虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

奥伊予 城川 竜馬もきた

2006-03-30 | 宇和島藩
愛媛県の城川町。伊予の最も山奥だから、奥伊予ともいわれる。

昔から城川といったのではなく、土居村、魚成村、それとなんとか川村(?)の、土と成と川を合体して城川町になったらしい。昨年だったか、宇和町、明浜町とかいくつかの町と合体して西予市となった。
昔から、伊予は東予、中予、南予の3つに分けられていたけど、西予という言葉にはまだなじめない。

武左衛門一揆の日吉村もいつのまにか鬼北町になっていて、土地のおじいさんは、「町長の父親は日吉村の出身だけど、町長はこの土地の出身ではないから」と町名の変更には抵抗を示していた。町村大合併、全国ですすんでいるけど、古くから自分の土地に親しんできた人や、歴史好きの人にとっても、役所の経済的都合で地名をかんたんに変えるのはどうかと思うな。

さて、この古市、ほとんど平野がなく、山に囲まれた傾斜した土地なんだけど、江戸時代は土佐と伊予、あるいは長州を結ぶ街道筋にあたり、宿場町にもなっていたようだ。いま、道の駅はあるけど、コンビニはない、パチンコ屋はない、食堂もない。宝泉坊温泉だけが人を集める場所になっているかも。

幕末時は、ここに、たくさんの土佐浪士が往来し、なかでも坂本竜馬がここで泊まったという古老の語り伝えが残っています。それは次回に。


画像は市村敏麿の墓 宇和島市内の龍光院に埋葬されていたものを故郷に移し変えたものです。先祖の芝一族とともに眠っています。村が管理していて、車でそばまでいけるように整備されています。


市村敏麿の碑文

2006-03-30 | 宇和島藩
「市村敏麿生誕の地」の碑の裏面の碑文を紹介する。
文を書いたのは、城川町史談会。おそらく10年くらい前でしょう。
読みやすくするため、句読点のみ、こちらで勝手につけています。あとは、碑文の通り。

「翁 天保十年二月此の地に生る。 十六才にして第八代古市村庄屋職を継ぎ芝雄左衛門と称す。その政治的手腕才覚に村民心服す。 二十五才の春尊皇の念止み難く庄屋職を高田氏にゆずり大和天誅組参加の為古市を出奔、京市に向うも途中病を得、志果せず野に潜伏す。 時に宇和島藩主伊達宗城、在野の賢を求め市村敏麿(雄左衛門改名)を見出し藩の要職に登用す。 維新動乱時、勅使として仙台表に七度にわたり使いする等大功あり。 後、新政府に招かれ民部省大蔵省監督権正として在任中、宇和島藩最大の規模となった野村騒動(頭首は故郷古市村中津川の旧友鶴太郎)の沈静に力をかす。後、郡衛の長となり、新政府より関東某県令への就任の内示を受ける。上京準備中、南宇和四郡の庄屋無役地返還運動はげしくなり、敏麿その総代に推され上京断念す。爾後二十余年間、十二萬農民の権利回復の為、裁判闘争の先頭に立ち、全力を尽すも時流に勝てず報われる事なく不遇の裡に宇和島須賀川の陋屋に大正七年五月七十八才清貧の生涯を閉ず。」