三田寺町には、二つの顔がある。
交通量の多い桜田通りに面した賑やかな通りとその裏通りの静謐な空間、相反する二つの表情が混在しています。
台地の町だから坂が多く、坂が町に立体感を与えて、表情を豊かにしています。
坂を三田寺町の地形的特徴とすれば、寛永年間、八丁堀から移転して来た寺が多いのが、歴史的特徴です。
関東大震災と東京大空襲の被災から免れた、東京でも稀有な町で、所によっては、江戸と明治の匂いが残ったりしています。
明治以降、移転、消滅した寺は17か寺、それでもまだ33もの寺が密集する三田寺町を今回は歩きます。
工藤寛正『東京お墓散歩』より無断借用
地下鉄「三田駅」から西へ。
国道1号の「三田2丁目」交差点を国道沿いに渡ります。
右に慶應大学正門が見えると、すぐ左に「安全寺坂」の標識。
「安全寺坂」を上って行くと、すぐ右に「長運寺」が見えます。
1 日蓮宗・長運寺(三田4-1-2)
寺が見えるというよりも乗用車が見える。
左に墓があるから寺だと分かる、そんな建物なのです。
題目塔に刻されている山号と寺号を読もうにも車があって近寄れない。
墓地の向こうの屋根は、次に行く大松寺の屋根です。
坂の多い寺町だから、屋根が下に見える、こうした光景は珍しくありません。。
2 浄土宗・大松寺(三田4-1-38)
台石に「布屋」の墓がある。
更科蕎麦布屋太兵衛の墓。
私の勤め先は、麻布十番の近くにあった。
だから、お昼には「麻布永坂更科本店」、「永坂更科布谷太兵衛」、「総本家更科堀井」のどれかによく行った。
なぜ麻布十番に3軒もの更科蕎麦屋があるのか、何度も訊いて、その都度忘れた。
本気で知りたいと思わなかったからだが、商号を巡って、裁判沙汰になるほどの、欲得が絡んだややこしい事情があった、せいでもあるのです。
もう一つ、個人的に関心のある墓があります。
旗本曽根吉正の墓。
彼は、佐渡奉行の一人でした。
プロフィールにもあるように、私の故郷は佐渡が島。
佐渡に関連するものならなんでも、つい、足を止めて観てしまう。
ましてや佐渡奉行、素通りはできません。
佐渡奉行は、短期滞在の中央高級官僚。
顔は江戸に向いたまま、島民のことなど眼中にない奉行の中で、曽根吉正は民政にも力を入れたと評価されています。
墓地の片隅に彫りのいい如意輪観音。
寛文の頃の富裕層の女性の墓標でしょうか。
無縁仏として放置されています。
寛永12年、八丁堀から移転してきた寺の墓地らしい石仏です。
3 天台宗・西蔵院(三田4-1-34)
本堂前の広いスペースには、気持ちいいほど何もない。
真宗だと珍しくないが、天台宗だから「なぜ?」と頭を傾げてしまう。
石仏、石碑の代わりに、本堂改修工事の寄付者一覧の看板がある。
100万円から8万円まで、寄付者95人。
港区以外の23区在住者が目につく。
檀家が寺から遠くなっていることが分かります。
4 真言宗豊山派・長延寺(三田4-1-31)
国道沿いにあるのだが、余程注意していないと通り過ぎてしまいそう。
表示があるから立ち止りはしたが、見てもマンションらしき建物があるばかり。
「無断駐車禁止」の看板に寺院参道とある。
どうやらこの細長い空間が参道のようだ。
参道を行く。
突き当たりのビルの1階というか半地下が本堂。
本堂に向かって右手が細長い墓地になっている。
墓地入口に「第八十番札所」の石碑。
薄汚れて汚らしいが、ここが御府内八十八ケ所の札所であることを示す標石です。
「御府内」とは、江戸城を中心に町奉行の管轄下にあった地域のこと。
単純に東京の中央部と考えればいい。
三田寺町には、御府内八十八ケ所札所が4か寺あって、その内の3か寺は隣り合っています。
桜田通りから見て、左から「長延寺」、「宝生院」、「大聖院」。
歩き疲れたお遍路さんたちには、好評の3か寺だったに違いない。
なにしろ歩かなくて納経帳が埋まるのですから。
歴代住職の墓の一つの台石に寛永21年の文字。
東京では、寛永が銘記されている石造物は多くありません。
そういえば、この長延寺も寛永12年八丁堀から移転して来た寺なのです。
5 真言宗豊山派・宝生院(三田4-1-29)
本堂は白壁の土蔵造りで、江戸期の防火建築。
境内は、ガランと広い。
右隅に4本の石碑。
隣のマンションの洗濯ものが寺院の雰囲気を損ねている。
ひょろ長い、中の2本は、なぜか、力士の記念碑。
両方とも「陣幕」名だが、別人です。
向かって右は「寛政九季東方大関陣幕島之助碑」。
関脇の時、雷電をのどわで破ったことで、一躍、有名になった。
左は「日下開山横綱力士陣幕久五郎碑」。
陣幕島之助より50―60年遅い幕末の横綱。
藩籍奉還でスポンサーを辞める藩が続出、横綱として満足に土俵を務められなかったと言われています。
左端の「弘法大師」文字碑は、宝生院が御府内八十八ケ所の札所であること示す標石。
天保5年(1838)3月21日の日付。
当時は、参拝する巡拝者引きも切らず、だったに違いありません。
6 真言宗智山派・大聖院(三田4-1-27)
長延寺よりもっと判りにくい。
プレートがなかったら誰も寺だとは思わないだろう。
玄関前の車越しに石造物がちらと見える。
近寄って見たら、狭い坪庭風空間に数基の石仏がおわす。
札所の標石も右端に肩身狭そうに立っている。
「ビルにするのもいいけれど、もっと境内を広く取ればいいのに」。
そう思いながら本堂に入ったら、思いのほか広くて明るい。
関東大震災で本堂は倒壊したが、本尊は無傷だったという。
御府内八十八ケ所霊場第六十五番札所。
応対してくれた若い住職(?)によれば、参拝者はウイークエンドで多くて10組、平日はちらほらだそうだ。
「テレビや新聞で取り上げられると途端に多くなります」。
世の中というものは、そういうものなんだ。
7 天台宗・幸福寺(三田4-2-16)
次の幸福寺へは、桜田通りから左に入るのだが、その入り口に数体の石仏がおわす。
中にひときわ大きな聖観音立像。
正光寺と明暦二年という文字が読み取れるが、現在、三田寺町に正光寺はない。
上の地図の左下の「地図」をクリックすると別な地図になる。
その上の「古地図」から「明治」をクリックすると明治時代の三田寺町になる。
ここにも正光寺はないから、江戸時代に廃寺になったのだろうか。
三田寺町以外の土地から持ってきた可能性は低いように思う。
幸福寺は、一般民家と変わらない。
なにもかも火事類焼で焼失したので、過去の事は判らないと言いながら、嘉祥元年(848)、慈格大師創立という。
墓地はない。
だから墓もない。
8 浄土宗・願海寺(三田4-2-10)
実は、三田寺町は3年前の10月にも訪れている。
その時、願海寺には墓売り出しの看板が出ていた。
墓地の空き地にぽつんと新しい墓が立っていた。
2013年10月撮影
その記憶があるので、今回、同じ場所で写真を撮ってきた。
2010年10月撮影
3年前とそんなに変わっていないようだ。
高台だから見晴らしがいい。
日当たりもいい。
アクセスも悪くない。
そんなに値段が高くもなさそうだ。
なぜ売れないのだろうか。
9 曹洞宗・慈眼寺(三田4-3-24)
桜田通り越しの願海寺(左)と慈眼寺(右)。
ぽつんぽつんと民家を挟みながら寺が続く。
