北一輝顕彰碑の左隣は、勢至堂。
堂前まで行けるが、直前で鉄柵で遮られて、近づけない。
説明板には、「目黒区有形文化財」とある。
「瀧泉寺勢至堂(区指定文化財・昭和59年3月31日指定・下目黒3-20-26)…
龍泉寺勢至堂は江戸時代中期の創建とみられ、勢至菩薩像が安置されています。建築各部にわたって後世の改変が甚だしいですが、全体的な形姿や細部絵様に優れた意匠の特質を保存しており、その姿に寛永中興期の龍泉寺の面影を残しています。向かって右の前不動堂(都指定文化財)との関連をみると、勢至堂は前不動堂より建築意匠上の格は低いものの、細部に類似性が見られることから、勢至堂は前不動堂の建立からそれほど時間のたたない内に、前不動堂を意識して造営されたと推察できます。現在の場所は創建当初からのものではなく、以前は前不動堂の前方にありましたが、昭和44年に行われた前不動堂の修理後に移されました。今では南斜面の緑の中に溶け込み、龍泉寺境内の優れた景観を形成しています。平成21年3月目黒区教育委員会」
阿弥陀三尊の脇侍としては良く見かけるが、勢至菩薩を単独ではほとんどお目にかかることはない。
なぜ、ここにおわすのだろうか。
その左隣には、作曲家・本居長世の顕彰碑。
小川を模した水の流れの向こうに黒御影の「本居長世の碑」。
名曲『十五夜お月さん』の五線譜が刻されています。
彫り込まれた本人写真は、眉目秀麗、貴族的雰囲気だが、先祖が本居宣長、祖父が大正天皇の侍講という家柄だから、当然か。
『童謡は第一流の詩人が子供のために詩を書き第一流の音楽家が曲を付けた世界に誇る日本の児童文化財です。本居長世は音楽学校で中山晋平、弘田龍太郎を教えるかたわら「七つの子」「青い目の人形」「赤い靴」「めえめえ小山羊」「お山の大将」のような作品を自身作曲して世に送りました。ことに大正9年、野口雨情の詩に作曲した「十五夜お月さん」はいかにも日本的な旋律に変奏曲的な伴奏を配したもので、この種の先駆的作品として重んじられました。本居はこれらの曲を作ったころ、この目黒不動のすぐ隣に住んでおり、月の夜この寺の境内を散歩しながら想を練ったことでしょう。今ここに氏の曲の碑を建てて、氏の功績を記念したいと思います。本居長世を慕う会 童謡の里めぐろ保存会』
私は、今年(平成30年)、明治大学リバティアカデミー春講座「唱歌・童謡にんげん史」を受講した。
講師は、音羽ゆりかご会会長・海沼実。
本居長世についてのエピソードで印象的だったのは、戦時中、好戦的歌曲がもてはやされる中、その時代の潮流に顔をそむけた本居長世には、仕事の依頼がなく、命より大事なピアノを売って、飢えをしのいだという話。
ちなみに、北原白秋も「陸軍の御用詩人ではない」と軍国歌謡への協力を拒否したという。
もちろん、流れに掉さしたものもいるわけで、その代表は、山田耕筰。
そのありようは、戦後、戦犯論争にまで発展した。
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