朝顔

日々の見聞からトンガったことを探して、できるだけ丸く書いてみたいと思います。

稲作文化の伝搬

2016-03-24 | 国内各地の風物

先日、滋賀県を車で散策したところこんな立派な博物館に行き当たりました。[ ・・文末に追記あり]

水田地域に突然、巨大で立派な建物が。・・てっきり箱物行政の典型かな、とおもったのですが。

滋賀県立「安土城考古博物館」でした。

向こうにみえるのは、かの織田信長が作った安土城の山です。安土桃山時代の歴史的な場所。

特別展と常設展があるのですが、まずはこちらから。

滋賀県は真ん中に琵琶湖があり、古くから農業、特に稲作が盛んにおこなわれています。

このポスターによると、稲作はインド・アッサムや中国・雲南を起源として、紀元前4世紀頃に中国や朝鮮からの渡来人によって日本にもたらされました。それまでの自然界にある動植物を狩猟・採取して生活する縄文時代から、水田による稲作で一挙に食料生産が拡大し備蓄もできるので供給が安定しました。

その結果、人口増大し集落の規模が拡大して、王様(首長)がうまれました。この人形は弥生時代の王者の服装展示で、左から4世紀ころ、5世紀、6世紀の年代です。

縄文時代の石器が多数発掘されています。

石でできた包丁もあります。金属の道具がなかった時代には、切れ味の良い石材を見つけて加工する技術は非常に重要だったことでしょう。野生動物の狩猟には必須だし、敵対勢力に対する武器ももなります。

勾玉や玉が作られるようになります。装飾、あるいは貴族・支配者階級の権威付けでしょうか。

銅鐸も多数出土しました。大きさもいろいろあって、入れ子状態で埋もれていたものがあります。

鉄器も渡来し、青銅よりも固くて丈夫なので、武器や防具にも活用されました。

琵琶湖の周辺には多くの遺跡が発見されています。

なかでも驚いたのは、湖底にも住居跡が見つかっていることです。

何らかの環境変化で、湖畔にあった集落や田んぼが水没してしまったことがあったようです。よく発見できたものですね。

~~追記(2016-03-25)~~

稲作=縄文時代と、学校では習ってきたし、上記のポスターにも書かれているのですが、最近の研究では、もっと早い時代に日本列島に伝搬したようです。

縄文時代に稲作があったかどうかは、専門家にとって長年の大きな研究テーマであるようです。学術研究が進んで(DNA等)最近では弥生時代前に渡来してきたことが明らかになり、初期の陸稲による焼き畑栽培だと水田跡や農機具が残らないそうです。縄文と弥生の区分は「土器様式」らしいので、文字記録のある時代とは違いますね。

「プラント・オパール」なる物質が、その用語も含め、稲の系列分析に使われると初めて知りました。植物細胞組織に充填するシリカ、非結晶含水珪酸体(SiO2.nH2O) 。

稲のルーツについても、上記ではインド・アッサムや中国・雲南と書かれていますが、現在の科学分析では「約1万年前の中国長江流域の湖南省あたり」だそうです。

以上


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする