石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

67  銀座八丁神社めぐり

2013-11-16 05:45:52 | 神社

私はカラオケが好きで、よく歌う。

だが、どの歌手の歌も、というわけではない。

決して歌わない歌もある。

石原裕次郎や加山雄三の歌は、まず歌うことはない。

 

彼らは私とほぼ同年輩だから、貧しい戦後の空気を吸って育ってきたはずである。

そこは一緒だが、二十歳を過ぎて、当方が貧乏学生をやってる頃、彼らは湘南でヨットを乗り回していた。

反発こそすれ、彼らに憧れることなど決してありませんでした。

価値観を共有できそうもない歌手の歌は敬遠したい、というのが本音です。

 

 

そして、銀座という街にも、同じ敬遠の気持ちがあります。

銀座へ行きたい、とはまず思わない。

所用で行くことはあるけれど、居心地が悪い。

自分の居場所ではないように感じて、早々に退散してしまいます。

「憧れの銀座」という歌の文句があるけれど、「憧れの」心情は私には皆無でした。

田舎者のひがみ根性と言われれば、それまでですが。

 

今回のブログのタイトルは「銀座八丁神社めぐり」。

では、好きでもない銀座をなぜ歩くのか。

それは、銀座がメトロポリタン東京の中核であり、ということは、近代化、都市化の極致だからです。

一般的には、合理主義の近代化は、非合理の伝統宗教を蔑ろにしてきたといわれています。

都市化は開発を進める中で、伝統宗教施設を無用なものとして排除するきらいがありました。

都市化はまた、「家」を解体し、地域をずたずたにしました。

それは、氏子や檀家組織の衰退をもたらし、寺社の存続を危うくした、とみられています。

でも、実際はどうなのか、銀座を歩いてこの目で確かめてみようというわけです。

まず、上記の一般論は、銀座には当てはまらないことが判ります。

神社がいくつもあるから、神社めぐりがい出来るのですから。

「銀座八丁神社めぐり」は、銀座まつりのイベントとして毎年行われてきました。

イベントになるのは、銀座の神社が有名だからではなく、珍しいからです。

あるとは思いもしなかった神社が銀座にある!という驚きでしょう。

今年の銀座まつりの期間は、11月1-3日。

私は、2日(土)に出かけました。

有楽町線銀座一丁目駅を出て、京橋方向へ。

2,3分で並木通り。

①幸稲荷神社(銀座1-5)

  写真は、ブログ「神社ぐだぐだ参拝録」より無断借用

幸(さいわい)稲荷神社といえば、朱色。

鳥居も社殿も社殿を囲む金網もすべて朱色の幸神社は、今は、ありません。

隣接地にビルが建設中で、現在は赤坂日枝神社に遷座しているとか。

建設現場に小さな張り紙がありました。

「日ごろから幸稲荷神社にご参拝いただきありがとうございます。
 幸稲荷神社は、江戸時代から銀座一丁目のわが町に祀られ、縁結び、商売繁盛、家内安全にご利益があることで知られています。
このたび、新ビル建設工事のため、幸稲荷神社のご神体は三月に遷座祭を執り行い、現在、日枝神社の本殿にお祀りいたしております。
日枝神社の神職の方のお話によりますと、日枝神社の方角(日比谷公園方向)へ遥拝下されば、皆様の願いが通じるとお伺いいたしました。よろしくお願い申し上げます。
なお、幸稲荷神社は、平成二十六年初秋、新ビルの東側に社殿を新設しご遷座いただく予定です。
銀座西一丁目町会」

