朝顔

日々の見聞からトンガったことを探して、できるだけ丸く書いてみたいと思います。

インド:ヴァイシャーリー

2011-09-20 | インド仏教研修2011
北インドの農村地帯をバスの車窓から眺めます。

新しくて派手な看板の多くは、携帯電話会社。数社が宣伝を競っています。こんな田舎の村にも。



村はずれや街道の周辺には、無線の鉄塔が目立ちます。



ケータイ電話の普及は急速で、売り上げが伸びるので宣伝や設備投資が成長している様子がうかがえました。

頭髪をすっぽり隠し、目だけをスリットで開けている二人の女性、イスラム教徒です。その割には衣装の柄が派手です。




さて、ヴァイシャーリーに到着です。

釈尊はしばしば商業の栄えたこの町を訪れて逗留されました。評判の高かった娼婦アムラパーリからマンゴ果樹園の寄進を受けたり、猿の群れが釈尊の鉢に密を与え供養したことなどの伝説があります。

古いストゥーパ、アショカ王石柱、猿が掘った池などが見られました。





かつてはマンゴ果樹園が広がっていたのでしょうが、現在その遺跡の周りにあった果樹はライチでした。

見学を終わりバスが出発してすぐに、集落の中の狭い道路で停車しました。運転手が向こうから来るバイクやトラックと話をしていましたが、突然Uターン。この先の道路で死亡交通事故があったため、村人たちが一斉に出てくるだろう、そのため何時間か道路が通れない。近くに大型車の通れる迂回路はないとのことで、幹線道路で大きく迂回することに。



車窓から村の人々の生活を見ていると、まったく見飽きませんでした。この写真は、路上の散髪屋。髭を剃ってもらうのが庶民の大いなる楽しみのようです。いろいろな場所で見かけました。


その後バスで何時間か走って、ガンジス河を渡ります。とても川幅が広い。



橋を渡りきるとビハール州の州都の大都会、パトナでした。ここに宿泊します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インド:クシーナガラ、涅槃堂、ラーマバル塚

2011-09-19 | インド仏教研修2011
ネパールから再度インドに戻り、進路を南東にとりました。

釈尊入滅の地クシーナガラを訪れました。四大聖地のひとつ。ワラナシ(ベナレス)の北150kmの地にあます。



白い涅槃堂の中には、横たわった涅槃仏があります。



我らが参詣する直前に、どこかの巡礼の家族が読経をして、このオレンジ色の布を仏像にかけていきました。





足の裏には、法輪が印されていました。



ここにも、スリランカからの巡礼団が参詣していました。



門前にいた少女たち。楽器を使って読経を披露しています。少しチップをあげました。



涅槃した後、お釈迦様を荼毘に付したラーマバル塚は近くにあります。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルンビニ2

2011-09-18 | インド仏教研修2011
いよいよ、ルンビニ聖地に参詣です。ホテルを朝早く出発したので、まだ見学者はほとんどいません。

暑いけれども、爽やかな朝でした。



左手の白い建物は、発掘された地下遺跡の覆堂。

この石の円柱が、実は、重要な遺跡でした。

この石柱には、かすかに、でもはっきり読める文字が彫り込まれています。私の写真は撮り方がへたで、文字がきれいには写っていませんが。



この石柱の碑文が発見され文章が解読されたことから、仏陀の実在が証明され、またこの場所が生誕地ルンビニであることがわかりました。

”碑文には、「アショーカ王は、即位二十年をへて、自らここに来たり、親しく参拝した。ここでブッダ=シャカムニが誕生せられたからである。それで石で馬像を造り、石柱を造立せしめた。ここで世尊が誕生せられたのを記念する為である」とある。”(引用:http://kawai51.cool.ne.jp/i-a'soka.html)

仏陀の死後、200年余を経た後、マウリア王朝第三代アショーカ王が仏教を崇拝し、その遺跡を巡礼し、仏教施設を整備しました。現代では、そのおかげで多くの遺跡が碑文という形で2300年以上を経て理解できます。

文字という情報記録手段の偉大さ、人類が文字を発明したことの重要性を再認識しました。実は、これまで情報科学の導入授業で、古代文字の文明的重要性をロゼッタストーンの例(発見とその解読)で説明していましたが、来年からはこのアショーカ王の円柱碑文も使うことにしましょう。

白い建物の中には、地下遺跡がそのまま展示されていました。撮影禁止のため写真記録はありません。



建物の外に出ると、池と、大きな菩提樹があります。

"釈迦は、母親の摩耶夫人(まやぶにん マーヤー)がお産のために実家へ里帰りする途中にルンビニ(藍毘尼) の花園で休んでいた時に夫人の脇の下より姿を現し誕生した。釈迦はこの世へ出てすぐに七歩歩いて右手で天空を指し左手で大地を指して「天上天下唯我独尊」と声を出したと言う。生後一週間で生母は亡くなり、母の妹、摩訶波闍波提(まかはじゃはだい、マハープラジャパティー )により釈迦は養育されたという"(引用:Wikipedia)

この池は、仏陀の産湯として使われたとされています。



仏陀はこの菩提樹の下で誕生したのでしょう。

ネパールの僧侶が信者さんに祈りを授けていました。



各国からの信者団体が、旗を持参して聖地の周りに張り巡らせています。

我らグループが、アショーカ王の円柱の前でお勤め(読経)をしているあいだに、参詣者が増えてきました。

聖地の菩提樹の落ち葉を拾って、押し葉にして頂いて帰りました。


~~

"アショカ王の石柱は、1896年にドイツ人の考古学者フューラーによって発見されました。紀元前249年にマウリヤ王朝のアショカ王がこの地を訪れたときには、ルンビニは大きな村だったと云われています。ここで見つかったアショカの石柱には「神々に愛でられしアショカ王が即位20年の年にこの地を訪れ石柱を立てた旨と、釈尊の生誕地であるこの村は免税され8分の1のみの納税で許される旨」が刻まれています。当時は4本の石柱が立てられ、その柱頭には馬像があったと云われていますがその馬像は見つかっていません。玄奘三蔵もこの地を訪れており、この柱に雷が落ち3つに折れたと記録しています。"
引用:http://nepaling.zening.info/lumbini/asyoka.htm
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネパール:ルンビニ

2011-09-17 | インド仏教研修2011
ネパールと聞けば、エベレストやヒマラヤ山岳をイメージします。しかし、同じネパールでもインドに近い南の地域は、標高が200メートル程度です。高山からの地下水があり豊かな農地が広がっています。ここからのヒマラヤ眺望は、空気の澄んだ朝に時に遠望できるそうですが、この日は見えません。



国境の町から車で30分くらいの「ルンビニ」に泊まりました。日系ホテルが2軒あり、いずれも高級ホテルです。



その一つ、ルンビニ・カサイ・ホテルです。この時期はまだオフシーズンですが、10月以降の乾期で気温が下がるハイシーズンになると価格は跳ね上がるようです。



名物の「エベレスト・ビール」です。味は普通のラガーでしたが、ヒマラヤからの地下水で作られていると思うと感無量。




この国境の道路には、大型トラックが通関のため列をなしています。ガイドにその理由を聞くと、「ネパールは、自由貿易制度を取っていて関税などの物品税金がないので、セメントの価格が安い。インドは物品税や消費税が高いので、ネパールでセメントを買ってトラックでインドに運ぶと儲かる」とのこと。ネパールからインドに通関する時の税金はどうなのか、それを払っても安いのでしょう。間接的に、インドがネパールの産業を支援しているのかもしれません。

朝6時半に出発し、ホテルからバス10分でユネスコの世界遺産に登録された「ルンビニ公園」の入り口に到着。

ここで、強制的にリクシャに乗り換えねばなりません。最近導入されたローカルルールのようです。雇用確保。





幅の広い直線の土道を列をなして走ると爽快でした。
ドライバーくんが、サービスとして、競争して先行車を追い越したりします。シートベルトやつかまるハンドルもなく、ちょっと危険かも。



そのリクシャも遺跡の直前までは行ってくれなくて、最後の200メートルは強い日差しの中を歩いて行きます。

いよいよ、お釈迦様の生誕地。期待が高まります。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インド:ピプラハワ、カピラヴァストゥ、ネパール国境

2011-09-16 | インド仏教研修2011
日本の篤志家が設立した「祇園精舎の鐘」(1981年建立)。





既出の記事はこちら



ネパール国境に近いピプラハワのストゥーパから1898年銘文入りの舎利壺が発見され、シャカ族の都カピラヴァストゥであると比定されました。

その仏舎利は、現在、デリーの国立博物館に展示されています。



釈尊の父、シャカ族の王とその家族はこの城に住んでいたことになります。ネパール側にもカピラヴァストゥがあるようですが、当時にはインド・ネパールの国がなかったので同じ地域だったのでしょう。

我らはネパールに向かってバスに乗って村々を抜けていきます。



やぎを何匹も並べて取引をしていました。

この翌日はイスラムのラマダンが明ける日なので、その時のごちそう(犠牲)として山羊を買いに来ているそうです。



黄色いお菓子も並べて販売しています。とても甘そうです。



これは、路上に鎮座する電力トランス。金網の柵もありません。感電の危険があると思うのですが、建設とメンテナンスの容易性を優先しているのでしょう。

さて、ついに、国境に到着です。



地元の人々は、見かけ上自由に交通しています。



われらは所定の手続きをしますが、インド人ガイドがパスポートと両国の通関書類をまとめて代行してくれるので、30分くらいバスの中で待つだけ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏教遺跡の地図、訪問場所とルート

2011-09-15 | インド仏教研修2011
耳慣れないインドの地名、それも、イギリス植民地時代の英語地名、その日本語カタカナ、現代のインド語を英語表記にした地名、その日本語カタカナ(b、v、延ばす音、の記述不統一)で、インド地図を検索して調べるのには多少苦労します。

わかりにくいかもしれないので、地図に位置関係を整理してみました。ただし前記の理由で正確な地名とその位置の理解はかなり曖昧です。ご容赦ください。

まず今回の全体概念図です:
注:「デリー」は、「オールドデリー」と「ニューデリー」を合わせた地名で、現在、インドの首都はデリーと呼ばれるのが普通です。



前半は北インドの仏教遺跡研修です。(8泊)

後半は、イスラム文化、ヒンドゥー教、仏教が一部で融合のタジマハール。マトゥーラの州立博物館とデリーの国立博物館見学です。


北インド、仏教遺跡訪問のルートは概ね下図でした。



日本から飛行機でデリーに深夜着き、1泊して国内便でラクノウに飛びました。その後、貸し切りバスで時計回りに東北方面に走りました。

道路事情が悪いので、バスの平均時速は30~50キロです。想像以上に時間がかかります。さらにはタイヤのパンク、交通事故、工事規制、通行税(州)、地域の祭り寄付金徴収など予測できないことが発生しました。

周回の順は、釈迦の年代順ではありません。

お釈迦様は、ルンビニ(現在はネパール)で誕生して、父の王城カピラバストゥで少年時代を過ごし、(父の反対を押し切って)出家し修行した後、悟りを開き、説法をして弟子が増えました。各地を巡りその思想を語った後、涅槃となります。その地はクシナガラ。入滅の後、弟子たちがその思想を体系化し記録しました。教義を深め研究する場所として、高弟シャリープトラ(舎利弗)がその生地ナーランダに大学を設立したのです。

7世紀、唐代の中国の僧、玄奘三蔵(三蔵法師)はナーランダに到達して学んでいます。

仏教よりも以前に成立していたインド古来のヒンドゥー教、それから派生して仏教よりも新しいジャイナ教、シク教(ターバンを巻く)。そしてアラブ圏から到来したイスラム教が中世にはインド亜大陸を支配しました。その圧力により仏教はインドでは衰退する一方、ヒマラヤを越えてチベットを経て中国へ。さらに形を変えながらもビルマ、タイ、ジャワ島などに広がり、モンゴル、朝鮮半島、日本に伝わったのです。

・・では世界史的に、西の方角にはなぜ広がらなかったのでしょうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インド:シュラヴァスティ、祇園精舎(サハート)、舎衛城(マヘート) 

2011-09-14 | インド仏教研修2011
インド田舎の国道は、集落の真ん中を通過します。日本でも昭和30年代までは同様でしたが、徐々にバイパスが建設され、さらに完全に立体交差の高速道路のネットワークができていきました。

インドの国道の現状は、一応舗装はされているのですが、表面が至るところではがれていてあなぼこだらけ。バスで走ると常にガタガタ揺れ、時にはガツンと大きな衝撃も感じます。



牛がいっぱい、集落の道路にもあふれています。



日本の高速道路にあるSAやPAのようなトイレ施設はありません。
現地の一例がこれ。奥の露天に並ぶのは男性小用、右が個室です。



突然、日本人の若者多数が現れたので、現地の人々が多数集まってきて、一部の人が持っているケータイカメラで撮影して喜んでいました。





政治家の大きな看板。この方の実績を写真で表現しています。農業改善、工場建設など。

ラクノウから数時間走って、シュラヴァスティのホテルに到着。

午後は、祇園精舎(サハート)を見学しました。
コーサラ国のスダッタ長者が園林を買い釈尊に寄進した精舎です。ここで釈尊は24回の雨安居(うあんご)を行いました。

サハートの写真と記事はこちらにも。



スリランカからの信者団体。



コーサラ国の首都であった舎衛城(マヘート)は、祇園精舎から北東に0.5キロ。



長かった一日でしたが、陽が落ちてきれいな夕焼けとなりました。



夕食、インド料理の一例です。



(追記)
我らの経験したほとんどのレストランでは、グループツアーなので、ビュッフェ形式でした。興味あるものを少しずつ選べるので好都合です。何度も行くのが面倒なので皿いっぱいの盛りつけになってしまいます。

旅行中どこのレストランでもインド料理は種類が多く、予想外に美味しくて毎日十分に食事を楽しめました。必ずしも、すべての料理が「カレー」味ではありませんでした。


~~~~

舎衛城では、集まってきた子供たちと夕焼けに祈りました。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大覚寺 観月の夕べ

2011-09-13 | 京都の文化(秋)
中秋の昨夜(9月12日)、嵯峨にある旧嵯峨御所大覚寺で月を見ました。



大沢池に舟を浮かべて、お茶とお菓子を頂いて月をめでる。
舟席券はすでに6時以降は売り切れで、5時台を購入。あいにくの夕立で上空は真っ黒になったのですが、幸い、東の低いところには雲がなく薄く青い空が見えていました。



月の出。

暗くなった午後6時半からは、満月法会が執り行われました。



収穫された作物が供えられます。



観月コンサートでは、箏曲演奏(京都嵯峨芸術大学)とrimacona(リマコナ)のボーカル。



大沢池の水面に映る望月。

「月に叢雲(むらくも) 花に風」とは言いますが、時々は月が顔を見せてくれました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インド:デリー到着、国内移動

2011-09-12 | インド仏教研修2011
さかのぼって、順々にインド研修旅行を簡単に記録していきたいと思います。



関空を出発したインド航空機は香港に立ち寄って、乗客の乗降、給油をすませました。デリーまでの乗客は機内で待機。

香港からのルートは、座席のディスプレイで見ると中国雲南省上空にはいりほぼ真西に飛行していきました。



新設されたデリー空港では、巨大な手のひらの印が出迎えます。

到着した日は、空港近くのホテルで1泊。翌日は早朝に起こされて、食事のあとに空港に戻り国内線で移動です。



北インドの都市、ラクノ-(Lucknow)まで飛びました。この都市は、Uttar Pradesh州の首都です。道路に交通信号はなく、ロータリー(roudabout)で交通整理しています。



この州の知事は、女性で、しかも仏教信者だとインド人ガイドから聞きました。インドの仏教は非常に信者数が少なく、しかも社会の最下層の人々が多いそうです。



道路脇の目立つ場所に、大きな政治看板が立っています。この看板は女性知事の実績を誇る掲示のようでした。



都会の道路橋の下は雨が避けられるため、浮浪者が寝ています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南洋の小島(フィジー、ロビンソン・クルーソ島)

2011-09-11 | 油彩水彩画、雑誌の表紙
 南太平洋の島国フィジーはもと英国植民地。本島から離れた小島でシュノーケル、ダイビング、植物探索、ハンモックなどのんびり一日を過ごした。陽が沈むとファイヤーダンスが始まる。俊敏な動き、松明に照らされて男女ダンサーの褐色肌に汗が光った。
♪私のラバさん酋長の娘 色は黒いが南洋じゃ美人♪ (ITUジャーナル Sept.2011)

~~
「ラバさん」=lover、妻のこと。1930年の歌謡曲、当時ミクロネシア諸島は日本の委任統治領であった(第一次世界大戦の敗戦国ドイツの植民地であったので、「勝戦国」日本に移管された)。この表紙絵のフィジーは英国領で軍事地理的に重要でなかったことで日本軍は進出してこなかった)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする