虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

宮脇志摩 泉殿宮

2007-02-18 | 歴史
吹田市役所の近く。
泉殿宮(いづどのぐう)。
どこに駐車場がるのだろうと、車で境内の中を進み、広くてだれあもいないので、そこに車を止め、表の鳥居を写真にとろうと外に出ようとすると、「どこに行くのですかー」と社務所から呼び止められた。
駐車場代わりにここに無断で車を止める人もいるらしい。見学です、と言うと、
OKが出た。不審者に間違えられたのかもしれぬ。

社務所でもらった御由緒にこう書いてある。
「天保8年(1837年)大塩平八郎義兵の挙あり、当宮第32代宮司・宮脇志摩は大塩平八郎の叔父に当たり、乱の首謀者として寺社方捕手役人の囲みに、この地にて切腹。課刑峻烈にして、男児悉く遠島、家門闕所となり、社運も傾くかに見えたが、明治維新と共にその義挙を認められ、流刑地に生存の遺児総て赦免・出島仰せつけられ、家門再興、宮脇志津摩・泉殿宮第33代を継ぎ、社運再び赫赫として今に到る」

大塩平八郎の父親の弟で、ここに養子にきたらしい。
大塩の門人で、決起の同志。
大塩の決起は2月19日と決められていた。その19日、昼、天満に火事の知らせに接すると、びっくりして(時刻が早すぎる。志摩は密訴者が出たため、決起の時刻が4時間ほど早くなったのを知らなかった)、槍や具足などを運ばせて渡し場までかけつけたそうだが、途中で引き返す。翌20日、玉造与力2名が22名の同心をひきつれて、この神社を取り囲む。志摩は玄関で切腹。それを見た役人たちはなにをなすこともなく立ち去る。傷は案外軽く、捕吏が立ち去ったあと、志摩は表に飛び出し、行方不明に。翌21日庄本村のため池で水死体となって発見されている。判決は磔。

大塩平八郎の乱は明日、19日だ。(旧暦だから、実際は3月8日くらいか)


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