ビルの寺が続くと願海寺や慈眼寺に来るとなぜかほっとする。
慈眼寺は、石仏が多い。
工事をしている。
五重塔の建築中だった。
モデルの五重塔はなく、オリジナル設計の塔
3年がかりで来年の春には完成の予定と職人さんが話してくれた。
復元東京駅や新歌舞伎座建築に携わった匠たちの労作だという。
10 浄土宗・林泉寺(三田4-3-20)
永禄年間(1558-69)、山城国伏見で創設、家康入府に伴って神田へ。
寛永12年、他の寺と共に八丁堀から現在地に移転してきた。
寺院ビルの下の駐車場の高級乗用車のナンバーは「・・・1」と「・777」だった。
「それがどうした?」と言われると困るが、これも情報の一つ。
境内坪数は約1200坪。
この界隈では広い方に属する。
都心の寺の墓地らしく、せまい通路に向かい合って窮屈そうに整然と墓が並んでいる。
11 浄土宗・随応寺(三田4-6-19)
山門を入ると広い空間。
参道なのか境内なのか。
右側に無縁石仏の群れ。
本堂への道は閉ざされている。
シャッターのすぐそばに地蔵堂。
六地蔵が背中合わせで立っている。
石幢六地蔵はあるが、こうした六地蔵は珍しい。
資料では、これとは別に秘仏としての地蔵尊があるそうで、この秘仏が夢枕に立って住職に教えたのが、薬の作り方。
実母散という薬の製造には、住職自らがこれにあたり、昭和19年まで、製薬されたという。
この随応寺の角を左折すると幽霊坂。
三田寺町は東から西へ台地が流れ落ちている。
だから東西に走る道は、どれも坂道。
幽霊坂は都内に10いくつかあるのだそうだ。
この幽霊坂は、両側が墓地でいかにも幽霊が出そうな坂だから、だという。
40-50年ほど前まで、坂の上から麻布方面が良く見えていた。
今はまるで眺望が悪い。
眺望については、坂の上の台地からの東側の景色も同じ。
海がまるきり見えなくなってしまった。
12 浄土真宗・忍願寺(三田4-7-30)
石仏巡りを始めて5年、寺社があればのぞいてみる癖がついた。
そうした私も、真宗寺院は素通りすることが多い。
真宗寺院には石仏がないからです。
忍願寺も例外ではない。
道路からパチリと撮って、お終い。
墓地へ行ってみたかったが、「関係者以外立ち入り禁止」の空気が漂っていて、諦めた。
後刻、清久寺へゆく途中、忍願寺の裏口があったので、入ろうとしたが鍵がかかっいた。
猫が一匹、門番のように横たわっている。
門番のくせに昼寝をしていた。
結局、裏門の横から墓地を撮影。
坂の多い土地は嫌いだが、たまにはいいこともある。
13 浄土宗・長松寺(三田4-7-29)
山門への坂の参道わきに「史跡荻生徂徠墓」の石碑。
三田寺町の紹介も長松寺で13か寺目。
それなのに、これまで有名人の墓は「陣幕」名の二人の力士の墓だけ。
墓地と墓が多い割には、有名人の墓が少ないのも、三田寺町の特徴かも知れません。
資料によれば、長松寺は震災にも戦災にも遭わなかったとのこと。
古い建物をイメージしていたのだが、鉄筋コンクリートの本堂でした。
墓地入り口に座す丸彫りの阿弥陀如来石仏が素晴らしい。
荻生徂徠の墓はこの阿弥陀さまの後ろにあります。
兄弟、親族の墓の中央に「徂徠物先生之墓」。
物は、一族の氏の物部氏からとったもの。
しゃれで「物徂徠」などと自ら名乗っていたという。
ちなみに名は雙松(なべまつ)、字(あざな)は茂卿(しげのり)、徂徠は号でした。
この他に通称もあったというから、江戸の人は大変だった。
彼の通称は「惣右衛門」。
仕えていた柳澤吉保が失脚し、柳澤家を出た徂徠が居を構えたのが、茅場町。
お隣さんは、俳人宝井其角の家でした。
