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in Switzerland  酪農場の国にて

ただいま、復興支援中。
このブログは著者の恩師・知人・家族への近況報告です。

入らない

2011年06月27日 | Haiti
現場から錠前が仮設住宅の玄関の留め金に入らないと苦情が来る。錠前はコンテナにもついてそうな頑丈な物やのに、留め金の方があまりにも貧相。もう7千戸も建てたからと気を許しているわけではないのだが、納入業者には油断もすきもあったものではない。

夢のまた夢

2011年06月21日 | Haiti
Port au Princeから西へ、出張でPetit Goaveに向かう(写真)。道中の車中でうとうとして、ふっと顔を上げると、スリランカ国内を北東部に向かって走っていることに気がつき、「今までハイチで経験したことは全て夢だったのか」と思っていると、運転手が違う。実はハイチだった。

最近、身の回りでスリランカのことばかり話題になっていたので、こんな変な感覚に陥った。

1周年

2011年06月15日 | Weblog
スリランカのコロンボで、自宅と会社の送り迎えを頼んでいた元運転手Hと久しぶりに電話で話した。4年以上もほぼ毎日働いてもらって、現地で出会った中で最も信頼のおけるスリランカ人だった。ハイチの生活はどうか、人々は親切かと尋ねてくる。そういえばスリランカを旅立ってから今日でちょうど1年だった。もう何年も前のことの気がする。

その運転手Hの稼いだ当時のお金の大半は、心臓を患う母親の治療費、妹の看護学校費用、弟の高校の教材費などに消えたとスリランカ出国前に聞いた。彼はそんな状況でも、ローンで買ったオート三輪の返済を約3年で終えた頑張り者。私も陰ながら支えたのだが、結局こっちの方がいろいろ助けてもらった(入院時とか)。

借金の形に

2011年06月10日 | Haiti
うちの部署によって、もうすぐ7,000棟の仮設住宅が完成する。住宅の引渡し後、数ヵ月たってからうちの事後評価チームが全住戸を回って、きちんと住んでいるか、住宅の不具合はないかチェックする。数は多くないが、様々なことが起こっており、彼らの生活の困窮さを知ることになる。

今日スタッフが報告した例は、仮設住宅に移った後に旦那が亡くなり、その仮設住宅が建つ敷地の所有者から未亡人が借りた葬式代が払えず困っているというもの。仮設住宅はその遺族の所有なので、仮設住宅を借金の形にしたらしく、借金が返済できなければ出て行かねばならない。現金収入のない被災者にとって、期日までの返済は難しいようだ。

入居後の被災者と地主のやり取りなので、正直なところ、うちの機関が間に入ることは難しいというかUnfairになるので、弁護士スタッフに知恵を借りて、力添えができるかどうか検討した。

その話題から、葬式代がいくらか、謝金をしてまでなぜ葬式をしたのか、とうちのスタッフ間で議論が展開した。ザンビアのM姉さんは故郷で闘病中だった姉をこの3月亡くしたばかり。親戚や地域の慰問客全てに食事を振舞うので、とんでもない額になるという。

遺体を弔うお金を工面するために、遺された子供らが生活する住宅を抵当(mortgage)にする是非について意見が分かれた。


(写真は内容と関係ないのだが、仮設住宅地のまわりで遊ぶ子供ら。後ろの子はフルチンで走り回っていたので、カメラを向けるとすかさず友達の背後に隠れた。そのユーモラスさにこちらまで笑みがこぼれる。)

スタッフ紹介 ~ 運転手

2011年06月09日 | Haiti
うちのハイチ事務所には雇用している運転手が50名ほどいて、その中でも写真のメンバーが主に仮設住宅事業担当。さらに英語で何とか意思疎通ができる運転手が、フランス語ができない自分のような外国人を担当する。でないと、行った先で迷子になる

運転手らは、待ち時間の談笑や様々なスタッフとの車内での会話を通して、ひそかに一番の情報通である。なので、彼らに嫌われると終わり、と言ってもよいぐらい仕事に差し障る。まさか聞いていないだろうと思って、移動時間を使って車内でうっかり繊細な話題を電話で話すと、情報が筒抜けになったことがあった(スリランカでの話)。

ハイチでは他団体の話であるが、まとまったお金を持参して外出した時に強盗に襲われるのは、運転手などの身内が絡んでいることが多い。また自宅の場所を知られると、近辺での誘拐事件に巻き込まれたりするので、本当に信頼できる運転手が担当でないと気が休まらない。幸いなことに、写真の運転手はいい奴ばかりで(と信用しすぎても危ないのだが)、気持ちよく仕事ができている。

車内のオーディオでどこからか入手した英会話CDを待機時間にこっそり聞きながら勉強している姿を見ると、自分もフラ語を頑張らねばと(一瞬だけ)思う。

慟哭のハイチ

2011年06月04日 | Haiti
『慟哭のハイチ 現代史と庶民の生活』を読み返した。
佐藤文則著(凱風社、2007年7月)
ISBN978-4-7736-3107-4 C0022

滞在期間が通算1年をすぎ、わかった気になっていたハイチのことを、まだまだわかっていないことに気がついた。不便さやフランス語の壁を言い訳に、この国のことを理解しようとしていなかったんやなと。

定職に就くことがどんなに難しく、収入を得るためには何でもする気でないと、生活していけないのだろう(写真:路上のごみ山のすぐ横で商売する人々、筆者撮影)。そう考えると亡くなったDを採用した自分は彼にチャンスを与えたことになるのか。何とか労災がおりたので、遺族のしばらくの生活費となることが彼の生きた証となるのだろう。

日本で震災が起こった後のお見舞いも、今回の捻挫後のハイチ人たち(通りすがりの人でさえも)の気遣いも、それを気づかせてくれる。マイナス面ばかりを見てきたが、ハイチのいいところも記していこうと思う。

災害復興

2011年06月01日 | Weblog
これまで活動してきて思うのは、途上国に限らず、災害復興にはものすごいお金が瞬時に動くこと。そりゃあ壊れた物を建て直すにお金がかかるのは当然のことなのだが、そのプロセスの中に身を置きたい権力者がたくさんいる。復興計画の内容よりも、その利権にまず興味がいってないか、被災者・地域を後回しにしていないか、強く疑問に思う。

地震による死者数

2011年05月31日 | Haiti
ハイチ政府発表による死者数約31万人(25万人から2011年1月に上方修正)が、大げさじゃないかという報告書がまとめられつつある。まだ草案段階らしいが、どう見積もっても8万人ほどだという。

U.S. report: Haiti quake death toll exaggerated (CBS News)

数自体を議論しても、犠牲者や被災者が報われるわけではないのだが、とりあえずこの数にしとけみたいな姿勢が政府側にあったのであれば(経験上大いに考えられる)、彼らが関与した全ての資料や発言に対する信憑性が失われる。被害の規模を大きく報告してより多くの支援を受けようとも考えたのだろう。

さらに、上記の犠牲者数を今まで認めてきたUNや国際機関の姿勢にも問題がないとは言えず、今後しばらく議論されるだろう。

ぐねった/sprained

2011年05月30日 | Haiti
週末に右足をぐねってしまい、UN診療所へ。レントゲン写真も撮ってもらい、骨には異常なしの捻挫だった。かなり腫れて痛みが伴うので、痛み止めの注射をしてもらった。患部付近にするかと思いきや、ズボンを下げてくださいと尻への注射。知り合いが非番で良かった。

事故が起こるときは、たいてい3つ以上の要因が重なるという。挙げてみると、
1)酔っていた
2)階段の段差が不均衡だった
3)初めてに近い(不慣れな)場所だった
4)電灯が停電で消えていた

まあ、不注意と言えばそうなのだが仕方ない。久しぶりの松葉杖生活に、うちのスタッフの手厚いサポート(送り迎え、食糧配給等)を受け、2週間ほどペースダウンの生活を送ることになる。

昔とった杵柄?

