虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

城川町 梼原町 草莽

2006-03-26 | 宇和島藩
今度の伊予の旅は、城川町に泊まろうと思う。

城川町は、その土地の80%が山林。宇和島藩時代は、領内を10組にわけていたが、ここ城川町は、山奥組といわれていたくらいだ。紙の原料である楮を栽培していたようだ。この城川町の南隣の村が武左衛門一揆の日吉村。武左衛門一揆は、藩の紙の専売制に対しての一揆でもあった。ここも一揆で大いにゆれたにちがいない。
また、城川町の西隣が土佐の梼原村。吉村虎太郎が庄屋をしていた村だ。

吉村虎太郎は、文久2年3月に脱藩するが、城川町土居で、1泊している。ここで吉村虎太郎を送ったのが、城川町(古市村)で庄屋をしていた芝雄左衛門(後の市村敏麿)。

できたら梼原村にも寄ってみようと思う。近そうだ。
とにかく、このへんは四国のチベットとかいわれるくらいの僻地だけど、こんな土地からも志士が出た。

吉村虎太郎が、脱藩したのも、伏見義挙に参加するため。すると、吉村虎太郎を京都に呼んだのも「虎尾の会」の主催者清河八郎といえないこともない(笑)。
実際、清河八郎と吉村虎太郎は、舟遊びをして幕吏にとがめられ、寺田屋にはいけなかった。

吉村は寺田屋事件のあと、土佐に送還されるが、再び、脱藩、今度は、天誅組の首領だ。このとき、城川町(古市村)の庄屋芝雄左衛門も、天誅組に参加するため、庄屋職を人にゆずり、名も中山登之助と変えて脱藩。だが、天誅組の決起には間に合わず、天誅組は崩壊したため、長州の忠勇隊に居候していたようだ。

天誅組には、清河八郎の影が濃い。総裁の藤本鉄石、松本なにがし(ちょっと漢字が出ない)も古い知人だし、親友の安積五郎もいる。

しかし、八郎も虎太郎も古市村の庄屋も幕末の草莽はすべて今はやりの言葉でいえば「負け組」なのかもしれない。この言葉の軽さよ。

磯崎(いさき)の墓参り 平田国学

2006-03-23 | 宇和島藩
磯崎(いさき)って知ってる?
愛媛県保内町の磯崎。佐田岬のつけねに位置する海辺の寒村だ。
来週はここに墓参りにいく予定だ。車で大阪から7時間はかかりそう。

ここは祖父が生まれた土地で、先祖はここで漁師をしていたようだ。過去帳を開くと、幕末ころは、藤五郎、宇平治などの名前が見える。

あまりに遠いので、親の墓は大阪に作ったけど、ここにも分骨している。
墓参りということで、ひさしぶりに(もう10年ぶりくらいになる)愛媛にいけるのがうれしい。

海辺の斜面に立てられた墓で、寺はあるも無住で、年中、海風にあたっている墓だが、ながめはいい。

墓に行く途中に大きな銅像が建っている。磯崎出身の二宮敬作の像だ。司馬の「花神」を読んだ人ならごぞんじの、酒飲みの、人のいい医者。シーボルトに学び、シーボルトの娘イネの面倒をみ、高野長英や村田蔵六の世話をした人物だ。「二宮尊徳を知って二宮敬作を知る人がいない」と残念がる人もいるけど、まあ、銅像が建っているのだからよしとしよう。

実は保内町には、もう一人二宮新吉という人の墓もある(宮内村)。この人の名はヤフーのネットで検索したところたった4件しか記事がなかった(それもわずかの内容)。
明治初期、農民のために裁判闘争にたちあがるも、敗訴し、責任を感じて自決した人物。地方的な事件でマイナーだから知る人がないのはしかたがないけど。
幕末は勤皇活動をするが、明治政府の洋化政策に失望した人物で、「夜明け前」の青山半蔵と同じく、平田派国学者だったと思われる。

この磯崎から大洲を過ぎてずっとずっと山奥、土佐との県境にあたる城川町にも行くつもりだ。ここには、市村敏麿といって、二宮新吉とともに農民の裁判闘争に従事した人物の墓がある。この人も平田派国学者で、幕末に脱藩した庄屋だ。物語藩史「宇和島編」で知った。でも、ヤフーの検索では該当する記事なしで、まったく無視された人物。

幕末、平田派国学を愛する人たちは(主に庄屋層)は全国から立ち上がった。これはどうしてだろう。何が魅力だったのだろう、その謎をときたいとおもいつつ、どうしてもわからないでいます。「これが王政復古?これが御維新?」という青山半蔵を代表するかれらの疑問と失望は、現代にも続いている問いではないのか。

たった2日間くらいの旅ですが、愛媛の山奥や寒村の風景をデジカメにとってきます!


100円で買える浪曲CD

2006-03-12 | 日記
100均のダイソーで浪曲CDを10枚買ってきた。広沢虎造、三上博、玉川勝太郎、浪花亭綾太郎など名人ばかりで、演目も次郎長、沓掛時次郎、天保水滸伝、め組の喧嘩・・・などなど(といっても、内容はまだよく知らない)。

10枚でも1000円。浪曲大全集が1000円とは安いではないか。得した気分だ(聞くかどうかはわからないけど)。

わたしは、浪曲はまだ真剣に聴いたことがない。聴き始めても、とちゅうで寝てしまうか、やめてしまう。ただ、浪曲を聴くと、遠い昔、テレビ放送が始まるまでの、ラジオだけだった時代の路地裏を思い出すような、なつかしさは感じる。昼下がりの路地裏で遊んでいると、どこかの家からラジオの浪曲が流れていたのではなかったか。

戦争前の一時期(昭和?)、浪曲の人気は、芸能分野ではトップだったといわれる。落語よりも演劇よりも人気が高かった。しかし、今はどうだろう。
落語、歌舞伎、文楽、能、それぞれ伝統芸能として残り、それなりにファン層もいるけど(落語や歌舞伎なんかすごい)、浪曲ほど衰退し、滅びようとしている芸はないかもしれない。浪曲ほど庶民に親しまれた文化はないのに。浪花節という言葉も死語になりそうだ。

芸人は江戸時代はもちろん明治になってもまだまだ扱いされていたけど、特に、浪曲師は乞食芸人として差別されていたようだ。三味線をひきながら謡う祭文語りや門付け芸人の流れをひくからかもしれない。

あの中国革命の志士宮崎滔天が浪曲師雲右衛門に入門したとき、妻の槌子さんの悲嘆は大きく、金を工面して夫を洋行させようとまでしたらしい。夫はあくまでも志士であってほしかったのだ。

浪曲の好きだった滔天、しかし、浪曲師としては失敗。滔天は子どもの頃から人前で演説したりするのが大の苦手で、すぐにあがってしまう気弱なタイプ(風貌からは想像できないが)。舞台は苦痛でたまらなかったそうだ。







映画「天安門」

2006-03-09 | 映画・テレビ
映画「天安門」を見た(DVDで)。1989年の天安門事件(学生たちの民主化運動とその弾圧)のドキュメンタリー映画だ。天安門運動のリーダーたちへのインタビューと当時の映像で、発端から、弾圧、関係者の逮捕まで3時間の長編だ。

この運動と弾圧は、当時、日本でもテレビなどで報道されたから覚えている。このとき、中国で何かが起きた、とはみんな感じた。これは見に行きたい!と思っていたが今日までかなわなかった。やはり見てよかった。

貴重な記録だと思う。この運動の総司令官がわずか23歳の小柄な女性だったことも知った(この女性は弾圧後、地下(あるいは国外?)に潜行したようだが)。

天安門では戦車に市民がひき殺された、といわれるが、政府側の発表では市民は無傷、天安門にたてこもった者は、反革命分子となる。実態はよくわからないが天安門にたてこもった若者の方に純粋な理想があったのはだれだってわかる。


