散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

「玉音放送」の意義と「終戦」の意味~象徴天皇制・戦争放棄規定への道

2014年08月24日 | 歴史
日本でのラジオ放送は1925年7月に開始され、受信機の普及と共に、音楽、演芸、スポーツ中継、ドラマなどの多彩なプログラムを提供し、娯楽の主役となった。更に、1941年の太平洋戦争開戦後は、戦局進行と共に大本営の機関と化し、戦況発表及びプロパガンダ番組が終戦まで続いた(Wiki)。

大本営の機関化したラジオ放送による情報の直接的供与と、米軍による空襲の日常化による罹災者の発生は、島国に住む一般国民にとって、戦争に直面するという意味において、これまでにない戦争体験となったはずだ。
 『米軍空襲による惨状を描いた 詩 「戦場」130815』

政府がポツダム宣言を受入れ、無条件降伏することを国民に知らせるのは、本来、首相で良いはずだ。しかし、政府そのものが実質的に崩壊し、天皇が最終の意思決定を行った以上は、国民的納得を得るには天皇をおいて存在しなかった。ラジオというメディアが発達していなければ、天皇の肉声という直接的通知はなく、新聞号外のお知らせになったに違いない。
 『敗戦の日と終戦の日の違い130820』

この記事に書いたように、政府・軍にとって敗戦であることが、天皇を介することによって、「耐えがたきを耐へ、忍びがたきを忍び」という情緒的説得によって、国民に知らせることにより、民間人であり、戦争の被害者であった一般国民は敗戦ではなく、終戦を切実に実感することとなった。

更に、玉音放送は、天皇が日本政府のとって最高の権力者であると共に、国民に対しては“権威者”、ここで権威とは発信者(天皇)のメッセージを受信者(国民)がそのまま受け入れること、として振る舞うことを示した。

ここに、後の日本国憲法における“象徴天皇”の下地が形成されている様に思える。日本は1925年に成人男子による普通選挙が実施され、民主主義の素地があることは確かであった。しかし、天皇の処遇は、旧体制側の国体護持へのこだわりも残って、最大の政治問題として関係者が意識していたはずだ。

玉音放送に対する国民的受諾は、必ずしも天皇の言葉に納得というわけではなく、一つは軍ファシズムからの解放感、もう一つは日常生活に浸透した死の恐怖からの開放感に基づいた感情の様に思われる。

その間の事情を、永井陽之助は『解説 政治的人間』(「政治的人間」所収1968)において、坂口安吾「堕落論」を引用しながら、以下の様に表現する。

「正直なところ、大多数の日本人はホッとしていた。安吾が、「運命に従順な人間の姿は奇妙に美しい」という言葉で表現する様な焼け跡の中で、食べるものは乏しくとも、一種の開放感と、無所有の自由、平等感がそこにはあった。それは永遠の庶民が持つ被治者的安定への回帰から生まれる、やすらぎであった。」

「緒戦の勝利の興奮と陶酔がさめて、戦時経済の重圧と、空襲、強制疎開等の、私生活そのものの戦争化が進行するにつれて、庶民の意識には、一種の無関心、買い溜め、買い漁り、サボタージュの形で終戦はすでに始まっていたからだ」。

この様に、一般庶民が、生活体験から日本政府の降伏を、「敗戦」とは考えずに「終戦」と実感したことは、後の日本国憲法における“戦争放棄”の下地が形成されていたことを示している様に思える。

以上に述べた様に、玉音放送が天皇の権威と戦争に対する庶民意識とを結びつけたとも解釈できる。
また、その後のいわゆる人間宣言のなかで、天皇は五箇条のご誓文を入れたことを、「日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す」との目的と述べており、戦前の政治体制を批判する立場を取り得ることを示唆している。

その後も昭和天皇の姿勢は現天皇に引き継がれ、自民党政権が現憲法を批判し、改憲を狙う立場を鮮明にするなかで、現憲法を擁護し、その明治憲法との連続性を指摘する立場に立つという、非政治的立場にありながら、政治的に極めてユニークな存在になっている。それが、非政治的存在としての権威を纏って存在することもまた、興味深い。