ここまでの長い説明で、やっと、次の句が理解できるというもの。
梅が香や隣は荻生惣右衛門 其角
とぼけた句だ。
徂徠本人も、とぼけた人物だったらしい。
臨終に参じた枕頭の親族にこう囁いたという。
「早く表に出てみろ。五色の雲がでているはずだ。聖人の死には、五色の雲が出るとの昔からの言い伝えだ」。
ここでもう一度、最初の地図を見てほしい。
桜田通りを北から南へ、長松寺まで来たところです。
ここでUターン、願海寺まで戻ります。
そして、願海寺から南へ伸びる桜田通りに並行する中寺町通りを南下します。
中寺町通り 左は明福寺駐車場
14 浄土真宗大谷派・明福寺(三田4-4-14)
八丁堀から移って来た寺が多い中で、明福寺は麻布谷町から移転してきた。
天明元年(1781)というからかなり遅くなってのことです。
山門から境内をのぞいて石造物が皆無なのを確かめて立ち去る。
15 真言宗豊山派・明王院(三田4-3-9)
御府内八十八ケ所霊場の第八十四番札所。
どっしりした山門は、何度かの火災、震災と戦災を無傷で生き延びて、江戸時代のまま。
その山門を入ると左にほぼ等身大の弘法大師さま。
どこかのおっさん風で親しみやすく、聖人らしからぬお姿が魅力的です。
大量生産の、決まったパターンのお大師さんばかり見てきた目には、新鮮に映ります。
弘法大師の横に四つの石。
「阿波」、「土佐」、「伊豫」、「讃岐」と刻してある。
文字通りのこれで、四国。
四国八十八ケ所霊場の「お砂踏み」の変形だろうが、面白い趣向だ。
参道を下りてゆくと左に小屋掛けの石仏が3体。
右のお地蔵さんが、今にもとろけそう。
塩害で同じような姿の塩地蔵を何体か知っている。
「もしかしたら塩地蔵?」と境内にいたお寺のご婦人に聞いたが、否定された。
「石が柔らかいから」とおっしゃるが、そうなのだろうか。
明王院の本堂には上がってみたかった。
事前の下調べで、本堂外陣の格天井には240枚もの絵が嵌め込まれていることを知っていたからです。
港区教育委員会『三田寺町の江戸建築』より
しかし、本堂の扉は閉まっている。
扉の格子ごしに中を覗く。
本堂の引き違い戸の格子の間にレンズを入れて撮影
たしかに天井に絵が見える。
本堂の柱に「らくごのつどい」の張り紙があった。
こうしたイベントを本堂でやる住職なら、本堂に上げてくれるかも知れないと、期待して庫裏の呼び鈴を押したが、答えはNO。
残念。
天井画を調査した港区教育委員会の報告によれば、天井画が描かれたのは、文化ー文政(1815-1821)の頃。
すべて信徒の寄進によるもので、その半数は三田、芝の住人。
庶民の寺であったことが伺えます。
とはいっても半数弱は武家。
中でも阿波と土佐の寄進者が多いのは、藩邸が三田にあったからだろうと港区教委は推測します。
港区教育委員会『三田寺町の江戸建築』より
私の目を引いたのは、「佐州 松村廣太郎」の一枚。
佐州とは佐渡のこと。
なぜ、佐渡からの寄進者がいるのか。
松村なる人物は佐渡で何をしていて、明王院といかなる関係があったのか、関心は深まるばかりです。
次回は、残りの寺院紹介。
参考図書
○俵元昭『港区史跡散歩』1992
○柘植粂次郎『わが街の歴史』平成2年
○『港区史(上)』昭和35年
○港区教育委員会『三田と芝ーその1-』、『その2』
○港区教育委員会『三田寺町の江戸建築』
○港区立港郷土資料館『江戸の大名菩提寺』
○工藤寛正『東京お墓散歩』
○和田信子『大江戸めぐり御府内八十八ケ所』2002年
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