石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

板橋宿を歩く

2010-08-25 19:29:05 | 板橋宿を歩く


                                                『江戸名所図絵』の板橋

はじめに

旧中山道という文字を見聞きするといつも思い浮かべる光景があります。
テレビで女性アナウンサーが「いちにちなかやまみち」と読んで、スタジオにいた出演者を凍りつかせたシーンが頭に浮かんでくるのです。
フジテレビの女子アナでした。
彼女にとって不幸だったのは、「旧中仙道」ではなく、「旧中山道」だったことでしょう。
江戸時代のなかば、「只今迄は仙の字書候得ども、向後山之字書可申事。」と「中山道」が正式に採用されたのでした。
 表記のことでいえば、江戸時代の板橋宿は平尾宿、中宿、上宿の3宿に別れていました。
真ん中の宿だから「中宿」だったのです。ところが現在の地名表記は「仲宿」となっています。昭和32年の地番整理事業で「板橋5,6丁目」から「仲宿」に変ったのですが、「中宿」でなくなぜ「仲宿」なのか、その理由を知りたくて区議会議事録を調べてみましたが、公文書館には総務委員会記録がなくて、知りえませんでした。
 

板橋宿を歩く」という企画の出発地点が板橋駅であるのには、二つの理由があります。

一つは「板橋宿」のスタート地点が板橋駅の北側にあったこと。
江戸から来て、ここから「板橋宿」に入りました。

もうひとつは、やや主観的な理由です。
現在の板橋を規定したのは、板橋駅だったと僕は言いたいのです。

明治新時代になり「板橋宿」は大きな影響を受けました。
それでも明治10年代の頃、街道は賑わい、宿場も景気上々でした。
だから上野を起点に熊谷まで旧中山道に沿って鉄道を敷設する計画が持ち上がった時、「板橋宿」の有力者たちは、当然のように反対運動を起こしました。
鉄道に客を奪われることを恐れたからです。
反対運動は功を奏し、鉄道は中山道沿いには走らず、品川―赤羽間に敷設されました。
板橋駅は宿場のはずれに設けられました。
明治18年のことです。







板橋駅は珍しい駅です。
西口は板橋区、東口は北区、ホームの大半は豊島区。
構内は三つの区にまたがっています。
「北駅」や「豊島駅」であってもおかしくありません。
板橋区の最東端に板橋駅は位置しています。
だから大半の板橋区民にとって、板橋駅は不便で利用することのない駅となってしまいました。
現在の一日利用者数は約3万人。
利用者は往復するだろうし、区民以外の利用者もいるでしょうから、55万板橋区民のほんの2、3%しか利用していないことになります。
これがいわば誤算の始まり、板橋区にとって不幸の源でした。
板橋駅が「板橋宿」の真ん中、中宿あたりに開設されていたら、かなり状況は変わっていたに違いない、僕はそう思うのです。

由緒ある城下町に鉄道を引き入れることを拒んだ町としては、米沢や萩がすぐ思い出されます。米沢と萩は、鉄道が町の中を走らなかったため、古い城下町がそっくり残って、街並みが観光資源となりました。
板橋の不幸は、江戸時代の遺産「板橋宿」が鉄道開設の翌年、大火でその面影をすっかり失くしてしまったことにもあります。

区のはずれに板橋駅が出来たことと「板橋宿」の大火が、長きにわたる板橋の沈滞化をもたらしたと僕はいいたいのです。


近藤勇の墓


新撰組隊長・近藤勇の斬首刑の容疑は、坂本竜馬暗殺でした。
慶応4年(1868)4月25日、近藤勇35歳のことです。
下総流山で逮捕されたのに、板橋で身柄を拘束されたのは、官軍の東山道軍の本部が「板橋宿」にあったからでした。
京都での活躍により、勝海舟から士分にとり上げられていましたから、切腹を命じられてしかるべきなのですが、斬首に処されたのは、土佐藩の強硬な申し入れによるものです。
今では、坂本竜馬の死と近藤は無関係ということになっていますが、当時はまだ疑惑の只中にあったのでしょう。
ちなみに薩摩藩は、裁判にすべきだと主張したといわれています。




 

板橋駅東口の駅前広場をはさんで反対側に近藤勇の墓があります。
墓地に入るともうひとつの墓、永倉新八の墓が目につきます。
永倉新八は新撰組の同士、大正15年まで生存しました。
近藤勇の墓は、実は、この永倉新八によって明治9年5月、建てられました。
明治9年といえば、「神風連の乱」、「萩の乱」が起こるなど世情はまだまだ不安定、逆臣の近藤勇の墓建立などとんでもないご時勢でした。
それでも永倉は、新撰組と親交のあった軍医松本良順の助力を得て、苦心惨憺、目的を達します。

