虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

明和義人 涌井藤四郎

2007-07-02 | 一揆
新潟市では、今年政令指定都市になったのを記念して、この8月31日にミュージカル「明和義人」を上演するらしい(原作、火坂雅志)。
市は、明和義人と題したパンフレットと明和義人ゆかりの地周辺散策絵図も配布している(ネットで読むことができる)。どの町もこんなの作ってくれないかなあ。
市として、義民や義人を顕彰し、その史実を明らかにすることはとてもいいことだ。


明和義人は、市のパンフレットでは、「町の人たち」としているが、主役は、涌井藤四郎だ(もう1人、須藤佐次兵衛がいるけど、悪いけど、カット)。市は、明和義人の「自立と自主の精神」を生かすと書いているが、これは、一揆後、2ヶ月間、町の運営を涌井藤四郎を中心とする町人たちが運営したことをさす。パリコミューン、また隠岐騒動ののコミューンの100年前だ。

明和4年。長岡藩は町民に1500両の御用金を課す。半分は納めたが、あとの半分の納入は延期してもらおう、と涌井藤四郎が町人たちと相談。藩への嘆願の相談をうちこわしの相談として密告する者があって、藤四郎は投獄される。明和5年の秋だ。藤四郎が投獄されたことに憤激した町人たちは「藤四郎を釈放せよ」と叫びながらうちこわしを始める。奉行所は藤四郎を釈放。その後、新潟町の町政は藤四郎を中心とした人々の寄り合いで決められる。米の安売りが始まり、貧しい者には涌井藤四郎の判をおした米切手が配られたり、酒や味噌なども値下げされたそうだ。町人自治だ。
しかし、2ヵ月後、藤四郎は長岡藩から出頭を命じられ、そのまま城内の牢に入れられる。2年後、市中引き回しの上、獄門。かつては「涌井大明神」といわれた藤四郎、市中引き回しの上、獄門にするためには、2年間が必要だったといわれる。

「図録日本の百姓一揆」では、道津継男氏が解説しているが、昭和3年に建てられた明和義人顕彰碑についてふれている。碑文の題字は、陸軍大将大迫尚道が書いたそうだが、碑文には、涌井は、町人のうちこわしを止めようとしたが、止められずに、打ちこわしの責任をとって、罪をかぶって死んだと書いてある。
道津氏は、「新潟市民は、この歴史の偽造を正していかなけばならない」と書いているが、うん、そのとおりだ、と思った。
碑文も出ているが、最後を引用するとこうだ。
「嗚呼、両氏の義烈や身を殺して仁を為す者まさに千載に芳名を伝うべきなり」

涌井藤四郎のことは、「東洋民権百家伝」にも出てくるが、2ヶ月の町人自治のことは書いていない。








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