虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

自生自化

2009-03-03 | 読書
自ずから生まれ、自ずから変化する。荘子の言葉。生も変化し、死も生の変化した形、荘子は、生をよしとし、死もまたよし、とする。荘子は、短命を悲しまないが、長命を喜ぶこともしない。命を大切にするが、特に、仙人のような長命を求めることもしない。

人間関係に対するには、論語なども参考になるけど、こと、個人の生死に対するには、やはり荘子が魅力だ。

老子は、短すぎる。ほとんど無口で、まるで仙人に対するよう。
ところが荘子はちがう。親しくしゃべりまくり、語りかける。文章は、老子、論語、孟子よりも多い(内篇、外篇、雑篇を含めてだけど)。説話あり、たとえ話あり、哲学話あり、ほら話あり。何度も何度も語ってあきることがないようだ。

しかも、これほど、貧しいもの、醜いもの、身体的に障害のある者、差別される者、大工や漁師など貧民を主役にした古典は、世界にないのではなかろうか。世界で最初の貧しい者のための書ではないのか。

荘子自身も、ちらちらと顔を出すのがおもしろい。後人の空想なのかもしれないが、荘子が貧しく、裏長屋のあばらやのようなところに住み、いつも粗末な服を着て、顔色もあまりよくはなさそうなこと。栄養がよくて太っている感じではない。堂々とはしていない。妻がいて、子供もいたようだ。一時、畑の管理人みたいなことをしていたが、その後は、草鞋を編んで生計を営んでいた、なんてことも想像できる。親友もいた。妻が死んだときは、歌をうたっていたので、親友からたしなめられたりする。

荘子には、聖人や教祖にはなりえない、生きている個人を感じる。孔子や老子、あるいはブッダさんのように祭られることを拒否する庶民性個人性がある。とても国からは崇拝はされない存在だろう。真理は糞小便の中にある、といったり、為政者、学者を徹底的に批判する自由な平民なのだから。

2000年以上前に、こんなヤツがいたのか、すごい、と改めて思っている。
荘子の銅像は中国には建っていないのだろうか?
わたしのイメージでは、もし銅像を建てるとしたら、老子のような老人像ではなくて、40代50代のイメージなのだが。