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石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

126 成田街道の石造物(18)ー酒々井町の2ー

2017-02-01 05:17:08 | 街道

これから後は、旧成田街道の道標の写真が続く。

ネタ元は「酒々井町の街道と道しるべ」。

https://www.town.shisui.chiba.jp/static/chunk0001/road_and_guidepost/index.html

市内39か所の道標を写真と地図、解説つきでまとめてある。

私は、この資料をなぞっただけなので、詳細はwebをご覧ください。

次の道標は、「ニ王ミち」から200mほど先の突き当りに。

ミラーの下に黒ずんであるのが、それ。

正面に2行「成田佐原道/宗吾安喰道」とある。

側面の「酒々井停車場」の「停車場」が懐かしい。

「停車場」ではなく「駅」を使うようになったのは、いつの頃からだろうか。

「さて、次はどこだろう」と右手を見たらすぐ先にそれらしい石柱が見える。

成田街道だったとは思えない幅の狭い、変哲のないつまらない道のカーブに道標はある。

10m背後は、R51。

行きかう車の音がうるさい。

道標は2行「佐倉千葉道/成田佐原道」。

背面には「七栄三里塚」とある。

「三里塚」とは、懐かしい。

なんでも「反対」ばかりの時代にあって、「三里塚」は反対闘争の先鋭的舞台の一つだった。

次の道標は不動尊が座して、「江戸時代の信仰、交通、彫刻、書体等の良き参考になる優品」として、町の指定文化財でもあるというので、探したが見つからない。

現地へ行って分かったことは、一山全体が住宅団地として開発されていること。

新しい入居者に道標を訊いてもわからないだろうと思い、地元の農家を訪ねて訊くのだが、反応は芳しくない。

「見たことがない」という返事ばかり。

諦めて帰って、ネットで調べたら、団地の公園のなかにあるのだそうだ。

この不動尊道標前の道を行きたかったが、分からないのでR51へ出て左折、最初の信号を右折する。

この信号の下にも道標がある。

電柱にもたれるように寄りかかり、電柱の陰で目立たない。

目立たない道標は困りものだが、碑文が読みづらいので、存在感があっても、無益だろう。

辛うじて「奉納仁王尊 さくら道」と読める。

今や、こうした道標を頼りに成田街道を歩く人はいなくなって、道標は石の廃棄物となった。

廃棄物と等しいものをこうして訪ね歩くことに何の意義があるのかと、自虐的に自問したりする。

この「大崎坂下道標」を右折して入る成田街道旧道が最も昔の雰囲気を保っている。

両側竹林のうす暗い坂道は「大坂」。

大阪に入る手前に、これも捨てられたような道標が横たわっている。

 正面に「成田山 信集構社内 岩田長兵衛」。

岩田長兵衛が成田街道に建てた5基の道標のうちの1基。

眼前には、初冬の下総がのんびりと広がって、背後の国道51号の騒音もここには、届いてこない。

急坂の途中に石段があり、見上げる高さに小堂がある。

小堂は観音堂のようで、馬頭観音が数基立っている。

みんな明治期に造立されたもので、中に2基「馬車連」の文字がある。

乗り合い馬車もさすがにこの坂はきつかったのだろう。

鼻息荒く踏ん張って上った馬を偲んで、わざわざこの地に供養塔を立てた男たちの優しい心が、ここには満ちている。

倒れたまま、半分土に埋もれた石碑があり、資料では、これが 「句碑道標」だとしている。

句碑と云っても「ああ楽ケりな」と読めるだけで、あとは土の下。

上部に「成田山へ一里二十三町」とあるから道標だったと分かるが、もちろん、今では無用の長物、土に還るのを待つばかりです。

坂を上ると国道51号と再び接する。

フエンスの向こうは、国道51号。信号で左折すると宗吾道に入る。右が旧街道。オレンジの看板から松並木が始まっていた。

その接点に石柱と木柱が立っている。

石柱は「宗吾道」と大書した道標。

木柱は「千葉県指定 成田道伊篠松並木」とある。

ここから国道51号線に寄り添うように走る旧街道は、かつては見事な松並木だった。

その松並木の入口を示す標柱なのだが、肝心の松は一本も見られない。

県の指定を受けた昭和43年には、江戸時代からの美観を誇っていた松並木だったが、昭和50年代に、松くい虫の被害で枯れ始め、県指定が町指定になり、ついには1本残らず全滅、町の指定も解除されるという悲惨な運びとなった。

全盛期の松並木街道の写真を、と探したが、酒々井町のHPで1枚見つけたのみ。

それでも街道をゆくと小柄な松が1,2本あるにはある。

道の両側にあれば、往時をしのぶによすがになるのに。

道の左の藪の中に石造物かある。

自然石に「成田山永代護摩木山 新榮講 板橋組」と刻されている。

護摩木山というのは、成田山で護摩を焚くのに使う木材を切り出す山林を指し、講集団が買い占め、奉納するのだという。

成田街道沿いに十数か所の護摩木山があるのだそうだ。

道標も2本。

1本は、3面に道案内がある。

正面は「東 成田山/宗吾社道」。

左面は「左 しすゐ/停車場道」。

右面は「西 酒々井/さくら道」。

裏面に「元禄元年起立丸万講/明治三十二年三月建立」とある。

もう1本の背の高い方は正面に「成田山」とあるのみ。

ただ下部に小さく「是より壱里余」とあるので、ここより先のどこかにあったものと思われる。

写真を撮るのに藪を漕いで近寄った。

初冬だから安心して入っていったが、夏だったら蛇が怖くて、とても近づけないだろう。

松のない松並木を進む。

やがてR51と合流するのだが、

その合流地点に「成田街道伊篠の松並木」の石碑がある。

R51と合流して50mも行かないで、今度は左へ分かれて入る。

電柱と舗装を除けば、江戸時代にそのままタイムワープできるそんな雰囲気。

街道脇のお地蔵さんにも同じことが言えそうだが、こちらは、排除しなければならない「現代的」なものが多すぎる。

私が気になるのは、田んぼの一枚の広さ。

昔はこんなに広い田んぼはなかった。

そして、また、R51と合流するのだが、旧道のカーブの仕方がなんともいえず、味があって、こたえられない。

51号の歩道を進むとまもなく、「成田市」の標識が見えてくる。

通り過ぎて振り返り、「酒々井町」の標識を探すが、なぜか、ない。

やっと成田市に入った。

ゴールは、近い。

次回、更新日は、2月6日です。

 

 

 


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