散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

新たな分野を切り拓くノーベル文学賞~平和な、余りにも平和な日本

2015年10月09日 | 文化
2015年のノーベル文学賞は、ベラルーシの作家でジャーナリストのスベトラーナ・アレクシエービッチ氏(67)に授与された。授賞理由は「様々な人々の声を同時に響かせた、苦難と勇気の記念碑となる作品」とのことだ。

アレクシエービッチ氏=ロイター

ジャーナリスト活動の傍ら執筆した「戦争は女の顔をしていない」(85年)、「アフガン帰還兵の証言」(89年)、「チェルノブイリの祈り」(97年)は人々の声を集めて作品に仕上げる聞き書きの手法であり、ノンフィクションそのものだ。

これまでの文学賞の分野は、当然ながら小説を中心に、戯曲、詩であり、僅かな例外として、1953年受賞の英国元首相・チャーチルの「伝記」がある。しかし、今回の受賞は例外では無く、今後も続く新たな潮流と考えられる。

統合欧州に雪崩れ込むイスラム難民に象徴される様に、国境を超える機構の発展と広く住民を巻き込む戦乱の拡大がクラッシュする世界、これが現代世界の一面だ。その中で、多くの人々はサイレントマジョリティとして生活する。

しかし、一人ひとり、その声を聴こうとすれば、多くのことが語られるであろう。それを集めてモンタージュ写真を作るように構成していけば、現実の像が描かれる。そんな手法の様に思われる。日経の「私の履歴書」のようなサクセスストーリーとは真逆な方向においてだ。早速、図書館で借りて読もう。
処で、日本ではアレクシエービッチに匹敵する業績を挙げた方はいるだろうか?

ノーベル文学賞として近年、話題に登るのは、村上春樹だ。昨日のNHKニュースでも候補者のひとりとされていた。しかし、そのニュースでの紹介で「ベストセラー作家」と呼ばれていた。「こりゃダメだ!」というのが筆者の直感であった。別に、ノーベル賞を取るかどうかではない。この様にしか呼ぶことができない作家が、どんな価値を体現しているのか、と感じたからだ。

ハルキストと呼ばれる一群の人たちがいるのは特に関心は無い。しかし、騒ぎに便乗して、これをマスメディアがニュースに取り上げることを訝しく思うだけだ。

筆者は今、中上健次が存命ならば、と思うのだが。その文体は聴き語り風な表現も入れて、未だ読んでいないアレクシエービッチに似た処があるようにも、勝手に想像を膨らましている。

しかし、毎年のハルキ騒動が次第にマスメディアによって増幅される様にも感じて、安保法制の騒ぎと?がり、頭の中でシンクロナイズしてくるのを打ち消すことができない。平和な、余りにも平和な世相の中で、次第に閉鎖的な世界が作られ、その中で踊っているうちに、「ふたりのために世界はあるの」の状況に陥るのではないか。その頂点が2020年のオリンピックだろうか。

      

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