなに親切にしてもらって、
なんとロシアは寛大なのだ、と漂流民は感激している。高田屋嘉兵衛がロシア人に
与えた好印象が漂流民の待遇をよくしたのだろうか。
この町で11カ月滞在。しかし、まだ帰国できないのだ!

オホ-ツクには船が少ないということで都からの指示で今度はアラスカのシトカへ
いくようにいわれる。シトカとは「船長日記」の重吉さんが美女の誘惑にあった土地。
アラスカのシトカへ6月下旬、出航、8月上旬シトカ着。
ナバロフはいなかったが、何代目かの長官に厚遇され、漂流民に召使の者までつけて
くれる。しかし、ここにも7カ月以上滞在することになる。北の海はいつでも船が航行
できるわけではないのですね。
本国に帰る最後の日、長官夫妻が別れの宴を設けてくれる。そこの部屋に見慣れな
い珍しい時計がかけてあって、みんながほめていると、これをあげる、おまえたちの国
の長官に献上しなさい、といわれる。
いよいよ、3月中旬エトロフに向けて出航というわけです。

漂流記をアップしていると、ついこちらも早く日本に帰したくなって、途中のようすは、めんどうになり、大幅に、いや、ほとんどカットしてしまいました(^^)。
次で、やっと終りです。早く、日本の陸(おか)に上がりたいよう!
                                 

漂流民次郎吉の話「蕃談」(9)
( 8) 98/06/27 00:18 04004へのコメント

天保14年(1843)3月シトカ港をロシア船にのって出航。
三陸海岸沖で漂流したのは、天保9年11月だから、もう5年たっています。

5月23日にエトロフ島のフルベツの岸にいく。
岸へ1里ばかりのところでアイヌの1隻の小船が近づく。
ロシア船に乗せると、松前藩の足軽小林朝五郎ほか6名(武士は小林だけ)。

どうも、小林朝五郎は上司に報告し、指示を待たずに、自分の判断ですぐ
かけつけたらしい。古びた仕事着に、ももひき、羽織といういでたちで、漂流民に
とってはちょっと恥ずかしいような服装だったらしい。「蕃談」では好意を
もって書かれていない。しかし、軽率で行動的なところは憎めない人柄も感じるな。
まあ、漂流民としては、わざわざ送り届けてくれたのに、日本の代表として出てき
たのが、下っぱの軽率な奴だったということがちょっと残念だったのかも。

船長は、それでもこの小林を引き取り代表人として丁重に扱い、船長室で歓待します。
小林はんは、大喜びで飲み食いし、刀の下げ緒を交換してもらったりしますが、その
うち酒が回って日本刀を抜き、刀の切れ味を示し武威を誇ったりする。船長も刀をぬき、「われわれの刀は思いのままに曲がったり伸びたりして、切先だけで、人を殺せる」な
どと対応する。しかし、なにせ小林はんは、言葉がわからないので、
漂流民が適当にふたりの間をとりなしたのでしょう。

漂流民は、「この船は帰りに一月もかかり、水が不足するので、水を提供してあげて
くれないか」と頼みますが、「水などもってのほか、本来なら、砲火をあびせて
うち払うところだ。早々に帰るべし」と断わります。そして、ほんとかどうか「うち払
いもせず、おまえたちを無事に上陸させたのはこのおれの功績。江戸での取り調べの時
はおれのことよく言っておいてくれよな」なんて言います。

しかし、この時点(天保14年)には、文政の打ち払い令も緩和し、前年には、天保薪水
令が出て、外国船への食料、水の供給は許可されているのです。
小林はんは知らなかったのでしょうか。ロシア人は知っていたようです。

「蕃談」には「次郎吉たちは、心の中で、この男が外国人の心情を理解せず、ただ軽薄
にいばりちらして相手に無礼を加えたことを嘆き、遠路はるばる漂民を送還してくれた
厚意にも感謝せず、お礼の品を進呈するどころか、薪や水の補給の必要がないかと問う
だけの礼儀もわきまえなかったことをひたすら残念に思った」と書いています。

しかし、ロシア人の方はこの男にそんなに悪意は感じなかったようで(漂流民がいいよ
うに通訳してくれたためかもしれません)、2年後、この男を尋ねにエトロフに来たよう
です。でも、小林はんは、その時には、すでに幕府から処罰を受けてエトロフにはいなかったそう。

さて、5年間漂流してきた次郎吉たちですが、日本に着いても、故郷に帰るのはなおも
6年間待たなければならないのです。江戸での取り調べです。
故郷に帰るまでに、二人が病死しています。早く帰らせてあげたらいいのに!
異国での漂流よりも日本に帰りついてからの生活の方が長く苦しいものではなかったで
しょうか。
嘉永元年10月無事に故郷に帰ったのは、岡使いの太三郎(帰郷後半年で病死)、追い回しの六兵衛、次郎吉、炊(かしき)の金蔵の4人だけです。
金蔵はその後、塩の小売人になったそうですが、次郎吉、六兵衛は消息不明。
その後、どんな思いで過ごしたか、幕末のジョウイ騒ぎをどう思ったか、興味をそそら
れますね。
長文失礼しました。
          参考:室賀信夫、矢守一彦編訳「蕃談」東洋文庫(平凡社)