虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

週刊金曜日の小田実

2007-09-07 | 読書
週刊金曜日は、風速計とか編集長とかの短いコラムはネットで読むことができるので、たまにのぞくことがある。
8月10日に佐高信の「小田実という存在」という文を読んだが、いったい何をいいたいのかわからない内容。この人は、久野収、藤沢周平、城山三郎など大きな存在をネタに自分を見せているような感じがして、あまり好感は持っていない。何がいいたいのだ?小田の死を惜しむ言葉もなく、自分は最も早く小田のデモに参加した、と書くのみ。この時期、マスコミで生きていく上で、小田実を評価することに逡巡するものがあるのか?

9月7日、今日は本多勝一の「小田実の死に想う」のコラムがでていた。小田と本多は友人であり、本多自身も、脱走兵のために中古アパートを購入し、隠れ場所を提供したことを書き、「現時点の日本でこそ行動の先頭に立ってほしかった」とその死を惜しんでいる。
ただ、「もの書きとしての彼の問題点にも一言ふれておく。同じことを別のメディアにも書いたりするのだ。本誌でもそんなことがあって、以後、本誌から彼への原稿依頼はされなくなった」と書いてある。
自分の伝えたいことはあらゆるメディアを使って伝えるのは問題ではない。当然だ。問題だと考えるのは、メデイアの側だ。小田の死に際して、なぜ本多はこんなことを書かなくてはいけないのだろう?

かつて司馬遼太郎は、高山彦九郎を評価するとき、筆の走りだが、と断りながらも、高山彦九郎は、小田実と本多勝一を合わせたような人かもしれない、と書いていたっけ。