石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

84 さいたま市北部に残る不食(無食)供養塔

2014-08-01 06:46:21 | 石碑

前回は「佐渡に残る足尾山塔」だった。

今回は、それとそっくりのタイトル「さいたま市北部に残る不食(ふじき)供養塔」。

だが、正確には「さいたま市北部だけに残る不食供養塔」なのです。

少なくとも関東地方以北では、さいたま市以外にはみられない。

どうやら私は、希少価値のあるものに執着する性癖があるようです。

①路傍(さいたま市見沼区新堤40七里東幼稚園の東側三叉路)

碑は、石段を3段上がった高さに、柵に囲われてある。

残念ながら、碑文は、彫りが浅くて、ほとんど読めない。

上部に日輪、その下に「奉造立不食供養」と刻まれている、と持参資料にはある。

以下、碑文はすべて、資料からの転写です。

向かって右側面に「元禄十六発未二月十五日、
            
新堤村施主長嶋八郎右衛門」とある。

これだけは辛うじて読める。

左側面は読めないが、資料から転写しておく。

「原夫於是長嶋氏之先祖在全嶋居士者預為免没後之□報発誓願/毎月當不食日一日一夜不怠精進勇猛而奉唱和無量壽佛之宝號/□歳既久判溌散成就之辰於此地築高墳彫刻支堤一躯奉供養三/宝仲精儀且三日三夜施行往来貴賤合也全嶋五世之孫改□建立/宝塔一臺希因茲刹那消滅塵労弾指□成種智同證阿耨菩提者矣」

不食念仏については、よく分かっていないらしいが、これによれば、一日一夜、食べずに念仏を唱える修行だったことが伺える。

私は、断食道場で1週間の断食をした経験があるが、さほど過酷だとは思わなかった。

ましてや24時間の不食、これで修行と云えるのか、いささか腑に落ちない。

と、書いて慙愧にたえないのは、時代背景を無視していること。

先日、テレビで100歳を超える老人のアンケート調査を見た。

「これまで食べたもので一番うまかったのは?」

3位がカレーライス、2位がチョコレート。

1位は、何と「白米」。

育ちざかりに、彼らはコメのごはんを腹いっぱい食べられなかった。

ましてや、江戸時代、粗食ではあるが三食絶つことは、飽食世代の私の理解を超えるものがあるようだ。

石碑の後ろに、さいたま市教育委員会制作の解説版がある。

以下全文。

「不食供養塔は、大宮市内では、大変、数の少ない石造物の一つです。不食供養という民間信仰は、毎月特定の日に何も食せず、3年3か月間にわたり念仏を唱える修行をするというものです。この不食供養塔は、江戸時代中頃の元禄16年(1704)に新堤村の長嶋八郎右衛門が信仰の成就を記念して造立したものです。信仰の詳しい内容は分かっていませんが、食を絶っての信仰があったことは確かなようです。市内では、西部地区の三橋や清河寺で同様な信仰があったことが知られています。
東西の道は、大宮と岩槻を結ぶ昔からの道で、国道16号が開通するまでの主要道路であり、見沼代用水東縁の半縄河岸や岩槻の町との行き来には必ず利用した道です。南は七里小学校前を過ぎて日光御成道に合流し、浦和市大門や鳩ヶ谷方面に続いています」

 道路は、大宮ー岩槻を結ぶ旧岩槻街道。

道の向こう電柱脇の道を入って約10mに不食供養塔がある。

 解説板によれば、月に一度、3年3か月続けるというから計39回、不食念仏をして、この供養塔を建立したことになる。

 どうせなら岩槻街道に面して建てればいいのに。

 どんな理由があるのだろうか。

②地蔵堂(さいたま市大宮区三橋1)

「三橋1丁目自治会館」の背後に地蔵堂はある。

この自治会館も、元は寺かお堂だったのではなかろうか。

工事の人たちがお堂の前で昼食中で、中途半端なアングルになったが、正面が地蔵堂、右が自治会館、不食供養塔は入ってすぐ右、門柱の脇に月待の如意輪観音と並んである。

石塔の右上部分が欠けている。

持参の資料写真には、接着しなおした跡があるが、また、剥がれたようだ。

資料「青木忠雄『埼玉県大宮の不食・無食供養塔』(『史跡と美術』NO451)は、1975年刊。

40年もの間、変化があって当たり前。

欠けた部分を探したが、見当たらなかった。

欠けた部分の上部には、大日如来の種子大日如来(金剛界),バン(バーン)があり、右には「奉造立不食供養」と刻されていたはずです。

左には「正徳元辛卯年霜月吉日」。

下部に、9名の男の名前。

この不食供養塔を造立した講のメンバーで、中央の「念心」はリーダーの僧侶ではないかと青木氏は推測しています。

 

これまで、1はさいたま市北東部、2はさいたま市北央部にあった。

3以降は、さいたま市北西部に固まっている。

さいたま市の旧大宮市、その北部に、なぜか、不食供養塔は「密集」しているのです。

 

3、清河寺(さいたま市清河寺)

山門をくぐって右に丸彫り地蔵と六地蔵に挟まれて、無食供養塔はある。

主尊は、地蔵菩薩立造。

舟形光背に半肉彫に浮彫されている。

隠刻文が読みにくいが、「無食供養仏武州足立郡」とあるらしい。

「不食」ではなく、「無食」だが、意味する所は同じ、「食べずに」念仏に励むこと。

講中45人によって、元文6年(1741)正月吉日に建立された。 

 

清河寺から南へ。

指扇(さしおうぎ)という雅な地名に入る。

川越線の「西大宮駅」の西約200mに大木戸薬師堂がある。

4、大木戸薬師堂(さいたま市西区指扇)

 薬師堂の左に墓地。

その一角に墓標ではない石造物群の一画がある。

蓮台に乗った大日如来が塔の上半分に坐すのが、無食供養塔。

蓮台の下中央に「奉造立大日如来石像毎月一日無食修行三年三月成就所」。

無食念仏とは、毎月1回、丸一日食物を口にしないで念仏を唱える修行を3年3か月続けることだということが分かる。

造立は元禄13年(1700)11月吉日。

十誉是心という僧侶を願主として、女性ばかりの施主名が30人近く刻されている。

「おみつ、おゆう、おみや、おたけ、おたつ、おくら、おつる・・・」

〇〇子が一人もいない。

下に「子」がつく代わりに、上に「お」がついている。

最近は〇〇子が少なくなった。

流行の波が昔に戻っているということか。

隣の如意輪観音が十九夜講の講中の造立なので、十九夜講とは別な、女性だけの不食念仏講があったものと思われる。

 薬師堂の右は地区の集会場だろうか。

殺伐とした建物が、ドテッと横たわっている。

前の道路が狭くて、全景が収まらない。

2枚に分けた2枚目の右端に六地蔵があるのが分かる。

六地蔵は、普通、墓地の入口におわすものだが、ここでは何故か、墓地と反対側にポツンと六地蔵だけが在す。

そして、この六地蔵が、無食念仏供養塔なのです。

しかし、涎かけが何枚もかかっていて、像容と刻字が分からない。

仕方なく、涎かけを外す。

 

 刻銘は2体が同銘、別文で4体が同銘と分かれている。

2体同銘の銘文は、地蔵立像の右に「寛保三癸亥八月吉日大木戸村壹村」

左に「無食供養 施主廿二人」。

そして、4体同銘の刻文は、地蔵の右に「大木戸村壹村」、

左に「無食供養 施主廿二人」と刻されている。

 

薬師堂を後にして川越線を渡る。

人にきいて、聞いて、訊いて、やっとたどり着いたのが、

5、華蔵寺墓地(さいたま市西区指扇3529-2)

「華蔵寺はどこですか」。

訊いた人、皆「そんな寺は知らない」。

知らないのも当然、ないのです。

私が利用するgoo地図には、卍華蔵寺とあるので、あるものと思い込んでいた。

 

 

広い空き地の一角に墓地。

寺の境内だったかもしれない、そんな広さの空き地。

ある家の墓の横に、ポツンと所在無げに無食供養塔がおわす。

高さ1m15cm、舟形光背に地蔵菩薩立像が浮彫されている。

 

設立は、延享元甲子(1744)八月吉日。

施主として、個人名はなく、「大西村、増永村」とあるから、無食念仏講があったのではないか。

「大西村、増永村」は指扇村内の隣り合った組である、と青木資料にはある。

『新編武蔵風土記』には、華蔵院は天台宗となっている。

 石仏地蔵としては、きわめてありふれた像容で、誰もが目を留めて刻文を読むことはないだろうから、これが極めて珍しい「無食念仏供養塔」だとは気がつかないだろう。

市の指定文化財の価値はありそうだが、いかがなものか。

6、神宮寺墓地(さいたま市西区指扇赤羽根)

 指扇に赤羽根というバス停がある。

さして広くない赤羽根の神宮寺墓地だから、すぐ見つかるものと楽観視していた。

とんでもないことで、何軒か訊いて回ったが、誰も知らない。

交番でも調べてもらった。

地域を巡察している巡査も、そうした墓地は見たことがないという。

訊いて回る家を昔からの地元の農家に限定することにした。

5軒目の御主人に反応があった。

知ってはいるようなのだが、私の目的が何なのか、警戒して口が重い。

石仏めぐりを趣味とする者が、世の中にはいることを初めて知ったようで、納得。

35度の真夏の日差しの中、現地まで案内してくれた。

住宅に囲まれたような畑の奥に7基の石造物が並んでいる。

これでは、巡察の巡査も地元の人たちも分からないのも無理はない。

一番左が、目的の無食念仏供養塔。

その右は「大乗妙典一千部供養塔」。

この2基は、神宮寺という寺の境内にあったのではないか。

後の5基は無縫塔を含めて墓標だから、神宮寺の墓地にあったものと思われる。

それにしても墓地跡にしては、墓の数が少ないのは何故か、不思議だ。

改めて、無食念仏供養塔を見てみよう。

基台基礎請花に117㎝の丸彫り地蔵。

基礎台石正面中央に「無食供養」。

その右に「寛延元戌辰」

左に「神宮寺 講中二十五人」とある。

 これで、さいたま市北部に残る不食(無食)供養塔を全部紹介したことになる。

7基のうち、4基はすべて指扇地区にあり、4基とも地蔵を本尊とするのが興味深い。

青木氏によれば、江戸時代、指扇村は、大木戸、台、増永、大西、赤羽、下郷、五味貝戸の7組で形成されていたが、下郷、五味貝戸を除き各組から無食供養塔があることから、地域的流行があったのではないかと指摘している。

 

≪参考資料≫

〇青木忠雄『埼玉県大宮の不食・無食供養塔』(『史跡と美術』第451号・昭和50.1所載)
 参考というよりも丸写しです。


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2 コメント

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湯殿山信仰 (ishida)
2014-10-15 10:05:48
 不食塔が旧大宮市にあることは知っていましたが、七里の不食塔しか実見したことが無かったので、写真で7基も見られてラッキーでした。この信仰は元々は湯殿山信仰が絡むと云われています。松中さんが40番にアップされている「つくば市周辺の鼻の大きな大日」と同じ根っこのもののようです。寛永期から湯殿山の行人達は関東の檀那場拡張の為、多様な民間信仰を考案して広めたようです。「鼻の大きな…」の供養塔の多くは「時念仏」の講が造立しています。時念仏の「時」は→「斎」とも書かれ、食事のことを言うようです。勤行の後に僧侶と食事を一緒にすることを指すと云われていますが、そんな簡単な修行であんな時念仏塔を何十人もの人々が造立する訳はないので、元は多分、大宮のように断食修行だったのだろうと私は考えています。千葉県には出羽三山信仰がからむ「八斎戒念仏塔」なんてものもありますが、これも断食が組み込まれた修行です。
 大宮は後半に「地蔵菩薩」が主尊になった無食塔が出てきますが、「岩船地蔵」が流行した享保年間から地蔵の人気が出てきたのと、主導する僧侶の宗派が違ってきたことも影響しているのではないでしょうか。
 チョット気になったのは4番の無食塔の隣に写っている如意輪塔を「十九夜講」の造立と書かれていますが、本当に十九夜塔なのでしょうか。武州は利根川左岸地域以外は十九夜はないと思っていましたが、私の認識不足だったのかもしれません。
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ご教示に感謝 (eicyu M)
2014-10-15 19:00:46
不食塔から湯殿山信仰、時念仏へと展開される断食修行論、勉強になりました。isidaさんのコメントがつくことで、私の駄文が格調高くなったような気がします。
十九夜講については、私にそう判断する能力はないので、資料に書いてあったものと思います。今、チェックしようと探しましたが、見当たらないので、確言できませんが。
長文のご感想とご指摘、ありがとうございます。
ひまつぶしの趣味として私はこのブログを作成しています。素人ですから、無知による間違いは不可避でしょう。ご指摘くあれば、素直に受け入れて、訂正するつもりです。
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