ほかの神社と同様、幸神社の縁起を記した古文書はない。

何度かの火災で焼失したのか、初めからなかったのか。

しかし、文書のあるなしにかかわらず、地元の人たちの信仰心は篤く持続してきました。

その篤い信仰心は、東京大空襲で焼け野原になった翌年の昭和21年に、幸稲荷神社が再建されたことに伺われます。

張り紙にあるように、幸稲荷神社の管理者は町会です。

都市化の波に翻弄され、地域社会が崩壊したと思われる銀座で、町会が管理する神社があることは奇跡にすら思えます。

この幸稲荷神社の小路に小料理屋を構えていたのが、女流俳人の鈴木真砂女。

彼女は2003年、96歳で亡くなりますが、小料理屋「卯波」は孫が継いで、現在も営業しています。

彼女には何冊も著書があるが、必ず、幸稲荷神社が登場します。

角の幸稲荷は江戸時代からあり、昔太刀の市がたったとかで太刀売稲荷と呼ばれていたそうだ。銀座一丁目の護り神で、初午のときは、その店相応の寄付をするのだが、表通りと路地では額が違う。初午以外に年に二回ほどお祭りがあるので、路地住まいは一回の寄付は二千円ということにしている。私は至って無信心だが、このお稲荷さんには毎晩十円あげて拝んでいる。もう三十年続いている。

水打って路地には路地の仁義あり 真砂女」 (『お稲荷さんの路地』、『銀座に生きる』)

 

②銀座稲荷神社(銀座2-6)

 二番札所の銀座稲荷神社は、いつもは越後屋呉服店屋上に祀られています。

 

                 屋上の銀座稲荷神社(越後屋呉服店HPより)

銀座祭の3日間だけ、仮社殿が越後屋呉服店ビルの1階ロビーに設けられます。

今年は一番札所の幸稲荷神社が不参加のため、神社めぐりをここからスタートしようという人が多く、私たちが到着した時も参拝者の行列ができていました。

神社というよりは小祠、もしかすると神棚のような社にお参りした後、もう一度並ぶのは「集印帳」をもらうため。

全札所のスタンプが揃えば、来年の干支、午の土鈴が記念品として進呈されるという粋な趣向。

ところで、越後屋呉服店は、三越の前身の越後屋とは別の呉服店です。

伊勢に本店があった三越越後屋呉服店に対し、こちらは文字通り越後の人が創業したもの。

銀座稲荷神社の由来についての記述が、会社のHPにあるので、ご覧下さい。

http://www.ginza-echigoya.co.jp/introduction/

③龍光不動尊(銀座3-6 松屋屋上)

 銀座神社めぐりの大半は稲荷神社だが、三番札所はお不動さんです。

しかも、松屋デパートの屋上にあります。

 エレベータで屋上へ。

ビルの屋上らしからぬ木々が茂る緑の区画があり、そこに龍光不動はいらっしゃる。

参道入り口には幟がはためき、紅白幕が祭のムードを醸し出しています。

龍光不動に向かって左に、縁起を刻した石碑がある。

茲に安置する龍光不動尊は、高野山龍光院に示現ましまして七百の星霜を経たり。此間我身を見んものには菩提心を発さしめん。我名を聞かんものには惑を断じ善を修せしめん。大智慧を得しめん。我心を知らむものには即身に成仏せしめん。(略)大聖不動明王は諸仏の師なり。茲を以て此家を守るもの此家に出入来往するもの茲に奉賛して須臾も誠を懝さば転じがたき障りも忽ちに転ぜん。刹那の憑みを懸くれば無量の所求も円満せん」。

龍光不動尊を奉ずれば「転じがたき障りも忽ちに幸いに転じ、無量の願望もかなえられ家内円満、商売繁盛」になる、らしい。

なぜ、稲荷ではなく、不動明王なのか、その理由は不明だが、とにかく松屋の創業者古屋徳兵衛は信仰熱心な人でした。

商売人でありながら、彼のモットーは「一に神様、二にお客、三に問屋様」。

毎朝、朝日に敬虔な祈りをささげ、四方の神々にその日の無事繁栄を祈念したと伝えられています。

その信仰の篤さは、松屋一階天井に見ることができます。

DiorとLouisvuittonの間は、松屋北玄関の通路。

その天井にモダンデザインの様に金色に輝くオブジェは、梵字。

これは多聞天を表す梵字で、多聞天は北方を守護する役割を担っています。

当然、東に持国天、南に増長天、西に広目天が配置され、松屋の四方を守護しています。

     西隅(広目天)