世の中というものは、「大きなものには巻かれろ」。
折角建立された勇の墓も、大っぴらに祀ることもできず、60年の間、荒れるに任せ、改修の声も世の思惑をはばかって沙汰やみになっていました。

ところが昭和3年9月、秩父宮家と会津松平家のご婚儀が相成り、ここに国賊会津の思想は一挙に解消、回りまわって、近藤勇の墓改修の話も大々的に寄付金を募って実現される運びとなります。
そうして完成したのが、現在の墓なのです。

墓地の隅に「墓地の所有者は寿徳寺です」との表示があります。
北区滝野川に寿徳寺を訪ねました。
石神井川沿いに、板橋大仏に匹敵する観音銅坐像を有する寺でした。
尋ねたいことは、ひとつ。
「今の墓所で近藤勇は処刑されたのか」。





近藤勇が処刑された板橋刑場の写真を、法務省の図書館で探しましたが、見当たりません。
板橋区立郷土資料館の館員の話では、刑場の写真は存在せず、場所は中山道から少し外れた人気のない場所だっただろうとのことです。

寿徳寺の説明では、檀家の所有地で近藤勇は処刑され、それを聞きつけた永倉新八がそこに墓を建立したいと相談を持ちかけてきた。
その交渉を寿徳寺は依頼され、墓の維持も任されてきた、とのことでした。

と、いうことは、板橋刑場は現在の近藤勇の墓地あたりにあったと見ていいのかもしれません。

「間もなく30名ばかり鉄砲隊に前後を厳重に守られて、一挺の山駕籠が担ぎだされ騎馬の隊長らしき人物も一人従っている。駕籠には推察通り顎鬚が少し伸びた勇が乗せられており、しかも牛込甘騎町の屋敷で見慣れた亀綾のあわせをまとっていた。一行の後につき従って行くと、庚申塚の櫟林の横の原には既に屍体を埋め込むための穴が掘られ、その前に新しい筵も敷かれている。勇は駕籠から出されると最後に臨んでまず髭をあたった。」(子母沢寛『新撰組始末記』)

 処刑に立ち会った近藤勇の甥、横倉勇五郎の回顧談にはこうあります。

「斬首の太刀取りは二人用意され、その中の一人が「やっ」と言うと一太刀で斬ってしまう見事な腕前であった。」



平尾の一里塚



一口に「板橋宿」といいますが、宿場の中は三つに分かれていて、江戸から来て最初の入り口が「平尾宿」、続いて「中宿」、一番西の方が「上宿」となっていて、全長が十五丁四十五間(約1700メートル)あります。
「平尾宿」の目安となっていたのが平尾の一里塚でした。
旧中山道から板橋駅東口へ向かう分岐点のあたりでしょうか。
この一里塚の風景を描いたのが、英泉の『板橋之駅』。
天保六年―八年(1835-1837)の作品です。
天保七年、板橋宿は大火で焼け野原となりましたから、これはその火事の前の風景でしょう。

画面中央より左の二人は武家の夫婦連れか。
手前の茶屋で一休み。
夕暮れの気配の中を中宿へと歩き出したところでしょう。
駕籠かきが「駕籠はいかがで」と声をかけるのですが、奥方がチラッと振り向いただけ。
従者の男が「宿も近いから」と断っているようです。

平尾の一里塚の茶屋の屋号は「大野屋」。
名物はまんじゅうでした。
京都で有名な虎屋の職人がここで休憩した時、虎屋のあげまんじゅうの作り方を伝授したとか、本
場のやり方で作ったまんじゅうが大評判となったと伝えられています。

夕日を浴びて、その裏側が黒々としている樹木は、加賀下屋敷の林。
広さ22万坪。
林の奥の崖下に石神井が流れ、その川を生かした広大な庭園が有名です。






上の絵図は「五街道分間延絵図」。
幕府が道中奉行に命じて作成した五街道の詳細図のうち中山道の平尾宿の部分です。
文化3年(1806)に完成しました。

 英泉の「板橋駅」の絵とこの分間絵図には明らかに共通点があります。
平尾一里塚から加賀下屋敷への道までは家並みがありません。
野原か畑だったのでしょう。

 加賀下屋敷の門は、現在の法務局(板橋1-44)にありました。
次の上の写真が加賀下屋敷への道。
中央奥の白いビルが法務局です。
下は、下屋敷の門。
現在、観明寺に保存されています。







 

 


 

 

加賀藩下屋敷 

 

 


 

 

 


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