前回は、中寺町通りを願海寺から南へ歩き始めて、明王院で終わりました。
今回は、明王院のななめ前、常林寺からです。
16 曹洞宗・常林寺(三田4-5-14)
境内地1250坪。
三田寺町では三指に入る広さ。
庭園が美しい。
石造物も定番がそろっているが、目を引くのは、中央正面の宝篋印塔だろう。
塔身が空洞になっていて、中にお釈迦さまが座していらっしゃる。
装飾に象がいるのでインド製かと思ったが、裏に昭和9年、日本で作成されたと刻されている。
宝篋印塔を守るように獅子狛犬が2頭。
これでもか、というようにはっきりした阿吽です。
帰ろうとして、境内入り口に高い石碑があるのに気付いた。
「安島直円墓」とあり、横に「東京都指定旧跡」の看板。
「あじまなおのぶ」という江戸時代の高名な数学者だという。
「直」線と「円」形が名前にあるなんて、いかにも数学者らしくて、いい。
「独創的な」と説明にある。
どのように独創的だったのか知りたくて、ネットで調べたが、私の理解をはるかに超える内容で、完全にお手上げ。
私に理解できたら、独創的ではありえないのだから、当然のことではあるが。
都教委の説明を載せておくので、ご覧下さい。
17 曹洞宗・仙翁寺(三田4-5-12)
山門脇に達筆な聖語。
「今のあなたで 百点満点。
ほかのだれかの
まねなんてしなくていいのに」。
思わず、SMAPの「世界に一つだけの花」を口ずさんでしまった。。
「そうさ 僕らは
世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい」。
境内に2基の巡拝塔。
17か寺目で初めてお目にかかる。
寺数の割には、少し少ないような気がする。
1基は、小屋掛けの如意輪観音。
台石に「百番観音 四国八十八ケ所供養塔」とある。
もう1基は、丸彫り地蔵でこちらは「秩父西国坂東百観音供養塔」。
霊場巡りは、信仰心によるものではあるが、同時に娯楽でもあった。
全部歩いて回ったんだから、恐れ入るしかない。
18 玉鳳寺(三田4-11-19)
仙翁寺を出て左へ。
幽霊坂を横切るとそこが玉鳳寺。
10mもない。
みんな、山門脇のお化粧地蔵に目を取られるが、右のステンレス柱もなかなかのものなのです。
「山門寄進 檀信徒総代 高橋是清公 明治三十九年七月十日建之」。
教科書に出てくる歴史的人物の名前を思いがけず見ると、思わず興奮してしまうのは、私だけか。
玉鳳寺信徒総代であったらしいが、高橋是清の墓は、なぜか、多磨霊園にある。
高橋是清の名前を確かめたら、左の祠の中へ。
真っ白なお地蔵さんがおわす。
人呼んで「お化粧地蔵」。
吹き出物、あざ、しみ、美肌に効能ありとか。
塗り続けたらあざ、しみだらけになった、どこかの化粧品会社よりは、ましのようだ。
全身真っ白なのは、祈願成就の折は地蔵の全身に白粉を塗る習わしがあるから。
よく見ると、目のまつ毛や指のマニキュアが描かれていることが分かる。
女性の美しくなりたい願望は果てしない。
祠に置かれてある参詣者ノートには、切なる願いが綴られている。
願いの範囲は、「肌がきれいになりますように」から「いい伴侶がえられますように」まで。
「肌がきれいになる」→結果として「いい伴侶が得られる」のは分かる。
前段を省略して、ダイレクトにいい伴侶を求めるのは、いかがなものか。
「虫が良すぎるよ、お嬢さん」。
お地蔵さんをやるのもしんどいご時世なのです。
境内に入ると真っ赤な乗用車に押しつぶされるように石仏が数体おわします。
左端は、三猿だから庚申塔に違いない。
三田寺町に入って初めての庚申塔。
そして、唯一の庚申塔でもあるのです。
どうしてこんなに少ないのだろうか。
三田は都内有数の高級住宅地。
他地区より開発が早かったから歴史的文化財保護の意識が希薄だったことは確かだが、それにしても少なすぎる。
19 曹洞宗・南台寺(三田4-11-14)
玉鳳寺を出たら左折して幽霊坂を下りる。
20m程で小路を左折。
右の崖下に忍願寺の墓地を眺めながら行くと左に「南台寺」の石塔。
真正面に寺域が見える。
木の柱が山門。
山門前に2体の聖観音石像がおわす。
向かって左の石仏は寛永元年(1624)造立。
三田寺町で最も古い石仏のひとつではないか。
寛永12年の移転の際、八丁堀から持ってきたものと見える。
寺は、昭和20年5月、東京大空襲で全焼、23年後の昭和43年、再建された。
狭いが、緑豊かで静かなお寺です。
19 曹洞宗・清久寺(三田4-11-8)
南台寺を出て、左折。
御田小学校裏門を過ぎると左に清久寺への坂道が現れる。
坂道の行き止まりを右折すると山門だが、山門前の石段の横に四面の六地蔵塔がある。
類型をあまり見かけない石塔。
境内には 、まるで双子のように酷似した宝篋印塔が寄り添って立っている。
清久寺の墓地は、寺の後ろに広がっている。
墓地の端に立つとこれから行く魚籃寺の墓地が真下に見える。
20 浄土宗・大信寺(三田4-7-20)史跡
清久寺前の道を下ると魚籃坂にぶつかる。
上の写真は、魚籃坂の方から撮ったもの。
右の塀は宝徳寺の塀だが、宝徳寺には寄らず、魚籃坂を下りて、大信寺へ。
魚籃坂下の交差点から坂を上って最初の寺が大信寺ということになります。
魚籃坂下交差点から伊皿子台を望む。道の向こう木の生い茂っているところが大信寺
山門前に石碑。
「史跡 石村近江
江戸における三味線制作の始祖
昭和七年 東京市」と刻されている。
バイオリンのストラディヴァリは知っていても、三味線の石村近江は知らない。
それが現代日本人というものだろう。
私もれっきとした現代日本人だから、当然、石村近江を知るわけがない。
どうやら三味線界のストラディヴァリ、なにし負う名匠らしいのです。
以下は、ネットで得た知識。
初代石村近江は名工として京都で有名でした。
江戸入府にあたり、家康は、学者や僧侶、腕ききの職人たちを 京、大阪から江戸に呼び寄せます。
二代目石村近江もその一人でした。
寛永12年、大信寺はほかの寺とともに八丁堀から現在地へ移転してきます。
二代目が亡くなったのは、寛永13年。
彼の墓が三田の大信寺の第1号だったのではないでしょうか。
以来、12代まで石村家の菩提寺として大信寺はあり続けます。
だから、俗称「三味線寺」。
石村家との関係上、歴代住職は幼少時から三味線、長唄を叩き込まれるとか。
帰ろうとして、山門前のラックにパンフレットがあるのに気付く。
「音楽葬・音楽法要のご案内」。
お経の歌を合唱しながら葬儀、法要をしますよ、という内容。
伴奏として、ピアノ、ヴァイオリンは書いてあるが、三味線は使用するのだろうか。
21 浄土真宗本願寺派・宝徳寺(三田4-8-38)
22 浄土真宗大谷派・徳玄寺(三田4-8-36)
境内がない寺は入りにくい。
だから入らない。
23 浄土宗・魚籃寺(三田4-8-34)
魚籃坂は、坂に面して魚籃寺があるから、そう名付けられた。
伊皿子台から坂下を望む。右のトラック後方が魚籃寺。
高輪1丁目と三田4丁目の境の坂で上ると伊皿子台となる。
三田寺町にあって、魚籃寺は八丁堀からの移転寺ではなく、生粋の三田開基の寺。
投げ込み寺として有名な浄閑寺がこの地から三ノ輪へ移転した、その跡地に魚籃寺が創建された。
承応元年(1652)のことだった。
本尊の魚籃観音は撮影できないので、別な寺の、しかも墓地にあった石像を載せておく。
胤重寺(千葉市)
江戸時代に書かれた、魚籃観音の縁起がある。
「唐の憲宗帝の時金沙灘と云へる所に魚籃を携へる美女あり。曰く、妾は仏教を好む、若し経典に通ずる人あらば之に嫁せんと。小馬なるもの独り之を善くし、此女を妻とす。女死して骨みな金砂と化す。是れ観音の化身なりとの伝説あり」。
「骨みな金砂と化す」のだから、人気が出た。
その人気ぶりは、文章にも絵にも記録された。
「衆人打群れて歩を運ぶにより、霊応いやまし、香煙常に風にたなびき、声明うたた林にこたふ」。
江戸名所図会・魚籃寺
山門左手に聖語がある。
過ちを犯したら償いをせよ、という趣旨。
誤字を書いた「責任」は,どう取るのだろうか。
境内に線彫り馬頭観音がある。
三田寺町で唯一の馬頭観音。
東海道が近い。
馬の需要は多かったはずだ。
その割には、馬頭観音が少なすぎるように思う。
24 日蓮宗・薬王寺(三田4-8-23)
魚籃寺を出て、魚籃坂を上る。
左に墓地がある。
次の薬王寺 へは、ここから入ってもいいが、魚籃坂を上りつめて左折すると山門がある。
境内に入ると眼下に本堂。
本堂脇を行くと更に眼下に墓地が広がっている。
三田寺町が東から西へ傾斜した土地であることがよく分かる。
墓地に下りる。
中央に井戸と石碑。
石碑には「朝顔につるべとられてもらい水」とある。
加賀の千代女が諸国歴訪の折、霊水の評判高い、ここ薬王寺の井戸を訪ねて、「朝顔に・・・」の句を詠んだという伝承があるらしい。
今や、東京で井戸を見かけることはほとんどなくなった。
比較的よく見かけるのが、寺の墓地の水場。
それも電動ポンプで手押しポンプは絶滅しつつある。
三田寺町は、例外というべきかもしれない。
冒頭(NO65)、震災と戦災を免れた東京でも稀有な場所で、江戸と明治の匂いが残っていると指摘したが、井戸はまさにその典型例。
三田寺町を回りながら、たまたま見かけた井戸を写真に撮っておいた。
慈願寺 西蔵院(電動ポンプ)
荘厳寺(聖徳太子像の右奥につるべ井戸)
大信寺 長松寺
ほかにもあるのだろうが、気付かなかった。
井戸の周りだけ、時代から取り残された感じがしてならない。
25 曹洞宗・正山寺(三田4-8-20)
「烏枢沙摩明王」を知ったのは、正山寺でだった。
3年前、三田寺町めぐりをした時、初めて見た。
像は小さくて覗いてもよく見えなかったが、帰宅して調べて「烏枢沙摩」は「うすさま」と読み、トイレの神であることを知った。
よほど印象が強かったと見えて、数か月後、品川の海雲寺で「烏枢沙摩明王」の看板を見て、すぐトイレの神様と分かった。
海雲寺(品川区)
仏像の名前を覚えるのが苦手な私としては珍しいことだった。
「烏枢沙摩明王」に偶然出会うのは、宝くじで10万円が当たるようなもの。
出会うことは、めったにありません。。
3回目は、茨城県利根町の徳満寺。
日本最古の十九夜塔と柳田国男が子供の頃見て衝撃を受けた、かの有名な間引き絵馬のある寺です。
徳満寺の「烏枢沙摩明王」は、ちゃんとトイレの横におわしました。
トイレの横、石塔みたいな祠。覗くと烏枢沙摩明王が見える(徳満寺)
以上の3体は、いずれも小さい木像です。
もっと大きな烏枢沙摩明王はないのだろうか。
願い続けるものです。
念願の大きな烏枢沙摩明王に出会いました。
荒川区西尾久の正覚寺で。
でかい。
しげしげと像容を細部まで眺めました。
八臂で宝冠に化仏。
どう見ても男です。
しかし、去年の紅白で、植村花菜が歌った「トイレの神様」は女性なのです。
「トイレには それはそれはキレイな 女神様がいるんやで
だから毎日 キレイにしたら 女神様みたいに べっぴんになれるんやで
気立ての良いお嫁さんになるのが 夢だった私は
今日もせっせとトイレを ピカピカにする」
女神説は、次のような筋書きからうまれました。
「家を建てるとそれぞれの部屋に神様が住み着く。
居間の神、台所の神、玄関の神・・・と。
女の神はお化粧していて、駆けつけるのが遅かった。
どの部屋にもほかの神がいて、空いているのはトイレだけだった」。
だから、トイレを掃除する人には、女神は福徳を授け、女性には、美人になり、子供を授かる幸せを与えると信じられています。
極めつけは、伊豆湯ヶ島の明徳院。
旅館の朝食まで時間があるので、川向うの丘の上の寺へふらりと行ってみた。
宝くじに当たった、気分だった。
なにしろ、明徳院は烏枢沙摩明王を本尊とする寺だったのです。
全山、「東司(トイレ)の護神」だらけ。
「おまたぎ」の儀式を行う場は、和式便所風に作ってある。
便所と思えるのは賽銭箱。
賽銭箱にまたがって、シモの健康を祈るという仕組み。
ついでに、そばにそそりたつ男根を擦れば、もう一つの下半身もシャンとすることになっている。
老若男女ならぬ老々男女がキャッキャッと祈りに興じている。
日本は平和な国です。
売店の商品は、パンツやズロース。
ズロースなんて書くから歳がばれる。
ばれても構いはしないが・・・
下着なのに色気は皆無で、下町の雑貨屋の雰囲気。
ふんどしにはお守りの版が押してあると聞いたが、本当だろうか。
ふんどしは購入しなかったが、お守りは買ってきて、我が家の東司に貼ってある。
持病の前立腺の故障が悪化しないのは、後利益のせいなのだろう。
これで、ほぼ、1回分の記事の容量となった。
まだ、正覚院、実相寺、常教寺、荘厳寺、大増寺、済海寺と6か寺も残っている。
3回目にするには寺数が少ない。
どうするか思案中です。
しばらく時間を置くことになりそうです。
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