散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

村上泰亮「生涯設計計画」1975年~三木内閣の基本政策案

2014年08月20日 | 歴史
田中内閣は、輿望を担って佐藤政権を引継いだ(72/7)。日中国交回復(72/9)によって政権は出発したが、列島改造ブームによる地価急騰で急速なインフレーションが発生し、影を差し始めた。
 『成り上り者としての日本1973年140619』

続けて、第四次中等戦争(73/10)による第一次石油危機の勃発により、相次いで発生した便乗値上げ等により、さらにインフレーションが加速、1974年における国内の消費者物価指数が23%上昇、狂乱物価と呼ばれた。

更に、角栄自身の金脈問題によって田中政権は脆くも崩壊した(74/12)。その後を、椎名裁定によって引き継いだ三木武夫は、佐藤栄作までの高度経済成長政策、それに続く、角栄の日本列島改造論に変わる新たなビジョンを提起した。

それは経済学者・村上泰亮を中心に起案した「生涯設計<ライフサイクル>計画」であり、本記事では村上らが執筆した「生涯設計計画」(日経新聞社1975)をもとに、その骨子を紹介する。
次回に、総論を執筆した村上と成熟時間の問題を提起した永井陽之助の「中央公論1975/11月号」誌上での対談を紹介する。

当時、公害だけでなく、人口移動、情報化等の高度経済成長による歪みが、社会に強く意識される一方で、その高度経済成長により、先進工業国家の仲間入りを果たし、米国からは競争相手とみられるようになった。その状況は“ふるさと喪失”と“国際化の波”という言葉で表されていた。
 『イメージギャップの中の日本040614』

一方、世界も転換期にさしかかっていた。
ローマクラブが資源と地球の有限性に着目し、MITのデニス・メドウズらに委託した研究「成長の限界」は1972年に発表され、それは「人口増加や環境汚染などの現在の傾向が続けば、100年以内に地球上の成長は限界に達する」と警鐘を鳴らしている。

もちろん、ニクソンショック、オイルショックは現実の構造変化の結果であり、恐らく、田中から三木への変化は田中個人の金脈問題を越えて、それらの構造変化に田中は耐えられないとの国民的判断が基盤にあったように推察する。

そこで、「生涯設計計画」の冒頭は「国民はいま転換を求めている」で始まる。それは福祉国家への転換であり、それを生涯の各段階で体系的に保障し、各人が生きがいを追求することを可能にしようとする。

そこで目指す人間像は「強く、安定した、自由な個人」である。
生涯を通じて安定した生活が保障されることにより、各個人が長期的な判断のもとに、社会的連帯を重んじ、正面から課題に立ち向かい、自らの生きがいを追求していうことが期待されている。

その柱として、誰でも、
1)どこでも、いつからでも始められる教育制度
2)努力すれば、家を持てる制度
3)ナショナル・ミニマムを得られる社会保障制度
4)安心して老後を送れる社会

以上を国として満足させるようにし、後は強い個人がそれぞれの目標を追求することになる。但し、この計画に関して、官房副長官を長とした連絡会議が発足したが、目立った成果はなく、三木首相の退陣と共に立ち消えた。

提言である以上、学者を中心とした記載であっても平板であることは免れない。それでも、その時代の雰囲気を反映しながら、個人に立ち戻って、その生涯を貫通する計画を立案したことは、おそらく、日本政府にとって初めてのことと思われる。従って、その意義は大きいと言えるだろう。

…40年後の現在、この計画を読むと、特に奇異なこともなく、当たり前のことを書いてあるように思える。…では、曲がりなりにもこのビジョンは各個人の掌中に収まっているだろうか。そして、社会的連帯は重んじられ、強く、自由な個人として各々が活動しているだろうか。疑問も次々と湧いてくる。

その評価は個々人の問題になるが、当時、二十代であった筆者が生活上において強く意識したのが家を持つことだった。政府の政策に関心を持たない若い世代であっても、自らの家を持つことを意識していた人は多かったと思う。その意味では時代を鋭く捉え、その視野を広げた点で、後世に残る成果物と評価したい。


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