2011年05月27日 | Haiti
金曜の夕方ということで、職場の連中らと簡単な飲み会の後、珍しくクラブへ。奥の方にあって前から気になっていたビリヤードを、同僚パキスタン人Wとすることに。久しくやっていなかったが、高校のときに先輩の手ほどきで毎週やっていたので、それなりに思い出してくる。

ルールは日本の『8ボール』と同じようなもので、2チームに分かれて、各々単色(1~7)か縞模様(9~15)をポケットに落とし、最後に黒8を落とした方が勝ちというもの。新参者であったのに、台を囲んでいる強面なハイチ人たちは、とても親切だった。

最後の方は1週間の疲れが出たのか、音楽がガンガンかかっているにもかかわらず、順番を待っている間に寝ていた。

事業延長申請

2011年05月25日 | Haiti
仮設住宅建設事業の進捗状況が遅れ、締切日までの全戸完成が危ういので、ドナー(支援国、支援者)へ事業延長願届を出す、その書簡の下書きをする。

だいたいフォーマットが決まっているので、あまり考えずにぱぱっとやって上に送ると、"No cost extension request(予算額内で実施期間のみ延長願い)"と書くつもりが"No extension request(事業延長なし願い)"となっているとの指摘が。思い切り間違えた。

マスコット

2011年05月23日 | Haiti
ザンビア出身の同僚が、鶏肉はもう飽きた。ヤギ肉が食いたいと、現場の帰りにヤギを買ってきたのが1ヶ月ほど前。彼女はヤギを太らせてからBBQにしようと目論むものの、何人かのスタッフがご飯を上げたり水をやったりするうちに、情が移り、結局このまま敷地内で飼うことに。仕事の合間に動きを観察していると、なかなか面白い。紙を食べるかと思い、やってみたがそっぽを向かれた(写真)。

一生懸命

2011年05月16日 | Haiti
Port au Princeの空港に降り立ったとたん、もあ~っとした熱い空気に包まれ、あーハイチに戻ってきたなあと実感する。例のごとく楽隊が到着者をお出迎え(写真)。震災から1年以上たっても一向に修繕されようとしない空港設備を脇目に、ハイチ一般人の前向きさを見て何だか感心してしまう。

NY散策

2011年05月15日 | United States


乗り換えの都合で、ニュー・ヨークで一泊する。元後輩のNYっ子(New Yorker)に半日案内してもらうと、思いがけずいろんな物が見られて堪能する。写真はCooper Unionの学舎。モーフォシスのThom Mayne氏設計で2009年竣工。未だこんなデザインが熱いのだろうか。

夕食にはもちろん日本食を希望し、East Villageの『横丁』という居酒屋に連れてってもらい、久しぶりの再会を祝う。厨房にも店内にも日本人スタッフが半分以上いて驚く。海外の日本食屋でこんなに日本人率の高いのは初めてだ。NYだからだろうか。



味もよく、今回の旅行の良い締めくくりとなった。

白杖を持った人々と。

2011年05月14日 | Switzerland
昼過ぎのパリの地下鉄のホームで、白杖を持った女性に声をかけられ、応えようとするのだけれど、自分の乏しいフランス語に加えて、地下鉄の路線そのものがわからない。代わりのパリ人を探そうにも、なかなかつかまらず、「ごめんなさい」して、その場を去った。

深夜2時過ぎのジュネーブの街をホテルに向かって歩いていると(プレゼンが無事に終わって飲みに出た)、白状を持った大学生くらいの男性に声をかけられた。フランス語は無理だとわかると会話が英語になって、友達とはぐれて今どこにいるかわからない、という。かなり酔っている。ほっといても、時候がよいので凍死することはないだろうと思いつつも、そいつに自分の腕を持たせて地元の人が居そうな場所を探して歩く。結局、そんな時間に開いてたのは"Cabaret"という名前の店で、その前で客引きをしていたおっちゃんに事情を説明して、呼んでもらったタクシーで帰らせた。

ハイチでも白杖をついた人を見かけるが、自分は必ず車で移動しているので(安全のため)、普段は接する機会がない。