ゲバラ青年の旅

2006-03-05 | 映画・テレビ
映画「モーターサイクルダイアリーズ」をDVDで見た。

ゲバラのポスターはいまだに人気があって、部屋にかざっている人も知っているが、わたしは、ゲバラについては何も知らない。

ゲバラは若い日に親友と半年に及ぶ南米大陸縦断の冒険旅行をし、その旅がゲバラを変える原点になったらしい。

ゲバラが医学生(ハンセン氏病専門)で、ぜんそく病みだったことも知らなかった。
いっしょに旅した女好きで調子のいい男も長い旅の終わりには少しずつ変わってくる(この人物は、まだ健在で、映画の最後にご本人が(当然、かなりの高齢)出てくる)。

旅は1万キロを超える。はじめはバイクで、しかし、途中でバイクもこわれ、徒歩になる。旅の月日、距離が画面に出、母親にあてた旅の便りなども紹介されながら映画は進む。南米の風景が珍しい。美しい。ペルーのインカ帝国まで訪れる。いろいろな人との出会いがある。

最後、ハンセン氏病の診療所にいくが、そこは、医者や看護士が住む場所と患者が住む場所は大きな川で隔てられている。夜、何かのパーティで(自分の誕生日だったか?おぼえていない)、おれは患者たちが住む川の向こうで祝おうと、ぜんそくの身もかえりみず川を泳ぎ渡る場面なんか感動的。

ゲバラってこんなに純粋で真面目な男だったのか、と新たに発見した思いだ。

若者よ、旅をしろ!(若者でなくても旅をしろ!)
テレビでは旅番組が人気で、グルメ、温泉ばかりだけど、こういう旅をしなくてはいけないよ。(もう日本では難しいか?)

原作エルネスト・チェゲバラ 制作総指揮ロバート・レッドフォード。
レッドフォードって、ゲバラのファンだったのか。

ライフ・イズ・ビューティフル

2006-03-04 | 日記
「つたや」のDVD(配送システム)で「暗殺者のメロディ」を検索したところ、在庫切れだった。この映画は昔、映画館で見た。トロツキーが出てくる映画なんて、これだけではないだろうか。

冒頭、字幕の場面では、トロツキーの少年時代の写真なども出てきたのでわくわくした。物語は、トロツキーの晩年、メキシコの要塞のような自宅で秘書の愛人にピッケルで暗殺される話だ。トロツキーにリチャードバートン、暗殺者ラモン・メルカトルにアランドロン。

トロツキーの死後、遺書が発見された。
自分の信念はいささかも変わっていないこと、もう1度、人生をやり直すとしても、生涯は同じ道をすすむこと、そして、妻への感謝の気持ちを綴ったあと、次のような文章で結んでいる。

「ナターシャ(妻)が庭からあがってきて窓を大きくひらいた。大気が何ものにもさえぎられずにはいってくる。塀の向こうに草地が緑にかがやいている。塀の上はすみきった青空だ。どこも太陽がいっぱいだ。人生は美しい。未来の世代が、人生から悪と抑圧と暴力とをぬぐいさって、せいいっぱいたのしむように」(松田道雄「トロツキー」より)

たった一人で時代に抗し、世界で最も過酷な環境の中にいたトロツキーが語る「人生は美しい」ということば。イタリアの監督は、この言葉を読んで感動して「ライフ・イズ・ビューティフル」という映画を作ったことはよく知られていますね。ナチ強制収用所で懸命に生きる家族を描いたもので、アカデミー賞を受賞しています。

「つたや」、借り放題といっても、2枚1組を配送してもらって、見て、返送するまで1週間ほどかかるので、どうもたくさん借りられるというわけでもないようだ。