宝泉坊温泉があるあたり、土居、古市とかいわれる村は江戸時代は、土佐と伊予を結ぶ街道筋にあたり、宿場でもあったようだ。
「土佐梼原勤皇列伝士伝」には、吉村虎太郎や那須俊平、中平龍三郎たちが、伊予土居矢野方に止宿した、という記事があるそうだが、坂本竜馬もこの地の矢野家にに泊まったという話も有名で多くの古老の語り草になっているようだ。
矢野家とは、矢野杏仙という長崎で学んだ蘭医者(文化8年)(矢野家は明治のころの写真は残っているが、現在は屋敷はない)。この矢野杏仙は志士たちのシンパ、パトロンとして、この宿場を通る志士たちの援助をしたようだ。市村敏麿もこの矢野杏仙と土佐浪士西春松という人に文武を学び、尊皇にめざめたといわれる。
土佐との県境にあり、土佐浪士との交流が刺激になったようだ。
竜馬が脱藩した道は、別ルートがあるので、竜馬がここにきたのは、武市の使命を帯びて長州探索をしにいった時かもしれない。
大岡昇平の「天誅組」にも吉村虎太郎が脱藩するとき、この矢野家に泊まったと書かれてある。
画像は、宝泉坊から車で10分ほどのとこりにある天蚕センターから見た村の風景。なかにぽつんと茅葺の家があるので、あれは何の史跡?と聞くと、人が住んでる家との返事。見えるかなあ。
「土佐梼原勤皇列伝士伝」には、吉村虎太郎や那須俊平、中平龍三郎たちが、伊予土居矢野方に止宿した、という記事があるそうだが、坂本竜馬もこの地の矢野家にに泊まったという話も有名で多くの古老の語り草になっているようだ。
矢野家とは、矢野杏仙という長崎で学んだ蘭医者(文化8年)(矢野家は明治のころの写真は残っているが、現在は屋敷はない)。この矢野杏仙は志士たちのシンパ、パトロンとして、この宿場を通る志士たちの援助をしたようだ。市村敏麿もこの矢野杏仙と土佐浪士西春松という人に文武を学び、尊皇にめざめたといわれる。
土佐との県境にあり、土佐浪士との交流が刺激になったようだ。
竜馬が脱藩した道は、別ルートがあるので、竜馬がここにきたのは、武市の使命を帯びて長州探索をしにいった時かもしれない。
大岡昇平の「天誅組」にも吉村虎太郎が脱藩するとき、この矢野家に泊まったと書かれてある。
画像は、宝泉坊から車で10分ほどのとこりにある天蚕センターから見た村の風景。なかにぽつんと茅葺の家があるので、あれは何の史跡?と聞くと、人が住んでる家との返事。見えるかなあ。