朝顔

日々の見聞からトンガったことを探して、できるだけ丸く書いてみたいと思います。

渉成園 枳殻邸

2014-11-02 | 京都の文化(秋)
特別公開として、棟方志功の襖絵を見ることができると知って11月1日に行ってきました。(しょうせいえん きこくてい)



東本願寺の門前町を東に抜けた場所にあります。



傍花閣、個性的なデザインの建築です。楼門作りで階上には四畳半の部屋があります。文字どうり周辺を桜の木に囲まれています。



印月池にかかる侵雪橋。





この池の向こうには借景として東山の柔らかな緑のスカイラインが見えるのですが、この日は雨で見えません。
残念ながら敷地に隣接した無骨なマンションが頭を出しています。・・数年前に、京都市には市内の建築物制限条例ができ建物の高さと外観に大幅な制限がされることになりました。ですが、すでに建っている建物には適用されません。





京都タワーも見えました。



こちらの玄関から入場し、まずは漫画家井上雄彦の墨絵「親鸞」とそのメイキング映像を見ました。

棟方志功の襖絵は園林堂にありますが、とても狭いので十人ずつ入室させていました。ふすまは紙でできていて古くて脆いので、荷物や傘は入室前の場所で預けます。(見学者には相当に年老いた人も多かったので、ふらついて襖に倒れこんだり、手をついたりするかも知れないので心配でした)


(引用:「名勝渉成園(枳殻邸)パンフレット」東本願寺)

「天に伸ぶ杉木」と「河畔の呼吸」と題された42面の襖絵です。

大胆な筆使い、淡白な色。素晴らしい出来栄えでした。



渉成園は東山三十六峰の一つ阿弥陀ケ岳を借景としています。その山頂には豊臣秀吉が葬られていて、その山麓には秀吉を祀る豊国社(現豊国神社)が建てられました。その社と、秀吉が建てた方広寺大佛、さらに西本願寺は正面通で東西に直結していました。

”一つの興味深い説があります。後に徳川家康が天下を掌握した際、豊臣家の保護を受けた西本願寺と、豊臣家の聖地である豊国社と方広寺大佛を結ぶライン、すなわち正面通を断ち切るという意図で、現在の地に東本願寺を設立させたというのです。その意味から言えば、三代将軍・家光による渉成園の地の寄進は正面通をさらに切断し、西本願寺と豊臣家との関係性を念入りに分断しようとした意図があったとも解釈できます。”(引用:上記パンフレットp.26)

なおその歴史的背景をすこし解説しておきます
織田信長は大坂(現大阪市)にあった浄土真宗の石山本願寺を服従させるために何年も苦戦した結果、それを達成しました。政権を継いだ豊臣秀吉は、母の大政所が熱心な本願寺門徒であったことから京都堀川の地に本願寺の再興を許しました。秀吉は顕如上人が逝去された後、長男の教如の継職を退けて隠居させて、三男・准如上人に本願寺(現西本願寺)を継がせました。その後、豊臣家が没落し、教如上人が徳川家康からの寄進を受けて東本願寺を成立させたのです。(出典:上記パンフレットp.26)


(引用:「名勝渉成園(枳殻邸)パンフレット表紙」東本願寺)
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