虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

出羽国 高梨利右衛門

2007-07-06 | 一揆
出羽国置賜郡幕領米沢預地、屋代郷。いったい、どこだ?

今の山形県高畠町。映画「スイングガールズ」のロケはここでしたらしい。
ここ、屋代郷(35か村、3万7000石)はもともとは幕領だったが、寛文4年に上杉氏の預かり地となる。

支配が上杉氏になってからの苛斂誅求はすさまじかったらしい。この時の藩主は、上杉綱憲。吉良上野介の長男。忠臣蔵では、討ち入りの日に父を助けにいこうとして止められる殿様だ。この以前に上杉氏は30万石から15万石に減らされ、吉良の散財もあって、藩財政はたいへんだったようだ。財政改革は、この殿様の孫にあたる上杉鷹山まで待たなければならない。

領民は、もとの幕府の支配にもどりたがった。

「東洋民権百家伝」によると、こうだ。
この地のニ井宿村の高梨利右衛門、名主をつとめていたが、上杉氏の預かり地となってから、上杉氏の不法な政治をいちいち絹布にもらさず書き記し、3年ばかりのあいだに100カ条にもなった。その中から、60カ条を選び、嘆願状にし、35カ村の代表に見せ、連判してもらい、江戸に出訴に出る(その前に信夫郡の代官所にも願い出るが、取り扱う気はない)。江戸で駕籠訴するも、めんどうなことにはかかわりたくないと無視される。で、大工に頼んで、桐の箱を作らせ、その蓋には、将軍家の葵の紋をかかせ、その中に嘆願状と自分の居所を書いた紙を入れ、上野の茶店に忘れたようにして置いておいたそうだ。茶店では、葵の紋に驚いて、奉行所に届ける。こうして公儀に届いた。
評議の結果、屋代郷は、もとの幕領にもどるが、利右衛門は、上杉氏に引き渡されて、磔になる。

郷里の人は、その後、利右衛門の供養碑を立て、また「酬恩碑」と大書した大きな石碑を建てるが、これには後日談がある。

文久2年、この領地が再び、上杉氏の領地になったので、領民が再び集まり、訴えようとしたが、今度は、幕府に弾圧される。文久3年のことだ。このとき、幕府の取り調べ役が屋代郷に出張し、この「酬恩碑」の石碑を見て、こんなもんがあるのはけしからんとこの石碑をこわしてしまう。この人の名は中野悟一。初代山口県の県令になり(井上と親しかったのだろう)、のち、藤田組に入り、明治16年、変死した人だ。中野悟一、こういう男だったのだ。

酬恩碑の石碑、供養碑は、今も高畠町にあるようだ。高畠町のホームページにある。
画像は高畠町の風景。

生野代官所への一揆と尼心諒

2007-07-05 | 一揆
元文3年(1738)の生野銅山一揆については、「東洋民権百家伝」に詳しい。
12月にあったのだけど、前後2回あり、1回目は銀山鉱夫たちの一揆、2回目は、鉱夫たちの一揆を契機として、朝来郡、養父郡の百姓たちが、年貢の減免と窮民への夫食米を求めて代官所へ強訴したものだ。

代官は、小林孫四郎。これまたよく深い代官だったらしい。
銀山の鉱夫たちの一揆では、獄門2、死罪2、追放7.
百姓たちの一揆は、獄門5、死罪1、遠島8、追放9.

尼の心諒さんとは、遠島になった弥兵衛さんのお孫さん。

この弥兵衛さんは、「東洋民権百家伝」にある判決書によると、持ち高10石、年寄役。但馬国朝来郡東河庄野村。35歳、とある。廻状を回し、村々から人数を集めたことを罰せられた。
遠島先は、壱岐島。

「東洋民権百家伝」はここまでしか書いていないが、地元の「朝来志」という地誌には、弥兵衛さんの孫のことが書いてある。これは、林基「百姓一揆の伝統」に書いてあった。

「心諒、幼時、祖父、なお島にありと聞き、あい見んとほっす。長ずるに及び、思慕ますます切なり。ついに志を決し、梁瀬村桐葉庵に入り、尼となる。行旅に便するなり。年、21」

壱岐についたとき、祖父は79歳だったそうだ。遠島になって49年間。天明5年のとき。しかし、うれしかっただろうなあ。

祖父は、島で孫が来る夢を三回も見たそうだ。そして、島は蚕が多いので、それを防ぐ紙蓆を作って待っていたという。孫は祖父の世話をしたかったが、許されないので、福岡の寺に住み、毎月1度は必ず島にいった。舟底にひそみ、その上に荷物をのせるというたいへんな船旅だった。3年後、天明8年祖父は死に、孫は、祖父の遺骨を持って故郷に帰る。

「後、水月庵ヲソノ郷里ニ創メ之ニ居、天保14年、病デ寂ス。年79」と、「朝来志」にある。
なんと、じいさん孝行な娘ではないか。

この水月庵にきっと祖父の供養碑も建てただろうと思うけど、朝来郡に「水月庵」は見つからない。この心諒という尼さんの寺はどこだろうか?「義民年表」には、この弥兵衛の供養塔は、和田山町野村、とあるきりで、寺の名もない。ただ、野村とあるから、ここが弥兵衛さんの故郷であることはまちがいない。水月庵はなくなったのだろう。

朝来郡のホームページで尼心諒を検索したけど、なにもなかった。ただ、ミュージカル「尼心諒」というのが一件だけあった。

画像は銀山湖。




松波勘十郎 水戸宝永一揆

2007-07-05 | 一揆
松波勘十郎は前からちょっと興味があった。浪人者であちこちの藩の財政改革請負業みたいなことをしていたようだ。

水戸藩の財政改革に起用されるが、百姓一揆にあい、牢死。特に、運河を作って、江戸と東北の物流をよくし、通行税をとる大工事を計画したが、失敗。
画像は、今に残る勘十郎堀。

最近、林基「勘十郎捜索」という本が出版されたそうだが(ネットで見た)、その値段にびっくり。7000円以上する。これで上下2冊あるのだから、買う人なんかいないだろう。林基といえば、百姓一揆の学者だったはずだ。みんな金に困っている時代、なんで、こんな法外な値段をつけるのか、不思議でならん。

これは、水戸黄門が死んで、その次の代の殿様のときだ。水戸藩が貧乏になったのも、黄門様が修史事業をしたり、そのつけが回ってきたかららしい。

この一揆については、「民衆運動の思想」(岩波書店)に「宝永水府太平記」の史料が収録してある。

「宝永3年、9月17日、清水仁右衛門(この人も浪人で財政改革者)取り持ちにて、松並勘十郎こと、御客分として、2百人扶持にてお抱え、その後、倅勝右衛門3百石、弟仙衛門2百石、御近習役あい勤め候なり。」

「勘十、その後、御奉行上座となり、御紋付着用し、倅勝右衛門、御用人となり、これより、御格式、古法あい止み、御改革始まり、御国中、勘十ひとり、御用司となり、我意に任ずる」

郡手代75人を30人に、代官手代56人を14人に減らすなど人員削減、また、手代が村を回るときは、徒歩でいくなど、いろいろと古い習慣を変えたらしい。
年貢もあがり、いままで特別に安くしてあった土地にも普通に税をかえるようになり、金持ちの百姓には御用金を課す。山の木も切りだす。なんといっても大きな事業は運河の工事だが、工事にかりだされる百姓には一銭の労賃も払わない。しかも、その工事がうまくいっていないのに、上には完成したとつくろう。

百姓たちは、江戸の藩邸に訴えることになるが、この史料では、上吉田影村の藤衛門が頭領として登場。
藩役人から、改革は領内が豊かになり、百姓にとってもありがたいことではないか、と諭されるが、いちいちに、そうではない、実はこうなのだ、と反論する。この一揆の頭領はだれだ?と聞かれると、それは、「松並勘十郎と清水仁右衛門にござ候」と答える。改革のリーダーこそが一揆の原因だという。
藤衛門は、くりかえし、松並勘十郎と対決させてほしい、と願っている。たいしたやつだ。

松並勘十郎親子は牢死。
藤衛門の義民碑はない。この一揆では、百姓は罪に問われなかったようだ。だから、藤衛門も殺されなかったのだろう。ほんまやろか?他藩ならともかく、水戸藩では百姓一揆など存在がゆるせなかっただろうから、もしや、ひそかに・・・、てことはないだろうか?

と、思って、「近世義民年表」を見てみたら、やっぱり藤衛門は闇討ちにされたという伝承があるらしい。また、伝承では、8名が帰国せず、地蔵尊を建てたが、藩によって移転させられ、また地蔵尊は打ち首になったともいう。その首切地蔵というのが、今もどこかにあるらしいが、おそらく慰霊するものはだれもいず、知られないまま放置されているにちがいない。

佐渡一国騒動

2007-07-04 | 一揆
石見銀山のライバルとして佐渡島もある。ここも世界遺産登録をねらっているらしい。いってみたいところだ。金山も見たい。

佐渡は、相川に奉行所があって、この奉行が佐渡一国を支配していたようだ。なにせ、金山はあるし、孤島なので他国者に遠慮はなしで、ここに赴任する奉行は実に勝手なことをしたようだ。石見銀山の井戸さんとは大違い。

天保八年、あの全国的な大飢饉のとき、奉行は桑山十兵衛じゃなくて、篠山十兵衛という御仁。この飢饉のとき、人々を救うことはおろか、反対に、私的に、勝手に年貢をふやして私腹をこやそうとする。

佐渡一国の村々が嘆願書を作り、ちょうど、江戸からの巡見使が佐渡に来たので、善兵衛という人が一国惣代となって、巡見使に渡す。しかし、この巡見使、奉行所役人たちにまるめこまれたのか、詮議もしないで、そのまま佐渡を立ち去ろうとする。善兵衛は牢屋に入れられたので、憤激した百姓たちは、善兵衛の釈放を求めて、うちこわしに。
善兵衛は釈放されたものの、篠山十兵衛は、高田藩兵を連れて、騒動の鎮圧に乗り込み、善兵衛は再び、逮捕される。江戸から役人がきて、百姓、奉行所役人を江戸に連れ帰り、審議したが、善兵衛は獄門、奉行は、軽いお咎めだけで、下役人の責任にしたそうだ。これは、「東洋民権百家伝」をざっと読んだおおまかな流れなので、正確かどうかは知らない。今日では、もっと研究が進んでいると思う。
「東洋民権百家伝」では、篠山十兵衛は、善兵衛を毒殺し、江戸の役人たちには、1万両の賄賂をまきちらした、と書いてある。