      南隅(増長天)

この四天王梵字は、昭和39年の銀座本店大改築に当たり取り付けられました。

     東隅(持国天)

デパートの内部は、しばしば改装される。

改装が梵字にかかる時は、梵字をその都度、深川不動尊に遷座させるというから、本格的です。

松屋本店へ行く機会があったら一階天井を注視してください。

 

④朝日稲荷神社(銀座3-8)

 

 朝日稲荷神社の由緒は昭和27年(1952)に文書化された。

そこには、「安政の大地震で埋没したご神体が、関東大震災で三十間堀の川底が隆起して顕われ、それを祀った」と書かれている。

しかし、銀座三丁目に生まれ育った人たちの記憶では、震災前に三十間堀の朝日橋の袂に神社があったということで、由緒は不確かなままです。(石井研士『銀座の神々』)

終戦後間もなく、三十間堀は埋め立てられ、それを契機に朝日稲荷神社は安住地を失い、昭和59年(1984)、現在地に安住するまで、転々と場所を変えました。

   まだ埋められていない旭橋、向こうは三原橋
   
 HP「ハマちゃんのがらくた箱」より無断借用

この頃の朝日稲荷神社についてのエッセイがある。

三丁目と四丁目の間の通りに以前から気になっているものがある。松屋の裏の道に面した、車庫付きの稲荷社である。四角いコンクリート造りの車庫の上に、赤い柱のお稲荷さんが載っている。どういうわけで、こんな形になっているのか。長い間の疑問に決着をつける気になり、銀座三丁目の町会長木田孝一氏(煉瓦亭主人)を訪ねた。三十間堀が昭和20年代に埋め立てられ、社の行き場がなくなって、町会は、土地を都から払い下げてもらい、町会員のための車庫を作り、その上にお稲荷さんを祭り上げたのである」。(石丸雄司『私の銀座風俗史』2003)

 

      「銀座八丁神社めぐり」の人々は、ビル1階の壁面に設えられた拝殿に参拝して帰りますが、実は朝日稲荷神社には、高層ビル街銀座にふさわしい工夫が凝らされています。

通行人の参拝を可能にするために拝殿は1階に、本殿は屋上に配置されているのです。

ビルのエレベータへ。

エレベータ脇に各階案内表示がある。

屋上に朝日稲荷神社本殿とある。

自由に参拝していいようだ。

屋上に上がる。

本殿のバックに銀座のビル群。

幟越しに見下ろす通りなどは、銀座の神社ならではの光景。

こうした天空の神社誕生には、神社の崇敬者と神社本庁との度重なる折衝がありました。

「社殿は地面につながり、社殿の上は空でなければ神社として認められない」という神社本庁の基本方針に反することはできなかったからです。

斬新なアイデアも具現化されました。

通りに面した拝殿から外壁を伝わってパイプが伸び、参拝者の柏手の音が本殿に届くようになっています。

⑤銀座出世地蔵尊(銀座4-6 三越屋上)

「銀座八丁神社めぐり」の集印帳には、各札所のご利益が載っている。

銀座出世地蔵のご利益は、「祈願して成就せざるなし」である。

なんでもOK、オールマイティなのだ。

いかにも百貨店の祈願所にふさわしい売り文句ではないか。

 

その全能地蔵尊はデパートの屋上の、かなり広い霊域に安置されておわす。

二つの祠と丸彫りの地蔵立像が横並びにある。

中央の祠のなかに銀座出世地蔵尊。

柏手を打つ人もいる。

前の人がそうすると後ろの人も真似る。

地蔵は赤子を抱いている。

子安地蔵のようでもあるのが意外です。

銀座出世地蔵尊の由緒と三越屋上に安置されるまでの経緯を書くつもりでいたが、解説版に詳しいのて、こちらに委ねます。

 

出世地蔵尊が三十間堀の川岸にあったことは、地図でも確認できる。

 

地図左下の地図マークをクリック、古地図から明治を選択すると明治時代の銀座になる。

二重橋の近くに出世地蔵がある。

旭橋袂には、四番札所朝日稲荷があったはずです。

明治、大正、昭和初期の銀座回顧談には、出世地蔵の縁日が必ず登場します。 

      銀座出世地蔵の縁日(『婦人画報』)

縁日の晩は六時ごろから九時ごろまでは、地蔵堂に参詣する善男善女が狭い路地を往復して、さい銭をあげて礼拝するもの、引きも切らぬ状態で、なかなか往来もできないほどこみあったものである。この日には露店が沢山出店した。銀座四丁目側は、三越から三原橋まで、これを左折して銀座三丁目の北橋まで、また銀座五丁目はライオンの横から三原橋まで、これを右折して木挽町まで、数百の露店が出たものだった」(保坂幸治「銀座地蔵様の縁日」『銀座百点1955.05)所載』 

    銀座の夜店(「中央区のお知らせ」より)

三越屋上の解説版でも出世地蔵の由緒はいくつもあり、詳細は不明とあるが、私が好きな説は次のような話。

昔は縁日が盛んだった。なんといっても印象の深いのは、三十間堀に近い出世地蔵である。毎月、7日、18日、29日と露店の出る日が一日ずつ出世するところから、その名がつけられたということは、幼いころ母から聞いた話である」(多賀義勝『大正の銀座赤坂昭和52年』

出世魚は知っていたが、出世地蔵は知らなかった。

面白い。

⑥宝堂稲荷神社(銀座4-3) 

 宝童稲荷へは、和光から数寄屋橋へ向かい、二本目の道を右折、うなぎ屋の路地を左、つき当たりを右に回るのが通常のコース。

どこをどう間違ったのか、逆から路地に入ってしまった。

路地というには、広く、小奇麗で、路地裏に付き物の猥雑感がない。

正面ビルのエアコン室外機の無機質な直列と神社の取り合わせの妙がいい。

過去と未来が同居する場所の魚河岸料理はどんな味か、今度、行ってみよう。

祠はビルの一画をえぐったようにある。

集印帳には「良縁の成就、健やかな子どもの成長にご利益があると伝えられる子育て稲荷」とあります。

地蔵はなんでも受け入れてくれるが、稲荷も負けていない。

さすが馬の糞と同じほど多いとされた稲荷社、大抵の願いは叶うことになっているようだ。

町会のテントで受付をしている男に訊いた。

「氏子は何人くらいいるんですか?」。

返事がない。

どうやら氏子という言葉が通じなかったようだ。

宝童稲荷神社の未来は明るくはなさそうだ。

⑦あづま稲荷神社(銀座5-9)

 晴海通りから左折してあづま通りへ。

朱色の「あづま稲荷大明神」の幟が道の両側にはためいている。

七番札所あづま稲荷神社は、三原小路を入ってすぐ左に。

戦後、あづま通りに火災が続発した。

古老の話で、かつてこの地に稲荷社があったことが判り、伏見稲荷から勧請してお稲荷さんを作った。

以後、ぴたりと火事が起きることはなくなった。

これがあづま稲荷神社の由緒です。

終戦後、昭和20年代前半のことなので、由緒は史実だと思われます。

しかし、稲荷社があったのはいつのことか、それは果たして、お稲荷さんだったのか、そのあたりは不明のままです。

そうしたことに頓着なく、あったとすれば稲荷社だ、と誰もが認めるほど稲荷信仰が銀座に定着していたことは興味深い。

神社の扁額には「東稲荷大明神」とある。

「ひがし」ではなく「あづま」と読むのはなぜか、ヒントはあづま通りの呉服屋のご主人の回顧談にありました。

あづま通りに来ましたのは昭和27年です。そのころはあづま通りは東(ひがし)通と言っておりましたが、先代たちがそれでは具合が悪いから、何か良い名前がないかということで、新橋の花柳界で年1回4月にあづま踊りという踊りをやっていた関係であづまと言う名称に変えました

 (第133回J.I.フォーラム 銀座もピンチ!2008.08.27) http://kosonippon.org/forum/cont.php?m_forum_cd=210&cont_type=2

 ⑧護稲荷神社(銀座6-10松坂屋屋上)

護(かくご)稲荷神社は、参拝不可。

松坂屋銀座店が改築のため、現在、閉館中だからです。

 

スケジュール問い合わせのため銀座祭本部に電話した際、「今年は改築中が多くて、めぐる神社は7社だけ。30分もあれば回れますよ」と言われたことを思い出します。

読めもしないし、ましてや意味も分からない、護(かくご)稲荷神社は防火の神だという。

Makoto law staff report「銀座八丁神社めぐり」より借用

護(かくご)稲荷大明神由来記のさわりを載せておく。

大明神は霊験洵に顕にして特に火防の神として世々付近住民の難を救わせ給へる事一再に止まらず近き例に徴するも去る大正十二年九月関東大震災亦大正十三年三月日暮里の大火に當既に危く見えたるにも拘らず神域社殿はもちろん松坂屋舎宅の総て無事なるを得たるは今尚世人の耳目に新たなる所なり」。

こ利益の大なること衆目の一致する所らしい。

火災保険代わりに、デパートで売り出してみてはどうか。

 

⑨成功稲荷神社(銀座7-5)

銀座には企業の本社が多い。

屋上に社殿を祀っている企業は、三越、松屋、松坂屋のデパートの他に、ポーラ化粧品、大和交通、大阪電気暖房、東映、資生堂などがある。(石井研士『銀座の神々』より)

企業神として代表的なものは、資生堂の成功稲荷であろうか。

本店屋上に祀られていて、いつもは非公開。

しかし、銀座祭の期間中、1階社屋前に仮本殿を設けて、参拝者を受け入れてきました。

本店ビル改築のため、2010年から、仮本殿は設けられませんでした。

今年は10月に新社屋がオープンしたので、11月の銀座祭には参拝できるのかなと思っていたが、ダメでした。

資生堂に訊いたら、新社屋は完成したが、屋上への神社の遷座はまだ行われていないとのこと。

来年の銀座祭参加については、現段階で不明だという。

成功稲荷とは、企業神として、直截的でそのものズバリのネーミングである。

初代社長が豊川稲荷から勧請したのだそうだが、成功稲荷という名前は既にあったのか、それとも資生堂でつけたのだろうか。

資生堂が出した由緒には、その後「成功するにはお金を貯めることが大事ということで満金龍神と称した」とある。

成功稲荷を以てしても十分な成功を得られなかったということか。

そして、満金龍神と改名したというのだから、成功稲荷の神名も会社がつけたものと思われます。

 

⑩豊岩稲荷神社(銀座7-8)

 「そそり立つビルとビルの間の薄暗い路地。ゴミのポリバケツが入り口を塞いでいる。通路の奥に裸電球に弱弱しく浮かび上がる小さな祠。よどんだ空気は変化を拒んで、そこだけが時の流れから取り残されたようだ」。

銀座の祠のイメージというとこんなとこか。

そして、豊岩稲荷神社は、まさにこんなイメージにぴったりなのです。

銀座八丁神社めぐりのブログは多い。

どのブログも豊岩稲荷神社には、力が入っているようです。

都市と土着、明と暗、未来と過去、合理、非合理・・・

いろんな二項対立がそこには感じ取れて、何か書かずにはいられない、そんなところでしょうか。

想像力を刺激された作家もいるようで、豊岩稲荷が舞台のミステリー小説もあるとか。

絵になりやすいから、写真は力作揃いです。

ただ、撮影場所が狭くて、いいアングルが取りにくい。

でも被写体としては、魅力的だからついつい頑張ってしまう。

その頑張りが写真に読み取れてほほえましい。

ただし、私の写真は、頑張ったものではない、念のため。

 

