朝顔

日々の見聞からトンガったことを探して、できるだけ丸く書いてみたいと思います。

ルンビニ2

2011-09-18 | インド仏教研修2011
いよいよ、ルンビニ聖地に参詣です。ホテルを朝早く出発したので、まだ見学者はほとんどいません。

暑いけれども、爽やかな朝でした。



左手の白い建物は、発掘された地下遺跡の覆堂。

この石の円柱が、実は、重要な遺跡でした。

この石柱には、かすかに、でもはっきり読める文字が彫り込まれています。私の写真は撮り方がへたで、文字がきれいには写っていませんが。



この石柱の碑文が発見され文章が解読されたことから、仏陀の実在が証明され、またこの場所が生誕地ルンビニであることがわかりました。

”碑文には、「アショーカ王は、即位二十年をへて、自らここに来たり、親しく参拝した。ここでブッダ=シャカムニが誕生せられたからである。それで石で馬像を造り、石柱を造立せしめた。ここで世尊が誕生せられたのを記念する為である」とある。”(引用:http://kawai51.cool.ne.jp/i-a'soka.html)

仏陀の死後、200年余を経た後、マウリア王朝第三代アショーカ王が仏教を崇拝し、その遺跡を巡礼し、仏教施設を整備しました。現代では、そのおかげで多くの遺跡が碑文という形で2300年以上を経て理解できます。

文字という情報記録手段の偉大さ、人類が文字を発明したことの重要性を再認識しました。実は、これまで情報科学の導入授業で、古代文字の文明的重要性をロゼッタストーンの例(発見とその解読)で説明していましたが、来年からはこのアショーカ王の円柱碑文も使うことにしましょう。

白い建物の中には、地下遺跡がそのまま展示されていました。撮影禁止のため写真記録はありません。



建物の外に出ると、池と、大きな菩提樹があります。

"釈迦は、母親の摩耶夫人(まやぶにん マーヤー)がお産のために実家へ里帰りする途中にルンビニ(藍毘尼) の花園で休んでいた時に夫人の脇の下より姿を現し誕生した。釈迦はこの世へ出てすぐに七歩歩いて右手で天空を指し左手で大地を指して「天上天下唯我独尊」と声を出したと言う。生後一週間で生母は亡くなり、母の妹、摩訶波闍波提(まかはじゃはだい、マハープラジャパティー )により釈迦は養育されたという"(引用:Wikipedia)

この池は、仏陀の産湯として使われたとされています。



仏陀はこの菩提樹の下で誕生したのでしょう。

ネパールの僧侶が信者さんに祈りを授けていました。



各国からの信者団体が、旗を持参して聖地の周りに張り巡らせています。

我らグループが、アショーカ王の円柱の前でお勤め(読経)をしているあいだに、参詣者が増えてきました。

聖地の菩提樹の落ち葉を拾って、押し葉にして頂いて帰りました。


~~

"アショカ王の石柱は、1896年にドイツ人の考古学者フューラーによって発見されました。紀元前249年にマウリヤ王朝のアショカ王がこの地を訪れたときには、ルンビニは大きな村だったと云われています。ここで見つかったアショカの石柱には「神々に愛でられしアショカ王が即位20年の年にこの地を訪れ石柱を立てた旨と、釈尊の生誕地であるこの村は免税され8分の1のみの納税で許される旨」が刻まれています。当時は4本の石柱が立てられ、その柱頭には馬像があったと云われていますがその馬像は見つかっていません。玄奘三蔵もこの地を訪れており、この柱に雷が落ち3つに折れたと記録しています。"
引用:http://nepaling.zening.info/lumbini/asyoka.htm
コメント
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