虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

ジョセフ彦と長州

2007-10-02 | 歴史
ジョセフ彦は「新聞の父」として、日本で初めて新聞を発行した業績が第一になっているようだけど、それ以上に幕末の志士たちに与えた影響も大きいと思う。

彦の自伝には、長崎の彦のもとに、桂小五郎と伊藤博文が足しげく通って話を聞きに来たことが書いてある。桂たちは、彦に長崎における長州の貿易の代理人になるように頼んでいる。その文書も渡している。
「下記署名の長州公の役人は、藩公の代理として、本日、アメリカ市民J・ヒコ氏を任用し、日本の長崎港における藩公の特別代理人として勤務させることを約するものである」という木戸と伊藤の署名入りの文書もある。
彦は、「こうした約束のもとで2年間、何の報酬もないままに、長崎における長州の代理人として勤務した」と書いてある。
桂に頼まれて、長州に外国の薬剤師を派遣したり、伊藤を外国軍艦に乗せてやったり、いろんな世話をしている。

しかし、長州の維新史においてジョセフ彦の功績などはおそらく無視されているのではなかろうか。藩士ではなく、ましてやアメリカ人になった漂流したもと船乗り。さすが伊藤はやさしく、兵庫県知事になったときには、彦が故郷に帰るときに世話をしているが。桂は彦のことはすっかり忘れているにちがいない。

桂や伊藤に彦に会えとすすめたのは、竜馬ではなかろうか。竜馬の名は彦の自伝には出ていない。しかし、自伝を書いたのは明治20年代だから、このころは、一般にも竜馬の名は忘れられていたのではなかったか?

竜馬と彦の関係について書いてあるのは、田中彰「開国と倒幕」集英社版日本の歴史15巻だけだ。何の確証もないらしいが、「もし、このジョセフと龍馬との関係が確認できれば、竜馬の国家構想の発想や行動様式にヒコが何らかの影響を与えている可能性も十分考えられる。今後の興味深い課題といえよう」と書くのみ。

彦は英語は達者だったが、少年のころにアメリカに渡ったので、日本語(漢字)で文章を書くことが不得意だったらしい。そのためもあってか、日本政府で働く事は困難だったのかもしれない。

画像は、播磨町の蓮花寺にある彦が建てた両親の墓。裏は、英文で記してあり、横文字の墓として知られる。

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