地上げという言葉は、今や死語になったようですが、バブルの頃はこの言葉を耳にしない日はありませんでした。

銀座は、地上げが猛威を振るった場所の一つです。

日があたらない猫の額ほどの土地とはいえ、そこは銀座、豊岩稲荷神社も地上げの波に翻弄されました。

ことをややこしくした原因の一つは、神社は町会の管理のもとにあったが、土地は借地だったことにあります。

地上げに対抗して、銀座七丁目町会は、社殿の保存登記を急ぎます。

地上げは土地ころがしを伴い、土地の所有者は次々と変わりました。

その都度、町会は4つの条件を保証するよう所有権者に要求します。

1、社殿は1階に。屋根の上は天空であること。
2、社殿までの参道の確保。
3、賃料は永代無料。
4、将来社地獲得について保証すること。

豊岩神社がマスコミに登場したのは、あの会社が土地を買ったからでした。

あの会社とは、「ファースト・ファイナンス」。

いわゆる「リクルート事件」で、リクルート・コスモス社の未公開株を譲渡した相手先への融資を行った金融機関です。

タイトルは「『稲荷』まで買った『江副』のターゲット」(『FOCUS』1988.11.18)

豊岩稲荷の写真つき記事は「今、江副氏が苦境にあるのは、お稲荷様の祟り?」と皮肉っている。

結局、所有権はファースト・ファイナンスの手から離れ、新しい所有者との話し合いで、上記4か条のほか、社殿の改築費用は事業者負担とすることが認められます。

平成5年、新社殿が完成し、遷座祭が挙行された。

 

                      お供えのあぶらげ

境内地は昔の場所そのまま、やや狭くなっています。

 

これで「平成25年銀座八丁神社めぐり」は終了。

去年まで参加していた八丁目の「八官神社」は、今年はなぜか不参加。

    八官神社(銀座八丁目)

集印帳には「来年は6丁目三輪神社、4丁目歌舞伎稲荷神社」の参加を検討しています」とある。

銀座の神社めぐりを楽しみにしている人には、朗報だろう。

空が暗くなったと思ったら、小雨が降りだした。

7か所のスタンプを押した集印帳を濡らさないように注意して、ソニービルへ急ぐ。

集印帳を見せて、来年の干支の午の土鈴をいただく。

      スタンプを押した集印帳

  記念品の午の土鈴

5000個用意してあるが、3日間の会期途中でなくなるという。

 

「銀座八丁の神社めぐり」だが、私の感じでは「祠めぐり」。

寺ではないから神社ではあるが、こうした祠を神社と呼ぶのなら、板橋区の神社数はべらぼうな数になるだろう。

昔の農家の庭には必ずと言っていいほど稲荷社があるからです。

銀座には、神社も寺もありません。

江戸幕府が認めなかったからです。

それでも路地の地蔵はお目こぼしされました。

稲荷社も同じです。

小さい、取るに足らない存在ではあっても、潰されずに存続し続けたのは、なぜか。

信仰心の篤さもあるでしょうが、最大要因は祟りではないでしょうか。

取り壊せば、祟りがある。

「祟りなんてありっこないよ」、そう笑い飛ばせる人がいなかったから、祠は保持されてきました。

日本を代表する近代都市銀座に、未だ祟りが息づいているそのことを感じ取ったのが、今回の神社めぐりの収穫でした。

≪参考図書≫

○石井研士『銀座の神々』1994

○多賀義勝『大正の銀座赤坂』昭和52年

○長谷川佳『銀座には川と橋があった』昭和59年

○銀芽会『銀座わが街』昭和50年

○藤田雄三『真銀座八丁』1978

○岡本哲志『銀座を歩く』2009

○石丸雄司『私の銀座風俗史』2003

○瀬田兼丸『遠ざかる大正私の銀座』1986

○平野威馬雄『銀座物語』昭和58年

○鈴木真砂女『お稲荷さんの路地』、『銀座に生きる』

 


 

 

 

 


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