散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

マイペース・希望的観測・金縛り~W-cup・ギリシャ戦のサムライ・日本

2014年06月20日 | スポーツ
日本は一生懸命に戦った。
後がない、という決まり文句のもとで、コートジボアール戦の“反省”をもとに、自らのサッカーを目指して日本チームは戦いきった。NHKでは解説に岡田武史、山本昌邦を起用、日本チームの指導に責任があったふたりで“自らのサッカー”のできを評価しながら実況をしていた。


上の写真は試合後引き上げる日本チームの姿だ。その記事では水沼貴史が「勇気なかった日本」との題のもと、ザッケローニ監督の采配への批判を含めて、問題点を指摘している。

マスメディアの論調は似たり寄ったりで、日経新聞に掲載された清水秀彦「日本の覚悟 伝わらなかった」、宮本恒靖「リスク冒す勇気 必要」も題名からその内容が推定される。水沼も含めてキーワードは「勇気・覚悟・リスク」である。

では、結果の批評ではなく、試合そのものでの、当事者になったつもりでの批評はどうだったか。岡田、山本両氏は何を考えて解説をしていたのか。先ず、開始早々からパス回しは“マイペース”で順調にできた。ふたり共に、コートジボワール戦とは見違えるようで日本は好調との雰囲気作りに励んでいた。

それでも一進一退は続き、香川を退けて初先発になった大久保も、意欲満々でドリブル、シュートを仕掛け、ファールをとるなど、日本の中では存在感をしめしていた。そして、前半の後半に、ギリシャに退場者が出た。日本は絶対の数的優位に立って、ギリシャを追い詰める体勢になった。

しかし、後半のキックオフ、ギリシャはGK川島が中盤あたりに残っていた隙を突いて、そのままシュートした。ゴールを少し外したが、そのままゴールに飛べば不祥事の一点を献上し、W-Cup史上に残る椿事であったに違いない。

これには、岡田はコメントせず、山本が少し反応した程度であった。しかし、筆者はこれをギリシャの強いメッセージと受け取った。それは、隙があればいつでも点を取りに行くぞ、ということだ。現場の選手も、そう感じたに違いない。

後半の前半も日本のペースは続くが、ギリシャも引くだけではなく、ボール奪取後の速攻、セットプレーでは執拗に体を張ってのプレーで得点を狙ってきた。筆者の見立ては、数的優位の日本は、“マイペース”のパス回しは出来るが、ひとり少ないギリシャの少ないチャンスに対する積極的な奮闘が目立っていた。

日本のボール支配の割にはチャンスが少ないに対して、アナが「日本の優位を得点に結びつけるには、現状のやり方の他に何が必要か?」というような質問をした。これに対して岡田は「今まで通り、同じことをやれば良い」と強調した!「そうか、そうなのか、当事者の考えは!」、テレビを見ていた筆者の感想だ。

当事者は優位な状況において、“希望的観測”に支配されるものだ。このまま進めば何とかチャンスはできる。そこを決めさえすれば!と考えてしまう。山本も流石に岡田に逆らえないのだろうか、「同じことを繰り返すことで良い」と同調した。この同調も日本チームの先を暗示しているかのようだった。誰も何も言えず、状況に押し流されていくのだ。

内田が前線に出てゴールを横切るパスを出した時が唯一のチャンスだったか。それ以降は確かに仕掛けがなく、クロスボールのギリシャの高さを崩すことはできなかった。時間が切迫し、残りの一枚のカードの使い方、香川のドリブルによる仕掛け等の話が山本、岡田で交わされるようになった。

しかし、当事者は簡単に希望的観測を捨てることはできない。逆にそれは気持ちの中に固着して、“金縛り”状態になるのだ。これこそが実戦心理であって、岡田、山本が時間の切迫を感じて解説で述べた選手起用、プレーの工夫は局外者の気楽な批評の域を出ない。まして翌日の水沼、清水、宮本は論外だ。

ザックは吉田を最前線に上げて、クロスボールで臨むのが精一杯であった。それでも選手は日本流に“一生懸命”やったのだ。

      

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