騒動がおきたときには、篠山十兵衛は転任になっていて、鳥居八右衛門が奉行だったそうだ(これ、鳥居耀蔵との縁者ではなかろうね?)。
この一揆のあとに赴任したのが、あの有名な川路なんとかさん(漢字がでない)。

佐渡には、この一揆の史跡もあるようだが、残念ながら、観光スポットにはしていない。一揆を観光スポットにしてるところって、どこだろう。佐倉宗吾の成田、武左衛門の日吉村?うーん、あんまり知らない。一揆は、どこの土地にもあるのだから、もっと光をあてるべし。

画像は佐渡奉行所。ネットの画像をはじめて自分のブログにのせた。こんなことができるんだな。知らなかった。しかし、勝手にのせてもいいのか?ちと心配。

井戸神社 石見銀山

2007-07-03 | 一揆
世界遺産になった石見銀山。1度は行ってみたい。
石見銀山には、ここの代官だった井戸平左衛門を祭った井戸神社がある。
この人、お代官さんなんだけど、あの百姓一揆伝の「東洋民権百家伝」に出てくる1人です。

井戸さんが、代官として石見に赴任したのは、享保16年、60歳のとき。大飢饉の中、人々を救うために、幕府の許可を得ずに、年貢を免除し、官倉の米を放出し、1人も餓死者を出さなかったそうだ。また、この土地に芋を栽培することを進め、芋代官ともいわれた。しかし、幕府の許可を受けずに年貢を放出したり、救民活動をしたことで、代官をやめさせられ笠岡陣屋でご沙汰を待つようにいわれる。井戸は、笠岡陣屋で、切腹して果てたそうだ。62歳。世に病死と伝えられているが、切腹がほんとうらしい。こんなお代官さまもいたんやなあ。稀有の例だろう。

画像は、能勢の七宝寺の大観音像。石見銀山とはまったく関係なし。車を運転していると、見えたので行ってみた。日蓮宗の寺。


明和義人 涌井藤四郎

2007-07-02 | 一揆
新潟市では、今年政令指定都市になったのを記念して、この8月31日にミュージカル「明和義人」を上演するらしい(原作、火坂雅志)。
市は、明和義人と題したパンフレットと明和義人ゆかりの地周辺散策絵図も配布している(ネットで読むことができる)。どの町もこんなの作ってくれないかなあ。
市として、義民や義人を顕彰し、その史実を明らかにすることはとてもいいことだ。


明和義人は、市のパンフレットでは、「町の人たち」としているが、主役は、涌井藤四郎だ(もう1人、須藤佐次兵衛がいるけど、悪いけど、カット)。市は、明和義人の「自立と自主の精神」を生かすと書いているが、これは、一揆後、2ヶ月間、町の運営を涌井藤四郎を中心とする町人たちが運営したことをさす。パリコミューン、また隠岐騒動ののコミューンの100年前だ。

明和4年。長岡藩は町民に1500両の御用金を課す。半分は納めたが、あとの半分の納入は延期してもらおう、と涌井藤四郎が町人たちと相談。藩への嘆願の相談をうちこわしの相談として密告する者があって、藤四郎は投獄される。明和5年の秋だ。藤四郎が投獄されたことに憤激した町人たちは「藤四郎を釈放せよ」と叫びながらうちこわしを始める。奉行所は藤四郎を釈放。その後、新潟町の町政は藤四郎を中心とした人々の寄り合いで決められる。米の安売りが始まり、貧しい者には涌井藤四郎の判をおした米切手が配られたり、酒や味噌なども値下げされたそうだ。町人自治だ。
しかし、2ヵ月後、藤四郎は長岡藩から出頭を命じられ、そのまま城内の牢に入れられる。2年後、市中引き回しの上、獄門。かつては「涌井大明神」といわれた藤四郎、市中引き回しの上、獄門にするためには、2年間が必要だったといわれる。

「図録日本の百姓一揆」では、道津継男氏が解説しているが、昭和3年に建てられた明和義人顕彰碑についてふれている。碑文の題字は、陸軍大将大迫尚道が書いたそうだが、碑文には、涌井は、町人のうちこわしを止めようとしたが、止められずに、打ちこわしの責任をとって、罪をかぶって死んだと書いてある。
道津氏は、「新潟市民は、この歴史の偽造を正していかなけばならない」と書いているが、うん、そのとおりだ、と思った。
碑文も出ているが、最後を引用するとこうだ。
「嗚呼、両氏の義烈や身を殺して仁を為す者まさに千載に芳名を伝うべきなり」

涌井藤四郎のことは、「東洋民権百家伝」にも出てくるが、2ヶ月の町人自治のことは書いていない。